ジョングクと暮らすようになってもうすぐ半年が経つ。

出会った日に言ったように、彼は本当に指ひとつ触れてくる事はなかった。
ジョングクの仕事は曜日や時間は関係ないようだった。というか、休みという休みはなく、家で過ごす時間も僅かだ。
朝出掛けて夜に帰ってきたと思えば、また早朝から出ていってしまう事もザラにある。丸1日家で一緒に居たのは、この半年で片手で数えられる程度だった。

自分の事を話してくれるジョングクのおかげで、少しずつ彼の事が分かってきた。
出身は釜山だという事、黒の服をよく着る事、とにかくよく食べる事、寝起きが悪い事、たまに口ずさむ歌がびっくりするくらいに上手な事、筋トレが趣味な事。
ジョングクの大きな丸目に見つめられるとなんだかざわざわするし、くしゃっと笑う顔を見ると気持ちが和らぐ。



「ユリー!」



ジョングクの元気な声が聞こえて玄関に行くと、靴を脱いでいた彼がぱっと顔を上げて弾けるような笑顔になる。



『おかえりなさい』


「んは、ただいま。」



すこぶる機嫌の良さそうなジョングクに無意識に首を傾げる。



「なんか出迎えてほしくて名前呼んじゃった。ごめんね、びっくりした?」


『ううん、大丈夫だよ。』



甘く笑うジョングク。
彼にとって私は、謂わばペットのようなものだろうか。
ペットでもなんでもいい、彼とこうして一緒に過ごせるのならなんでも。
いつからかそう思うようになっていた。
我ながら呆れたものだ。
ジョングクと出会う前、人に心を開く事すら想像も出来なかったのに。



『…ジョングク、』


「ん?」



部屋着に着替えてソファーに座っているジョングクに近付く。

少し前からそろそろ話さなければいけないと思っていた事。出来れば口には出したくなかったけれど、そういう訳にもいかない。



「ユリ?」


『あの…』


「どうしたの、おいで?」



自分の隣をぽんぽんと叩いたジョングクの言う通り隣に座ると、顔を覗き込んできたジョングクは心配そうな表情をしている。



『…私、ここ出て行く。』


「……」



元気になるまでここで一緒に暮らそう、半年前ジョングクはそう言ってくれた。
食事も睡眠もしっかり取れるようになって、身体はすっかり健康になった。
ただでさえ忙しそうなジョングクの手をこれ以上煩わしたくない。

だけど、このままジョングクと一緒に居たいというのが本心で。切り出したものの、上手く続きが浮かばない。



「…ユリが出て行きたいなら、何も言わない。ユリが1人で住む部屋も用意するよ。だけど…」



真っ黒な瞳と目が合う。
うさぎのように可愛らしいのに、強い意志を灯した不思議な瞳。この目に見つめられると、私は呼吸の仕方すら忘れてしまいそうになる。



「ユリが此処に居たいってもし思ってくれてるなら、遠慮しないでいいんだよ。」


『……』


「あー…いや、正直に言うよ。」



珍しく歯切れ悪く言葉を紡ぐジョングクは少しだけ目を泳がせて、また私を見た。



「俺は、このままユリと一緒に居たい。」


『ジョングク…』



純粋に嬉しかった。
だけど分からなかった。私に触れもせず、何かを要求する事もない。ただ私に優しくしてくれるだけのジョングク。
彼がどうして私をそんな風に扱ってくれるのか、どれだけ考えても分からなかった。

安心感と自分では分からない気持ちに混乱して、思わず涙が溜まるのが分かった。



「ユリ、ごめん、あの、」


『ちが…っ』



苦しそうな顔で謝るジョングクに胸が詰まる。



『…ジョングクは、どうして私にそんなに優しくしてくれるの?』


「……」


『だってジョングク、私の事何も知らない。私は貴方にそんな風に言ってもらえるような人間じゃない。』



私がどんな風に育ってきたのか、ジョングクが迎えに来てくれたあの部屋で私がどんな事をしていたのか、私がどんなに汚れた人間なのか、ジョングクは知らない。知られたくない。
私のせいで、彼まで汚してしまうようで。



