
その宿屋は決して繁盛しているわけではない。
満室になったことなど営業開始から見ても数える程度だ。
しかし、その宿屋は決して経営危機にさらされる事はない。
それは器量良しの女将の存在が大きく、旅人は彼女の温かさに必ず礼を言う。
ホラ、今日も。
朝から可愛いお礼の言葉。
「ありがとうございますっ!」
ぺこりと深く頭を下げ、少女は大きな声でお礼を言った。
「ほほほ、さぁさたーんとお食べな」
「はい!」
彼女達が居るのは宿屋内の食堂。
朝早くからロビーで腹の虫を鳴らした少女に女将が食事を与えている。
そんな女将の好意に茶色の髪の愛らしい少女―杏架は、幸せそうな顔で食事を頬張るのであった。
「ところで杏架ちゃん、彼はまだ起きてないの?」
「彼?・・・あ、紅苑さんですか?」
「そうそう、その紅苑さん」
「んー・・・お部屋が別々だから分からないけど、多分まだ寝てるかな?」
紅苑は杏架にとって命の恩人(?)のような存在の青年のことだ。
森で(何故か)倒れていた自分を助け、おまけに彼が泊まる宿に、自分も泊まれるように手配してくれたのである。
杏架としてはそんな優しい彼に直ぐにでも恩返しをしたいのだが、当の本人が起きていないのでまだ実行できていない。
女将はそうと呟いて何度か頷くと「そろそろロビーの掃除をしなきゃね」と言って立ち上がった。
「じゃあ杏架ちゃん、ゆっくりお食べよ」
「はーい!」
杏架の元気な返事が朝の食堂に響いた。
「えっと・・・これでいいんだよね」
食べ終わった食器を片付けながら杏架は呟く。
女将の料理はどれも美味しく、杏架の頬は満足感から緩みきっていた。
そんな夢気分のまま片付けを終え、彼女は食堂から出る扉へ向かう。
それと同時に扉の向こうから聞こえる声。
『あらあら!嘉戯さんおはようございます!よくお休みになられた?』
嘉戯――。
それは確か命の恩人である彼の名字だったはず。
「紅苑さん起きたんだ!」
早速昨日のお礼を言わなきゃと、逸る気持ちで扉を開ける。
しかし彼女の目に映った彼は、予想と遥かに掛け離れた表情を浮かべていた。
「・・・・・・!」
紅苑はロビーで掃除をしていたであろう女将と向かい合っていた。
しかしその顔は驚きどこか怯えたように歪んでいる。
どうしたんだろう?
女将は唯、朝の挨拶をしただけなのに。
なのに何故彼はあんな怖い顔をしているのか・・・杏架にはわからなかった。
女将の方もそうなのだろう。
首を傾げ「何か気に障ってしまったのかしら」という顔で紅苑を見ている。
「あの・・・どうかいたしましたか?嘉戯さん?」
女将の柔らかい声にビクリと肩を揺らし一層顔を歪める紅苑。
そして・・・。
「・・・お前は・・・誰だ?」
「え・・・・・・?」
紅苑から発せられた信じられない言葉。
何を・・・言っているの?
彼とは考えられない表情、言葉に杏架は戸惑う。
昨日も自分の言葉に驚きの表情を見せたが、あんなに顔を歪めたりしなかった。
人を気遣えるしっかりた人なのにどうしてあんなことを・・・。
困惑していると紅苑は女将から距離を取り、まるで逃げるかのように動き出す。
「なんで俺を知っている?なんで俺の名前を知っている?誰だ?誰だ?お前は誰だ?誰だ?誰だ?誰だ!?」
悲痛な声を上げる彼は、その歪んだ顔を女将に向けたまま徐々に宿の出口へと足を進める。
『このままじゃ出ていっちゃう!』
咄嗟にそう判断した杏架は一度頭を振ってから、意を決して彼の名を呼ぶ。
「紅苑さん!」
「!?」
声に反応して自分に向けられる彼の視線、歪んだ顔。
真正面から見たその表情の酷さに杏架は固まる。
先ほどの悲痛な声を思いだし、それ以上の言葉を紡げない。
だがそれは数秒のことだった。
彼の表情が変化する。
驚いているが、どこか安心したような・・・。
昨日自分の言葉に驚いていた時と同じ顔。
「けい・・・あ、きょう・・・か・・・?」
力無く、だけど彼口から発される自分の名。
しかし急なことで杏架は一瞬、反応が遅れてしまう。
その間にまた、彼の表情が変化した。
「あ・・・ちが・・・あ・・・な・・・」
今度は自分の言葉に驚き混乱する紅苑。
取り乱し、視線をさ迷わせる。
そのままふらついた彼は背を壁にぶつけてしまう。
同時に部屋に響くリリンッという高い音。
それは宿の出入口に取り付けられたベルの音、彼がぶつかったのはその扉。
それに気づいた紅苑は、
「あっ!紅苑さん!」
今までの驚愕、怯え、混乱からまるで逃げるかのように宿から飛び出していった。
