
「ハァ・・・はっ!・・・ハァ・・・!」
飛び出した彼は無我夢中で走っていた。
途中何度も人にぶつかるが気にせず走る。
背後から聞こえる罵声。
自分に向けられたものと分かっていても、謝罪をする気にはなれない。
今はただ遠くへ、この恐怖から逃げたかった。
彼はひたすらに走り続けた。
暫くすると人の影がなくなり木々だけが目に映るようになる。
彼は速度を緩め、傍にあった木に背中を預け寄り掛かる。
体が疲れを訴えている。
それだけ走っていたのだろう。
荒くなった息。
頭が痛い。
体が重い。
気分が悪い。
背を木に寄り掛けたまま、彼はその根本に座り込んだ。
目を瞑って、恐怖を心から振り払う。
いつか誰かに教わった気がする心の鎮め方。
どこで覚えたか、自分でも分からない。
だけど、それを行うことで安らいでいく神経の昂り。
いくらか落ち着いた彼は耳を澄ませる。
人々の声は耳に届かない。
独り。
冷めていく心、醒めていく頭。
先程の事がまるで嘘のように思えるほど穏やかに、ゆっくりと彼は今朝の出来事を振り返る。
何故走っていた?
何故恐怖に駆られた?
それは知らない誰かが自分の名前を知っていたから。知らない場所に名前を知っている人がいたから・・・。
「・・・・・・?」
名前を知っている?人がいた?
何故名前を知っている?
先程の心の鎮め方のように。
どこかで誰かが教えてくれた気がする。
その誰かが、
自分の名前を・・・。
「紅苑さん」
呼んだ。
呼ばれた。
目を開いて顔を上げる。
目の前に少女はいた。
自分の名を呼ぶ彼女の名前を・・・自分は知っている。
「・・・・・・杏架?」
「はい・・・」
名前を呼ぶと、杏架は力無く答え、その場に倒れ込んできた。
慌てて腕を伸ばしそれを受け止めると、杏架は自分の胸にぐったりと顔を預けてくる。
見れば顔は真っ赤で、額にはじんわりと汗が浮かんでいた。
そこで自分が宿からこの林まで全力疾走だったことを思い出す。
杏架はその小さな体で飛び出した自分を追いかけ、走ったのだろう。
男の自分も疲れた道のりを、少女が疲れないわけがない。
腕の中で荒い息をつく杏架。
紅苑はそんな彼女を労うように、小さな頭をゆっくり撫でてやった。
暫く頭を撫でてやる内にに調子が戻ってきたのか、杏架は紅苑の胸においていた頭を上げる。
「落ち着いたか?」
「・・・?」
声を掛けると杏架は驚いたような顔を此方に向けた。
「戻ってる?」
「ん?」
「紅苑さんも落ち着きました?」
彼女が朝のことを言っているのがわかり紅苑は「あぁ」と返事をした。
「もう・・・大丈夫だ」
「良かった!」
パァと輝く少女の顔。
そんな杏架を見て紅苑も思わず微笑んだ。
「でも、何で紅苑さんはあんなことを言ったんですか?」
当然の疑問に朝の混沌とした感情が蘇ってくる。
同時に生まれる不安。
自分に起きた小さな変化に紅苑は顔を伏せる。
「ごめんなさい・・・聞かない方が良かったかな?」
それを見た杏架が不安気に言う。
それに彼は首を振り。
伏せた顔を彼女に向けた。
暫く黙る紅苑。
言いにくいのか、迷っているのか。
けれど、それでも彼は静かに唇を開いた。
「俺は・・・昨日のことを覚えていない」
「・・・え?」
紅苑の口から出た予想もしなかった言葉。
「いつもそうなんだ・・・。
朝になると・・・俺はいつも昨日のことを全て忘れている。それ以前のことも・・・何一つ覚えていない、分かるのは自分の名前だけ・・・。
だが今日、何故か杏架のことは覚えていた。
俺は・・・自分が、分からない・・・」
何故全てを忘れてしまうのか?
何故杏架のことだけ覚えているのか?
再び黙り、顔を伏せる紅苑。
沈黙。
けれど重い空気の流れる場で、彼女は言った。
「だったら、私が覚えててあげる」
「・・・なに?」
少女の言葉に耳を疑う。
「だから、紅苑さんが昨日のことを忘れてしまうなら、私が昨日のことを覚えててあげる!そして紅苑さんに全部教えてあげる!
これからは・・・私が全部、全部覚えてる!」
言って杏架は笑った。
何よりも明るく。
「だが・・・俺は・・・お前のことも忘れてしまうかもしれないぞ?」
「だったらその度にまた私のことを教えてあげる!」
杏架は力強く紅苑に言った。
それは不確かなもの。
いつどんな可能性で消えてしまうか分からない脆弱な言葉。
だけど何よりも確かな信頼の言葉。
それは喪い続ける彼に初めて与えられたもの。
だから彼は、
「ありがとう・・・杏架」
彼女に礼を言う。
少女はくすぐったそうにして、青年に一番の笑顔をあげた。
一つの、確かな約束の証を。
