世界はこんなに美しい5 [ 1/2 ]

待ちかねていた相手は予想よりも早く**の元を訪れた。
それを幸運に思いながら過ごす時間はそう長くはないとわかっていた。

しかし、この時の彼女はまだ知らない。

このあと、世界が一度、崩れることを。


【世界はこんなに美しい5】


クロコダイルが**の顎をとり、胸に当たっていた頬を離させた。
向けられた笑みに応えるようにクロコダイルの首が傾ぐ。
いつもの色に戻った唇に口づけが落ちる直前、**が身を強ばらせた。
扉の方向を窺った様子に、クロコダイルも視線を向ける。
この部屋唯一の正式な入口は、鍵がかけられていた。
あの向こうはしばらく先まで一本道だ。

「足音か?」
「はい。すぐに出て下さい」
「…いや、一旦隠れる」
「何故?見つかってしまいます」
「カップがあのままじゃ、どちらにせよバレる」

クロコダイルの右手が**の手を取り、ソファまで誘導する。
その前のテーブルには2人分のコーヒーカップが置き去りのままだった。
鍵のかかった部屋の中、1人で居るはずの**の前に2つのカップ。
違和感を感じるなと言う方が難しい。
人物は特定できずとも、許可のない来訪があったことはすぐに露見するだろう。

「誰が来る?」

**は顔見知りならば足音で人物を特定できる。
それを知っているクロコダイルが座らせながら問えば、**は表情を曇らせた。

「…スモーカーだと思います」
「ちっ、タイミングの悪い男だ。ウォークインに居る」

**が頷くと、クロコダイルは自分が使っていたカップをさらって部屋の奥に足を向けた。
この部屋にはクローゼットが2つある。
**が普段使っている通常のものと、部屋の一番奥にある広めのウォークインクローゼットだ。
世話人ならまだしも、スモーカーがここを開ける可能性は低い。

クロコダイルがクローゼットの扉を閉めるのと、入口の扉がノックされるのはほぼ同時だった。
**が返事をすると、開錠の音が響く。

『野郎、鍵を持ってやがったのか』

**の付き添いの際にスモーカーが部屋の鍵を預かっていることはクロコダイルも知っていた。
確か、**の持つものではなく、サカズキの持つスペアを渡されているはずだ。
今日の用事は役人が来られなくなったことで終わったと思っていた。
何故まだ鍵を持っているのか。

手近な棚にカップを置き、クロコダイルは室内の様子を窺った。
静かな部屋に、スモーカーのよく通る声が響く。

「大将を待ったんだが、時間がなくてな。預かってくれ」
「わかりました。夕方来た時に渡しておきます。もう出航するのですか?」
「あァ、一応もう用無しの立場だからな」
「自分で言わなくても」

スモーカーの自嘲気味な台詞に**が笑う。
面白くない心境を渦巻かせながら、クロコダイルは先ほどの疑問の答えを知った。
鍵を返すためにサカズキを待っていたが、その前に島を出ることになったのか。
わかったところで、「さっさと帰れ」という思いに変わりはなかったのだが。

「…お前、口紅どうした?」

怪訝な様子の声音に、クロコダイルはぴくりと眉を動かす。
唇の色づき具合などよく覚えているものだ。
あの無骨そうな男が、興味もない女の化粧を目に留めるわけがない。
クロコダイルがスモーカーを気にくわないのは、言動のそこかしこに**への好意を感じるからだった。
今の質問も例外ではない。

懐の時計に目をやれば、**とスモーカーが別れたと思われる時間からは2時間ほどが経っていると推測できる。
その間に食事をしても不自然ではない。
調理をした気配がないにしても、テーブルにはコーヒーが置いてあるというのに…。

『…しまった、コーヒーか』

今更思い当たったミスに、クロコダイルは口元を歪める。
**が1人にもかかわらずコーヒーを入れたということが不自然なのではない。
問題は、そのカップが満たされたままだという点だ。
**はクロコダイルが来てから一度もカップに口をつけていなかった。

