世界って、なんてツマラナイんだろう。
漠然とそんなことを考えていた時期があった。
物心ついた頃からじいちゃんと二人きり。
周りは皆父さんだ、母さんだと話すのに、俺にはそう呼べる人がいなかった。
「じや、おれのとうさんとかあさんはドコ?」
「おめぇのおっとぉとおっかぁは天国に行ったんだよ」
「てんごくって、なに?」
「お空の上にある死んだ人の行く世界だ。みぃんながいつか行く遠い遠い国だよ」
「おれもいけるの?」
「リシトが兄ちゃんになって、父ちゃんになって、じやみたいになったらなぁ」
それを聞いて「ズルい」と思った。
皆はいつだって“父さん”と“母さん”に会えるのに、おれはじいちゃんみたいにならなきゃ会えない。
「ズルい」
思いながら過ごす日々は言葉で溢れる。
一昨日、皆で町にいった。
昨日、父さんと山へいった。
今日、母さんと買い物にいく。
明日は、明後日は、明明後日は……。
ツマラナイな。
全部全部、ツマラナイ。
ツマラナイよ。
「リシト、おいで」
ある日じいちゃんに連れられて、お隣の家に行った。
おばさんは前からお腹が膨らんでて、おじさんからはこの中に赤ちゃんがいるんだと教えられた。
もうすぐ、赤ちゃんが生まれるかもしれない。
バタバタと近所のおばさんが右に行ったり左へ行ったり。
おばさんがいるという部屋の入り口はカーテンがかけられて、中を見ることができなくなっていた。
時折、カーテンの向こうから苦しそうな呻き声が響く。
「リシトが生まれたときを思い出すのぉ」
隣にいるじいちゃんがポツリと呟いた。
「おれが生まれたとき?おれもこんなかんじでおばさんたち、バタバタしてた?」
「大慌てじゃよ……とぉちゃんも落ち着かなくてなぁ、ハッハッハ」
「……生まれてくる子、男の子?女の子?」
「さぁてなぁ……まぁ、どちらにせよ、リシトが兄ちゃんになることに変わりはないがな」
「にいちゃん?」
ビックリしてじいちゃんを仰ぎ見た。じいちゃんはそんなおれを不思議そうに見下ろしてくる。
「どうした?リシト」
「……おれ、おじさんとおばさんちの子じゃないよ?」
「そりゃあそうとも。リシトはわしの娘の子。じやの孫じゃ。だけど、リシトはこれから生まれてくる子よりおっきいじゃろう」
「うん……」
「なら、リシトは兄ちゃんになるんだ」
なぁと皺の寄った目尻にさらにたくさん皺を作りながらじいちゃんは笑った。
ヨボヨボでしわくちゃな手に頭を撫でられながら、おれは不思議な気持ちになった。
ずっと、兄というのは家族の人にだけ使う言葉だと思ってた。
だけど、別に家族じゃない人に使ったっていいのだ。
お隣さんの、全く関係のないお兄ちゃん。
なんだ、そんなことでいいんだ。
特別な人を作るのは、難しいことじゃないんだ。
思ったら、もうできるものなんだ。
おれには“父さん”“母さん”と呼べる人はいないけど、それでもいいんじゃないか。
呼べなくたって、特別な人は傍にいるじゃないか。
急に色んなことがスッキリして、おれはじいちゃんの大きくて細い手をぎゅっと握った。
『生まれたよ!元気な男の子!』
しばらく待ってたら、震えた鳴き声と一緒に近所のおばさんが叫ぶのが聞こえた。
お隣のおじさんの嬉しそうな声が聞こえる。
じいちゃんと待っていると、部屋を遮っていたカーテンが開いておじさんに手招きされた。
はやる気持ちで部屋に入ると、ベッドの上でおばさんが布の塊を大事そうに抱いているのが目に入る。
じいちゃんと二人でベッドに寄っていったら、おばさんが嬉しそうな顔をこちらに向けた。
「リシトくん、見てごらん」
おばさんがゆっくり布の塊をこちらに近づける。
つま先立ちになって布を覗き込むと、じいちゃんみたいにしわくちゃな小さい顔があった。
思わずその顔を見つめる。
くちゃくちゃで、小さい小さい顔なのに、目と鼻と口はやたら大きい。
頭にうっすら生えてる髪はめちゃくちゃ細くて、引っ張ったら簡単に抜けてしまいそうだ。
不意に赤ちゃんが体をよじった。
布からこれまた小さい手がぴょんと飛び出す。
「リシトくん、握手してあげて」
おばさんが言う。
恐る恐る手を握ってみた。
おれよりの手のひらにすっぽり収まる小さな手。
あったかくて、ふにふにと柔らかい手。
「良かったねぇ、お兄ちゃんだ」
おばさんが笑った。
おじさんも笑った。
じいちゃんも笑った。
そしておれは、
「おにいちゃん……」
ふわふわと胸があったかくなって、やたら嬉しくなっておれも笑った。
+++
「リシト!!また約束を破ったでしょ!」
静かな川に釣糸を垂らして座り、うつらうつらしていたら、そんな怒声が耳に突き刺さった。
まだ高い声に耳がキーンとなりながら目を開けば、隣に仁王立ちした怖くないチビが一人。
「……何か約束してたっけ?」
「ガーン!存在すら忘れたの!?もうっ!今日は一緒に畑の手伝いしようって話だったでしょ!おじいさんも呆れてたよ!」
「あー……」
頭をポリポリと掻く。
そういえばそんなことを言っていたかもしれない。
興味のないことはすぐに頭から抜けてしまうから困ったものだ。
じいちゃんもいるということは、拳骨の一発はくらうかもしれない。
「とにかく、早く行くから道具を片付けて!」
「へいよー」
急かされながら、微睡んでいたなかでの出来事を思い出す。
チラと隣に目を向けた。
あの日の小さな赤ちゃんは、こんなにもしっかり動いている。
「ネヴィさぁ」
名前を呼べば丸い瞳がこちらに向けられる。
頭の上で、くせっ毛がみょんみょん跳ねた。
「なに?」
「……でかくなったなぁ」
「は?嫌味?」
途端に目付きを険しくするチビが面白くて、頭をポンポンと撫でた。
それすら不服なのかキャンキャン怒りの声を上げだしたので、耳に栓をする。
ああ、世界は今日もなんて穏やかなんだろう。
そんなことを漠然と考えた。
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まだ好奇心というものが薄い頃のリシト。
本気になったらすごいのよ。きっと。