「…ユリ、」



流れた涙をジョングクの綺麗な指が拭う。
彼が私に触れたのはこれで2度目、一緒に暮らし始めてからは初めてだった。



「ユリが、好きなんだ。」


『…え?』



優しい声で呟かれた言葉、だけど目の前のジョングクはとても寂しそうな顔をしている。



「ユリは覚えてないと思うけど、ユリがあそこから逃げた時に会った事があるんだ。」



時間が進むにつれて逃げる気力すら失った私が最後にあそこを逃げようとしたのは確か16か17の時。
その最後の時に会ったとして、余りに時間が経ちすぎている。



「…一目惚れだった。だけどユリはすぐにあそこの人に見つかって連れ戻されて、俺はただそれを見るしかなくて。」


『……』


「あそこがどういう場所か知って、ユリがどんな目に遭ってるのか想像していても経っても居られなかったけど、どうにも出来なかった。二十歳になったら必ずユリを迎えに行くって決めてた。でも…」



信じられない話に涙も引っ込んでただジョングクの話を聞くだけの私に、彼はひとつ深呼吸をして、改めて私に向き直った。



「…俺、アイドルなんだ。」


『アイドル…?』


「そう。ユリを見つけた時はまだ全然だったんだけど、二十歳になる頃には、もうあんまり自由が効かなかった。」



やっと、ジョングクがテレビを見ないでほしいと言った理由、忙しくしている理由が分かった。
きっとテレビを付ければジョングクが映っていて、あまり休みがない程人気がある。

それならば余計にどうして。芸能人のジョングクがあんな所で女を買ったなんてバレたらどうなるのか、私でも分かった。



「だから思ってたより時間が掛かったんだ。だけど絶対にユリに会いたかった。ユリをあそこから連れ出したかった。」



衝撃の連続で靄がかかる頭で、余計にこんがらがる思考。



『…ただ、一目見ただけでしょう?』


「うん、そうだよ。本当にたった一瞬。気持ち悪いよね。」



自嘲げに笑ったジョングクに必死に首を横に振る。



「事務所の偉い人にも、グループのメンバーにも、ユリの事を話した。何言われてもどうしても諦められなくて、説得してちゃんと認めて貰った。」


『なんで、そんな…』



何年も前に一瞬見掛けただけの私なんかの為に、時間も労力も使って。
きっと選り取り見取りの世界に居るジョングクが、私に拘る理由なんて何一つ分からない。



「…正直、自分でも分からなかった。だけど、実際ユリと一緒に過ごすようになって、今なら分かる。」



自信なさげに揺れていた瞳が、また強く光る。ああ、だめだ。直感でそう思った。
ジョングクに見つめられると、逃げる事も誤魔化す事も出来なくなる。自分の気持ちが溢れ出てきてしまいそうで、また涙が零れた。



「好きなんだ。好きな理由もユリじゃないとだめな理由もどうだって良くなるくらい、ただユリが好き。」



一切の邪念がない心に触れたようで、怖くなる。
私だって同じだ。
私を助けてくれたから、優しくしてくれたから、幸せな気持ちを教えてくれたから、理由は幾つでもある。だけどそんな理由なんてどうでもいい。ジョングクが好き。

だけど、



『…私、ジョングクが思ってるよりずっと汚い。あそこに売られる前も、あそこに居た時も、私はずっと間違った生き方しかしてきてないの。』



望まれない子供だった。生まれてきた事自体を後悔され否定され、挙句端金にしか変わらなかった。
いつしか心を失った私は、幾ら綺麗でもつまらない不良品だと罵られた。母が唯一認めてくれた容姿すら、自分の中の闇で台無しにした。
愛想良くしろ、ちょっとくらい笑って見せろと手を挙げられても、口角の上げ方を忘れてしまっていた。

きっと正しく生きてきたジョングクとは、埋めようがない程に差がある。



「俺は、ユリが生きてきた環境がどんなだったとしても、関係ないと思ってる。だって、ユリはユリでしょ?どんな育ち方でも生き方でも、今ここに居るユリが好きなんだ。」



ジョングクの言葉はいつも澄んでいて、真っ直ぐに心に響いてしまう。
こんなに正直な人に出逢ったのは初めてだから。私は受け止め方も交わし方も知らずにただありのままを感じ取る事しか出来なくて。



「もう少し此処に居て、考えてみてくれないかな?俺の気持ちもしごとも」