「コーヒーをいただいてましたから」

何事もなくシラを切り通せと願ったところで**の声が届く。
クロコダイルは額に右手を当てた。
失言だ。
それでは自分が隠し事をしているとバラしたようなもの。
スモーカーは気づいたに違いない。
クロコダイルの予想通り、次に出てきたスモーカーの言葉は疑念に満ちていた。

「カップの中身は全く減ってねェように見えるが?」
「え?あぁ…2杯目ですから」
「随分冷め切ってる2杯目だな」

**が息を呑む気配。
クロコダイルも、スモーカーの言葉は的確だと思わざるを得なかった。

それ以上の言い訳は墓穴を掘るだけだとようやく気づいたのか、**が口を噤む。
しかし、そんな態度では益々スモーカーの不信感を煽るばかりだろう。
もたもたしていればサカズキも来る。
スモーカーが告げ口するようなことはないだろうが、サカズキとて馬鹿ではない。
**の動揺を今のままにしておけば、難なく見抜いてみせるだろう。

「何を隠してる?」
「…何も」
「お前…おれがそんな嘘にも気づかねェ馬鹿だと思ってんのか?」
「…お願いですから、放っておいて下さい」

頑なな態度に出始めた**に、スモーカーが怒気を強めたのが感じられた。
衣擦れの音、**の短い悲鳴。
聞こえたそれらにクロコダイルは嘆息しながらシガーケースを取り出した。
扉を少し開け、銀色のそれを隙間から覗かせて角度を調整する。
はっきりとはしないものの、2人がどんな体勢なのかは映り込んだ。
スモーカーの手が、**の腕を掴んでいた。

「おれにも大将にも隠れて、誰と会ってる?」
「何を言っているんですか?ここには誰も…」
「男だろう?誰だ?」
「っ!あ、貴方には関係ありません!」
「関係ならある!おれが…何でここに来てるか、わかんねェのか?」
「何故って、伯父様に頼まれているだけでしょう?」
「馬鹿野郎が!おれはなァ…」

言葉の続きを読んだクロコダイルは、舌打ちを出してカップを手に取った。
身体を砂に変えると同時に、カップを遠めの床に放る。
ガチャン!と派手な音で割れたそれに、スモーカーも**も反応した。

その隙を突いてクロコダイルはスモーカーに肉薄する。
最短で繰り出した左の鉤爪は、反射的に飛び退いた体躯には届かない。
しかしその距離は、クロコダイルが**を懐に引き込むには十分な時間を稼いだ。

「クロコダイル!何でお前が…」
「どうして出てきたんですか!」
「そのくらい察しやがれ。この状況で黙ってるほど、おれはお人好しじゃねェんだよ」

2人分の質問に、クロコダイルはにやりと笑いながら答えた。
スモーカーが十手に手をかける。
その表情は、クロコダイルには面白く思えるほどに苦々しいものだった。

「そいつを離せ!」
「馬鹿が。お邪魔虫はてめェの方だ、白猟」
「許可なくここに居ることがどんな事態を招くのか、わかってねェのか!」
「知ったことか。やりてェようにやるのがおれの主義だ。海賊なんでな」

言いながら、クロコダイルは葉巻を取り出した。
香りでそれを察した**が顔を上げる。
それすら気にせずに火をつける様に、スモーカーが歯をくいしばった。

「もう一度だけ言うぞ。その手を、離せ」
「だとよ。離してほしいか?」

呻くような声音にも全く動じず、クロコダイルが腕の中の**に問うた。
周囲を満たし始めた葉巻の香りを肺に覚えさせるように、彼女は深く息をつく。
白い手は、迷わずにクロコダイルの服を握りしめた。
細い身体は自分からしがみつくように寄り添う。
その仕草を見たスモーカーの表情に、どこか傷ついたような色が差し込んだ。

「**、お前…」
「ごめんなさい、スモーカー。お願いですから、何も言わずに出て行って」

懇願の色を滲ませる台詞を目の前の男がどうとったのか、クロコダイルにはよくわかった。
吐き出された溜め息、苦しげに閉じられた瞼、そして脱力した身体がその心境を物語っている。

