未来永劫、あなたの空を曇らせはしない

始まりはいつも晴天、不安すらもどこにも見当たらず、自分が歩き出す道の先には、努力した分だけ輝く何かがあると確信していた。
道のりはいつも険しい訳じゃない、しかし、順調かと聞かれれば、その手応えはあまり分からず、時折前へと進んで行く足を止めることもあった。
今はどの辺りを、どんな風に歩いているのだろう。
なりたい姿の自分はいつも遠い所にいる、なまえが前へ進めば進むほど、その自分も更に前へと歩いていってしまう。
いつも置き去りにされては、自分の周りに何があるのかを再確認するばかり。
両腕に抱えた大切なものを零さないように、そう努めるだけで手一杯のようだ。
つまり、今は詰んでいるのだろうか。
自分に甘い息抜きを何度も繰り返しても、たまに心が晴れない時がある。
薄く広がった靄をどう払えばいいのかわからないまま、ぼんやりとソファーの背もたれに体の全てを預けていた。
視界は天井の薄暗い白で埋め尽くされている、答えは何も見つけられなかった。


不意に聞こえたのは、どこか雑だと感じる扉を開ける音。
玄関先で靴が転がる音がし、次に廊下からは主張のうるさい足音がこちらへと近付いていた。
あまり遠くないこの部屋にやって来た足音の次は、おっ、と言う少し嬉しそうな誰かの声が訪ねてきた。
そして、なまえと天井との間に割り込むと、視界の大半を占めるように顔を覗かせた。
まずは大きな溜め息、もしかしたら大袈裟な呼吸かもしれない。


「お口が開いとるでぇ、」

声の主は、やっぱり、と言うか、この人しか居ないのだ。
まだ明るい時間帯で、日が差し込んでいるというのに、空間全体を覆う影のような鬱屈さを抱えた、この部屋にやって来るような相手は。

「真島さん、」

背もたれから体を引き取り、上を見続けていたせいでふらつく頭のまま、影に混ざり切らない蛇を見る。
今度は真島が両腕と上半身を背もたれに預けていた。

「なまえちゃんはホンマにお口が緩い子やで、」

その一言にムッとしたなまえは、口元をきつく結んでみせたが、それも次第に解けていき、二度目となる真島の指摘を受けてしまった。

「ほれ、またお口が開いとる、」

ぴっちりと革が張り付く真島の指先が、なまえの上唇と下唇を優しく摘む。
ムッとした感情が、むにっとした感触に上書きされて、唇を摘む指先にほんのりと温かさが込み上げてくる。
さっきまで、ぼんやりとする事しか出来なかった、からっぽに近い胸が少しだけ満たされ、なまえは頼りない自分の手で真島の手を攫って行った。
あまり力の入っていないその手のひらに、真島は黒目を点にして、なまえの顔を覗き込んだり、ずいっと身を乗り出して胸元に耳を寄せたり、自分の指をちらつかせ、これはいくつや、と問い掛けてきたりしている。
終いには革の手のひらが額に触れ、なまえは手袋越しに体温が分かるのだろうかと、されるがまま、真島の一通りの行動が終わるまで待った。

「…調子悪いんか?」

恐る恐る真島が口を開いた。
暫くぶりに話し掛けてきたかと思えば、見た目に似合わず心配性な一言をくれた。
なまえは、そういう訳じゃないです、と返す、ホンマかいな、と疑わしい目で見つめられる。

「ただ、ちょっと、どうしようかなって、」
「どうしよう?…なんの話しや、」

お話してもいいですか、と問えば、しゃあない、吾朗ちゃんが聞いたるわ、と意外と乗り気な返事が返ってきた。
絡まっていた感情の何かが、少しずつ綺麗に巻き取られていくのを感じ、なまえはソファーの裏側にいる真島の隣に腰掛けた。
ソファーの背中は人のものと違って柔らかい、腰掛けたフローリングはソファーと違って柔らかくない。
真島は自分の隣に座るなまえの姿を見て、同じようにその場に腰を下ろす。
フローリングの硬さを臀部に感じながら、なまえはぽつりぽつりと言葉を吐き出していく。



長過ぎたかもしれない話の終わりに、真島は、ほぉん、とだけ口にした。
抱えていた感情を、時間でさえも忘れさせてくれない靄を、言葉にし、声に乗せる。
この胸の内を明かしたのは真島が初めてだった。
多少軽くなった心が照れ臭そうにしている、なまえもそれには同感していた。

ここまで誰かに、自分のありのままを素直に話したことはない、意外とそんな気がしていて、一人密かに頬を掻く。
真島はそんな態度のなまえをまじまじと見つめ、心と同じで軽くなった頭の後頭部に腕を伸ばし、そしてそこを何度か撫でた。
目の前には真面目な顔をした真島、しかし、なまえの後頭部には優しく撫で続ける手のひら。
そのギャップになまえは、真島を呼ぶ。
しかし、返事はなく、ただじっと見つめられ、頭を撫でられている。
瞳がぐるぐると回り出してしまいそうで、なまえは苦し紛れに瞳を閉じた。
ぱちり、と閉ざされた真っ暗な視界で、真島の声が聞こえてきた。

