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朝方まで続いたレッスンも、ユリさんからの電話の事で頭がいっぱいで、全く身に入らなくて。
『しあわせになってね、ばいばい』
その言葉を最後に切られた電話があまりに無機質で、状況は理解しているのに心が追いつかない。
ユリさんと離れなければいけなくなる日の事は、キリがないくらいに何度も考えた。
例えばユリさんが子どもを授かったりしたら、彼女は母親として子どもを傷付ける行為なんて絶対にしないだろう。だから、俺とも別れる。
例えばユリさんに他に好きな男が出来たら、その人が、俺よりも自由が効いて、ユリさんが求める時いつだって駆けつけられるような人なら、俺に勝ち目はない。
そして、例えば旦那さんにバレたら、ユリさんの命に関わる事になるかもしれない。その事が1番怖かった。
1番怖かった事が、起こった。
ユリさんは詳しい事は話さなかったけれど、バラすなんて言われているという事は、きっと確実な証拠を手に入れられたんだと思う。
思い当たるのは、あの日だけ。あの、ふたりで桜を見に行った日。
あの日俺があんな事をしなければ。そう思う度に、あの日のユリさんの笑顔が浮かんで、頭がおかしくなりそうだった。
電話越しの震えた声が頭から離れない。きっと、絶対に酷い目に遭ったんだ。
俺が多くを望みすぎたせいでユリさんを傷付けた。もしもあの頃のまま、ただあの店に通って、たまにユリさんと話して。そうして過ごしていれば、こんなに傷付ける事はなかった。あんなに幸せになる事も、なかったけど。こんな事がしたかったんじゃない、だけど、結果は最悪だ。
「………」
解散してスタジオを出て、無意識に歩いてきていたのはユリさんのマンションの近く。
もう会えない。会ってはいけない。分かってる。ちゃんと、分かってる。
ユリさんの部屋を見上げる。もしかしたら今だって痛んで泣いているかもしれない。今すぐに会いたい。どうしても、会いたい。会って抱きしめて、愛してると伝えたい。
ああ、なんで
なんでこんな事になっちゃったんだろう。俺達が出会わなければ、俺がユリさんを好きにならなければ、こんな気持ちにならずに済んだのかな。
『こころくん、ありがとう』
『大好きだよ、こころくん』
『幸せなの、今。人生で初めて、幸せ。』
「っ……」
俺達は何もかもを間違えていたのに、頭を過ぎる思い出達はあまりにも綺麗なものばかりで、後悔したくても、仕切れるはずがない。
ねえユリさん、会いたいです。
「っ!」
見上げていたユリさんの部屋。ゆっくりと窓が開いてバルコニーに現れた人影は、間違いなく彼女で。
遠目にも分かる顔の痣に、思わず縺れるようにして足が進む。
何度も見てきた彼女の傷。真っ白な肌に浮かぶそれに慣れる事はなかった。どうしてあんな事が出来るのか、1ミリも理解出来なかった。
虚な表情で空を見る横顔をただただ見つめる。
そっか。今のこの空の色、ユリさんが一番大好きな景色ですよね。少しは、気持ちが落ち着くかな。いや、たかがそんな事では何も変わらないかな。
こんな景色を窓の内側から一緒に見た事、覚えてますか?あの瞬間も、俺はあなたの事が堪らなく愛おしくて、堪らなく幸せでした。ユリさんはあの時、俺の腕の中で、何を考えてあの景色を見てたんだろう。例えば今、ユリさんも俺の事考えてくれたりしてんのかな。
『………、…っ』
「あ、」
徐に顔を動かしたユリさんと、目が合った。
彼女は大きな目を見開いて、そして、途端に顔を歪ませて、泣いた。
「っ、」
泣かないで、泣かないでユリさん。ごめんなさい。
こうなる原因を作ってしまった事も、今此処に来てしまった事も、全部全部、ごめんなさい。
今すぐに抱き締めたい。彼女が好きで好きで堪らない。触れて気持ちを伝えたい。
だけどもう、それらはひとつだって叶わない。
溢れそうな涙を必死に堪えて、爪が食い込むくらい拳を握る。
ユリさん、好きです。
出会ったあの瞬間からずっと、俺はあなたに夢中でした。自分の立場もユリさんの立場も分かってたのに、止められなかった。
だって、もう無いと思ったんです。こんなに人を好きになる事。
人を愛する事を、そして、愛する人と過ごす時間の優しさと幸せを、ユリさんが教えてくれました。
俺、ちゃんと夢を叶えます。あなたを想いながらだったら俺はどんな歌だって、どれだけだって歌える。だから俺があなたへの想いを抱えていくことは、どうか許してください。だってこんなの、簡単に諦められるはずがない。あなたが俺の中から居なくなるなんて、ありえないから。
優しいあなたはきっと自分を責めてるんでしょう?自分を責める事と人を大切にする事ばかり上手で、頼る事も泣く事も下手くそで。
ユリさん、俺は大丈夫だから。あなたは俺の想いを受け止めて、叶えてくれた。隣で幸せだと笑ってくれた。俺も、幸せでした。
だからどうか、もう泣かないで。
唇を噛み締めて、そして、
笑って、大きく手を振った。
彼女はそんな俺を見てまたさらに泣きじゃくって、必死に服の袖で涙を拭いながら、手を振り返してくれた。
何度も、何度も強く拭って、やっと、笑ってくれた。
「っ…」
ただ、その笑顔の傍に、ずっと居たかった。
花が咲くような、綻ぶような笑顔。
そう。そうやって、笑っていて。俺は大丈夫だから。
大丈夫だよユリさん。この世界にあなたを愛してる人間は、確かに、此処に居るから。だからもうあんな事言わないで。寂しくならないで。離れても、絶対にあなたをひとりにはしないよ。
そんな思いを込めて頷くと、相変わらず涙を拭い続けながら笑うユリさんも何度か小さく頷いた。そして、泣き崩れるようにずるずると座り込んで、その姿は見えなくなってしまった。
「っ……ふ、…ユリさ…っ」
さようなら、俺の愛しい人。
とうとう流れた涙を拭う事もなく、ただ、ユリさんのこれからが少しでも明るい事を願って。ユリさんの好きな景色の中、背を向けた。
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