スモーカーはおそらく、**に男の影があることに気づいていたに違いない。
急に好むようになったコーヒーも、明るくなり始めた言動も、不可思議に思っていたのではとクロコダイルは推測する。
何よりこの1年、**は部屋に鍵をかけることが増えたはずだ。
クロコダイルが訪れている時は必ず錠が下ろされていた。
元々、この部屋は誰の許可もなく入って来られるような場所ではない。
どんな用件の来訪であっても、必ずサカズキが間に入っている。
鍵など、本当は必要ないのだ。
にもかかわらず増えたその回数を、旧知の仲であるスモーカーが気にならないわけもない。

何年の付き合いかは、クロコダイルにはわからない。
正直なところ興味もなかったし、多少の嫉妬心を煽られはしても**との付き合いに問題はないと思っていた。
しかし、スモーカーの抱えていた違和感が先ほどの疑念に繋がり、今の状況を作っている。
一番面倒なのはサカズキではなかった。
少し甘く見すぎたかと、クロコダイルは自嘲気味に笑みを漏らす。

「教えろ、目的は何だ?」

十手から手を離したスモーカーがクロコダイルに問う。
葉巻の煙を吐き出しながら、クロコダイルは軽く鼻を鳴らした。

「こいつに会うことだ」
「白々しい言い訳すんじゃねェ。そいつの頭の中にあるモンが目当てなんだろう?」
「興味ねェな。おれは本当に、こいつに会いに来てるだけだ」
「クロコダイル、そろそろ時間が…」

腕の中の**に促され、クロコダイルは再び時計に目をやる。
確かに、そろそろサカヅキが来ても良い頃合いだ。
ギリギリに部屋を出るのは遠慮したいところである。

「あァ、そうだな」
「待ちやがれ!まだ話は終わってねェ!」
「がなるんじゃねェよ。お前の相手なんざ、するつもりはねェ」

うざったそうな態度のクロコダイルに、スモーカーは怒気を強める。
再び十手を手にした雰囲気に、**がはっと顔を上げた。

「止めて下さい!ここで暴れれば、貴方も咎を受けますよ!」
「そいつを…庇うのか?」
「当たり前です!私は、この人を失いたくはない!」
「そいつがどんな奴だか知ってんのか?海賊だぞ!?」
「関係ありません!共に居ることが罪だと言うのなら、私は罰を受けても構わない!」

気丈に叫びながら、**はぎゅっとクロコダイルに抱きついた。
彼女自身、この行動がどれだけスモーカーを傷つけるのかくらいわかっているだろう。
恋心には気づかずとも、古い友人という認識に相違はないはず。
その関係を捨てると、言っているようなものなのだ。

スモーカーは再び言葉を失う。
悔しげなその表情に、クロコダイルは再び笑ってみせた。
勝ち誇った心境を隠そうともしない態度に、スモーカーは為す術もない。

「おれは、お前に罰を受けられちゃ困るんだがな」
「クロコダイル…」
「また来る。妙なこと考えるな。大人しくてろよ?」
「…はい」

躊躇いながらも頷いた**に、クロコダイルは葉巻を口から離して口づけを贈る。
その仕草にスモーカーがぴくりと反応したが、もう怒鳴る気力はないようだった。

**をソファに座らせ、クロコダイルは窓に歩み寄る。
横をすり抜けても、スモーカーは動かなかった。
**が心配そうな顔を向ける中では、さすがに何もできないだろう。

「お前も、話がしたきゃ宿の方に来やがれ。1回だけなら愚痴でも聞いてやるよ」

去り際の一言に、スモーカーが眼光を強める。
しかし、そんなものはクロコダイルには何の効果もなかった。

窓辺の身体がさらりと砂に変わる。
葉巻の煙を燻らせながら、クロコダイルは上機嫌に部屋をあとにした。

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ALICE+