-喪失・約束・ハジマリ-2



「ハァ・・・はっ!・・・ハァ・・・!」

飛び出した彼は無我夢中で走っていた。
途中何度も人にぶつかるが気にせず走る。

背後から聞こえる罵声。
自分に向けられたものと分かっていても、謝罪をする気にはなれない。

今はただ遠くへ、この恐怖から逃げたかった。
彼はひたすらに走り続けた。


暫くすると人の影がなくなり木々だけが目に映るようになる。

彼は速度を緩め、傍にあった木に背中を預け寄り掛かる。

体が疲れを訴えている。
それだけ走っていたのだろう。
荒くなった息。

頭が痛い。
体が重い。
気分が悪い。


背を木に寄り掛けたまま、彼はその根本に座り込んだ。

目を瞑って、恐怖を心から振り払う。

いつか誰かに教わった気がする心の鎮め方。
どこで覚えたか、自分でも分からない。
だけど、それを行うことで安らいでいく神経の昂り。

いくらか落ち着いた彼は耳を澄ませる。
人々の声は耳に届かない。

独り。

冷めていく心、醒めていく頭。

先程の事がまるで嘘のように思えるほど穏やかに、ゆっくりと彼は今朝の出来事を振り返る。


何故走っていた?

何故恐怖に駆られた?

それは知らない誰かが自分の名前を知っていたから。知らない場所に名前を知っている人がいたから・・・。


「・・・・・・?」


名前を知っている?人がいた?
何故名前を知っている?

先程の心の鎮め方のように。
どこかで誰かが教えてくれた気がする。

その誰かが、

自分の名前を・・・。



「紅苑さん」


呼んだ。

呼ばれた。


目を開いて顔を上げる。

目の前に少女はいた。


自分の名を呼ぶ彼女の名前を・・・自分は知っている。


「・・・・・・杏架?」

「はい・・・」

名前を呼ぶと、杏架は力無く答え、その場に倒れ込んできた。
慌てて腕を伸ばしそれを受け止めると、杏架は自分の胸にぐったりと顔を預けてくる。
見れば顔は真っ赤で、額にはじんわりと汗が浮かんでいた。


そこで自分が宿からこの林まで全力疾走だったことを思い出す。

杏架はその小さな体で飛び出した自分を追いかけ、走ったのだろう。

男の自分も疲れた道のりを、少女が疲れないわけがない。

腕の中で荒い息をつく杏架。
紅苑はそんな彼女を労うように、小さな頭をゆっくり撫でてやった。


暫く頭を撫でてやる内にに調子が戻ってきたのか、杏架は紅苑の胸においていた頭を上げる。


「落ち着いたか?」

「・・・?」

声を掛けると杏架は驚いたような顔を此方に向けた。


「戻ってる?」

「ん?」

「紅苑さんも落ち着きました?」

彼女が朝のことを言っているのがわかり紅苑は「あぁ」と返事をした。


「もう・・・大丈夫だ」
「良かった!」

パァと輝く少女の顔。
そんな杏架を見て紅苑も思わず微笑んだ。


「でも、何で紅苑さんはあんなことを言ったんですか?」


当然の疑問に朝の混沌とした感情が蘇ってくる。
同時に生まれる不安。
自分に起きた小さな変化に紅苑は顔を伏せる。

「ごめんなさい・・・聞かない方が良かったかな?」

それを見た杏架が不安気に言う。

それに彼は首を振り。
伏せた顔を彼女に向けた。

暫く黙る紅苑。
言いにくいのか、迷っているのか。
けれど、それでも彼は静かに唇を開いた。


「俺は・・・昨日のことを覚えていない」

「・・・え?」

紅苑の口から出た予想もしなかった言葉。


「いつもそうなんだ・・・。
朝になると・・・俺はいつも昨日のことを全て忘れている。それ以前のことも・・・何一つ覚えていない、分かるのは自分の名前だけ・・・。
だが今日、何故か杏架のことは覚えていた。
俺は・・・自分が、分からない・・・」

何故全てを忘れてしまうのか?
何故杏架のことだけ覚えているのか?

再び黙り、顔を伏せる紅苑。

沈黙。

けれど重い空気の流れる場で、彼女は言った。


「だったら、私が覚えててあげる」


「・・・なに?」

少女の言葉に耳を疑う。


「だから、紅苑さんが昨日のことを忘れてしまうなら、私が昨日のことを覚えててあげる!そして紅苑さんに全部教えてあげる!
これからは・・・私が全部、全部覚えてる!」


言って杏架は笑った。
何よりも明るく。


「だが・・・俺は・・・お前のことも忘れてしまうかもしれないぞ?」

「だったらその度にまた私のことを教えてあげる!」


杏架は力強く紅苑に言った。

それは不確かなもの。
いつどんな可能性で消えてしまうか分からない脆弱な言葉。
だけど何よりも確かな信頼の言葉。

それは喪い続ける彼に初めて与えられたもの。

だから彼は、


「ありがとう・・・杏架」

彼女に礼を言う。

少女はくすぐったそうにして、青年に一番の笑顔をあげた。


一つの、確かな約束の証を。




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