「…何しとんのや、なまえちゃん、」
「真島さんこそ、」

俺は、…あれや、と続けた声音は、落ち着いているのと同時にどこか迷っているように聞こえた。
迷いのせいか、真島の言葉はすぐに繋げられず、妙な間が空き、なまえは閉ざした視界を再び広げる。
そこにあったのは、真面目な顔ではなく、眉を八の字に下げ、小さく唸っている真島の困ったような顔だった。

「真島さんもそんな困った顔、するんですね、」
「なんや、覗き見かいな。なまえちゃんも狡いことするやないか、」
「ち、違いますよ…!たまたま、目を開けたら、」
「わかっとる、」

真島は二度目の大きな溜め息か、呼吸か、わからない空気を吐いた。
そして、なまえの後頭部を撫でたような手つきではないそれで、自分の刈り上げられてスッキリした後頭部を掻いた。
荒々しく、がさつな手つきに、自分のものとはまるで違うと思いながら、その様子を見ていた。

「…なまえちゃんも、こんな小さな頭で色々考えとるんやなァ、」
「それってどういう…、」
「えらい、言うとんのや。もういっぺん言ったろか?」
「い、いえ、あの、間に合ってます、充分です…、」

そうか、そう言うとこもや、と再び頭を撫でる。

「これはなまえちゃんの喧嘩なんやなァ。」
「喧嘩、ですか…?」
「せや。俺の出る幕のない喧嘩をなまえちゃんはしとんねん、自分一人でな。」
「…まあ、確かに私の個人的な話ですしね、」
「それがちぃっとばかし、悔しくてのう…。」

悔しい、と口にした真島の顔は本当に悔しそうで、なまえは寂しさを覚えた。
真島に撫でられた頭は相変わらず浮かれてはいるものの、身軽になった筈の心が寂しいと告げているのだ。
自分の目指す先に真島の姿が無いことに今気付き、なまえは俯く。
そんなつもりでは無いこと、当たり前になってしまっていた真島の存在のことを大切に思っている。
それをもう一度伝えるにはどうすればいいのか、なまえは紡ぐ言葉を見つけられない。


「なぁに、しんみりした顔しとんのや、」
「真島さんの悔しいって言葉が、結構重く来ちゃって、」
「頭で考えんのも大事なんやろうが、なんでもかんでも頭が解決してくれるわけとちゃうやろ。」

『悔しい』を纏っていた真島の姿は既にない。
その代わりに瞳をギラつかせて、ええか、と更に話し出すチャンスを我がものにする。

「確かに今は俺の出る幕のない喧嘩や。せやけどな、俺が面白そうな喧嘩、目の前にして何もせぇへんと思うか?」

そんなことはない、何故ならこの男は大の喧嘩好きで、すぐに手を出してこようとする男だ。
なまえはよく知っている、真島の事を。
そして、僅かに見失っていたのだ、真島の本質を。
曇りがちだった、自分が進みたい道の空が晴れた気がした。

「俺も混ざるでぇ、なまえちゃんの面白そうな喧嘩に、」
「でも、喧嘩なんて大層なものじゃ…、」

本日、三度目の大きな息を体から吐き出すと、真島は突然荒々しく肩を抱き寄せ、二人の距離を物理的に縮める。
好戦的な目は変わらない、火が着いてしまったようだ。

「わかっとる。あくまでも、この喧嘩の主役はなまえちゃんや!せやけど、兵隊もおらんと、盛り上がらんやろ?」

「そんで俺がその兵隊になったんねん。我ながらええ考えやァ、」

表情を曇らせていくなまえの事など、知らぬ存ぜぬと言うように真島はその『ええ考え』とやらを続けて明かしていく。

「なまえちゃんが、しんどなった時が俺の出番や。おんぶなりだっこなり、なんでもしたる。」

「せやから、なまえちゃんは、この喧嘩に納得出来る所までいかなあかんで。俺はそれについて行くだけや。」

真島はそう言って、なまえに笑いかける、なまえは呆気にとられている。

例えが全て喧嘩であるその話を、なまえはぽかんとした顔で聞いていた。
真島も次第に眉間に皺を寄せ始め、話聞いとんのか、と開きっぱなしの唇を摘んだ。
無理に閉ざされた唇のまま、なまえは瞬きを繰り返す。

「…ホンマにお口ゆるゆるやなァ、」

そのままでええ、無理に気張らんと、そのままのなまえちゃんでええ、とまで言ってのけた真島が、なまえの心の隙間を綺麗に埋めてくれたような気がした。
しっかりと重みのある心がまた照れ臭そうにしている、なまえもぼやけ始めた視界を振り切り、今は、こうして口を摘まれた今だけは、真島の事を見ていたい、今はただそれだけで。


「俺がバックにおるって、ごっつう心強いやろ、」

得意げに笑う真島のその言葉に、なまえは軽く頷いた。

いつの間にか見失っていた蛇柄の背中を、ようやく未来の後ろ姿の隣に見つけ、なまえはまた晴天の空の下を歩いて行こうと決意する。
降り注ぐ日差しの中を、彼と一緒に歩いて行こうと。

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