世界はそんなに美しいのか(前編) [ 2/5 ]

「呼んでこい」

呼び出しに応えて部屋を訪ねてみれば、クロコダイルは間髪入れずにこの一言を発した。
誰のことを言っているのか、確認する必要はない。
ダズは言葉なく一礼して部屋を出た。

一番最初に訪れた場所で、その人物はうずくまっていた。
しかし、駆け寄る必要はない。
**が何をしているのか、ダズは知っている。

できるだけ気配を消して歩いてきたが、更に気を遣いつつもう一歩を踏み出す。
だが、その努力はいつも通り徒労に終わった。
**はくるりと振り返り、閉じられたままの瞼をダズに向けた。

「ダズ、どうしたの?」
「…ボスがお呼びです」

朗らかな声に、ダズは簡潔に答えた。
「何かしら?」と首を傾げるのには、現在の時刻を返す。
ちょうど昼時だと理解しても、彼女はまだ立ち上がらない。
顔を花壇に向け直し、土で汚れた細い指を伸ばした。

「もうそんな時間なのね」
「はい」
「でも、まだ途中なの。このままじゃ行けないわ」

そう言いながら、**は花壇の雑草を引き抜いた。
この花壇は普段隠れ家からほとんど出ない彼女のためにと、クロコダイルが作らせたものだ。
**はその心遣いを大層喜んで、水やりも手入れもできうる限りを自らの手でやっている。
初めこそ苦労していたようだが、花壇の大きさを把握してからは作業も格段に早くなった。
時折、クロコダイルと2人で傍らに佇み、色とりどりの花を愛でていることもある。

彼女にとってこの花壇がどんなに大切か、ダズも理解しているつもりだった。
しかし、彼には優先しなければならない命令がある。
どうしたら作業を中断してくれるのか。
ダズが考える間も、**はせっせと手を動かしていた。

不意に、**が手を止めて顔を上げた。
耳を澄ませるような気配を感じ、ダズは思わず呼吸を止める。
数秒して、誰かが廊下を歩く音が聞こえてきた。
この音に反応したのかとダズが息をつく間に、**は杖を手に立ち上がって彼の元に来る。
彼女の表情には疑問の色があった。

「何か?」
「知らない足音ね。誰かしら?」

似たような言葉を、ダズは聞いた記憶があった。
あれは確か、**と出会って日が浅いうちに、ダズが靴を新調した時。
歩く音が変わったために「知らない人がいる」と勘違いした**が、ダズから逃げ回ったのだ。
結局、先に見つけたクロコダイルが事情を聞き出し、**が赤い顔でダズに謝って事が収まった。
その時に彼女がこう言ったのを、ダズは覚えている。

『知らない足音だったから、誰かと思ったの』

**はそのあとすぐにダズの気配を覚え、それ以降は誰とも間違えることはなかった。
アジトに出入りする者も積極的に覚えようと努力したようで、個人の判別はつくようになっている。

ただ、彼女の周囲を行き交う人間の数は日に日に増えていた。
クロコダイルを中心とする組織が、徐々に広がりをみせているためだ。
誰か紹介し忘れたか、それとも誰かが靴を変えたのか。
どちらだろうかと思ったところで、足音の主の姿が見えた。
結論から言うと、原因は後者だったようだ。

「先日ご紹介したニックです」
「本当に?」
「間違いありません」

**はダズの見解に言葉を返さなかった。
代わりに、腕が触れ合うほどの距離まで身を寄せてくる。
土で汚れた両手で杖を握りしめる姿を横目に、ダズは溜め息を抑えた。

ニックは軽く挨拶をして、ダズと**の前を通り過ぎる。
彼の後ろ姿が見えなくなっても、彼女は表情を曇らせたままだった。
声を聞いたのだから、ニック本人だとわかったはずだ。
何がそんなに気になるのか、ダズには理解ができない。

それよりも、彼女をクロコダイルの元に連れていかなければ。
当初の目的を思い出し、ダズはどう言おうかと思考を巡らせる。
しかし、この悩みは長くは続かなかった。
**が、柔らかな微笑みと共に振り返ったからだ。
彼女がこんな表情で迎える相手は、この世に1人しかいない。
ほとんど音もなく現れたというのに、**は正確にその位置を捉えて名を呼んだ。

「クロコダイル」
「いつまで油を売ってる」
「ダズは悪くないのよ。何度も促してくれたけど、私が行こうとしなかったから」

クロコダイルの言葉はダズに向けてのものだったが、**が先に答えてしまう。
謝罪の機会を失ったダズは、互いに歩み寄る2人を見つめた。
自分がいつ彼女を促すようなことをしたのかと、疑問に思いながら。

「何してたんだ?」
「草むしりよ」
「あァ、だから手がそんななのか。あとで手伝ってやるから、今は来い」

そう言いながら、クロコダイルは**に手を差し伸べる。
**は少し戸惑って身を引こうとしたが、その動きさえ読んでいたのか、クロコダイルの右手はあっさりと彼女のそれを捕まえた。
「汚れるわ」と彼女が言えば、彼は「それがどうした」と笑って指を絡める。
クロコダイルが**に顔を近づけたのを見て、ダズは2人から視線を外した。
軽いリップ音。
ゆっくり3つ数えてから視線を戻すが、彼らの距離はダズが思ったほどには離れていなかった。

最近のクロコダイルは特に忙しく、共に過ごせる時間は限られている。
事情を察しているためか、**も普段は会いたがる素振りすら見せることもない。
その反動か、ここのところ顔を合わせるとすぐに2人の世界に行ってしまって、ダズは取り残されることが多かった。

仲睦まじいのは良いことと、ダズは思っている。
ただ、こういう甘い空気の漂う時に、身の置き場がないと感じるのもまた自然なことだった。
**は時折ダズを気にするような仕草を見せるが、クロコダイルはそれすらどこ吹く風といった様子である。
待ちわびて自ら出てきたのだから仕方がない。
全ては彼女を上手く誘導できなかったのが原因なのだし。

そう考えながらじっと待っていると、ようやくクロコダイルが**の手を引いた。
数歩後ろに付き従えば、**が気遣わしげに「待たせてごめんなさい」と言ってくる。
ダズは返答に迷い、結局「いえ」と一言返すのがやっとだった。

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