世界はそんなに美しいのか(後編) [ 1/5 ]

そこから数日は、実に穏やかに時間が過ぎた。
クロコダイルの仕事が一段落し、ここ2日ほどの彼が**の側から離れないこと以外は変わったこともなかった。

ダズはニックの監視を続ける傍ら、主人不在の執務室で電話番をする日々を過ごしていた。
ニックに関しても、変わったことは何も起きていない。
そろそろ監視だけでなく、探りを入れてみる必要があるだろうか。
そう思っていた矢先に、事態は動いた。

けたたましく鳴く電伝虫の受話器を取り、ダズが名乗った瞬間、電話相手の同僚は焦った様子でこう言った。

「ボスを出してくれ!」
「用件は?」
「直接話す!緊急なんだ!」
「それなら尚更、おれが先に聞く」

ダズが冷静な声を返すと、その同僚は一瞬押し黙った。
それはダズの求めに対する拒否ではなく、正常な思考を取り戻すための行為だったようだ。
その証拠に同僚はそのあと、淀みなく端的に情報を伝えてきた。
報告された内容に、ダズは思わず険しい表情になる。
確かに緊急の用件だ。
しかも、クロコダイルに直接報告してもらう必要がある。

「すぐにボスを呼ぶ。そのまま待て」

口早に言って、ダズは通信を切らずに部屋を出た。
昨晩の夕食の時、**が「そろそろマーガレットが咲きそうだ」と言っていた。
そして、今日は朝から晴天だ。
この条件で思いつく場所はただ一つだった。

急いで向かった中庭に、クロコダイルと**の姿はあった。
ダズが2人を視界に収めた時、クロコダイルは既に怪訝な様子で眉を寄せていた。
いつもと違う歩調で向かってくるダズに、**が気づいて話したのだろう。
表情だけで「何だ?」と聞いてくるクロコダイルに、ダズは抑えた声で言った。

「アジト周辺の海図が、外で見つかったそうです」
「…ここの情報が漏れてるって?」
「はい。詳しいことはお部屋で」

クロコダイルが短く息をついたのを見てから、ダズは**に目を向ける。
彼女は既にクロコダイルから一歩離れ、杖に両手を添えて中庭の入口の方に顔を向けていた。
「部屋に行け」と言われるのをわかっているからだ。
その様子を見たクロコダイルは、少し苦笑してから、右手で**の頬に触れた。

「少しくらい寂しそうにしてもいいんじゃねェか?」
「貴方を引き留められるのなら、喜んでそうするわ」
「悪いな」
「いいえ。いってらっしゃい」

柔らかく微笑んだ**に口づけを送り、クロコダイルはダズに顔を向ける。
目を逸らすタイミングを逸していたダズは、妙な気まずさを抱えながら彼の視線を受けた。

「寄り道するなよ」

まるで子どもにでも言うような台詞だ。
去っていく背を見送りながら、ダズは心の中で溜め息をつく。
クロコダイルが**ではなくダズに向かって言ったのには理由がある。
部屋に帰る途中で彼女が何を言っても耳を貸すなと、ダズに伝えるためだ。
そしてそれはつまり、ダズに彼女を送っていけと命じているのと同じことだ。

**は、クロコダイルの姿が見えなくなってもその場に佇んでいた。
おそらく、足音が聞こえなくなるのを待っている。
別れを惜しんでいるのを察して、ダズは彼女からの反応を待った。
しばらくすると、**はダズに顔を向けてくる。

「待たせてごめんなさい」

そう言って、**はダズの方に片手を差し出してくる。
ダズが彼女の傍らに立つと、その手は彼の肘辺りに添えられた。

普段、**が自らの意思でクロコダイル以外の人間に触れることはない。
今は緊急時で、急いで移動する必要があるから触れてきたのだ。
けして他意はない。
ダズはその事実を何度か自分に言い聞かせて、気を落ち着かせた。
そうしないと、緊張からくる冷や汗と溜め息が止まらなくなるからだ。

心が平坦になったのを確認してから、彼は目的を達するために踏み出した。
**は慣れた様子でダズの動きについてくる。
歩調に気を遣いながら中庭の入口まで来た時、行く先に見えた人影にダズは顔をしかめた。
こんな時に限って、要注意人物に会ってしまうなんて運が悪い。
ニックが近づいてくるにつれ、ダズの中で自然と緊張が高まっていく。

不意に、肘の辺りの服が引っ張られた。
反射的に視線をやると、困惑した表情の**が目に入った。
ダズが急に立ち止まり、何も言わないことに不安を覚えたようだ。

「失礼しました。何でもありません」

気持ちを切り替えたダズがそう言っても、**は表情を晴れさせなかった。
何が起こったのかを知るために周囲を窺おうとする。
ここで何か言い出されると厄介だとダズが先を急ごうとした瞬間、**の顔つきが明らかに変わった。
彼女は張り詰めた表情で、腕に抱きつくようにしてダズを引き留める。
今までにない行動とその様子に、今度はダズの方が困惑してしまう。
しかし、それでも彼の思考はある程度の冷静さを保っていた。
その証拠に、**の態度の原因がニックであることを、ダズはごく自然に導き出していた。

緊急事態というのは、どうしてこうも重なるのか。
しかし、この機会を逃すわけにはいかない。
どうにかしなければ。

ダズが思考を巡らせる前で、**がまた表情を変えた。
いつもの穏やかな様子に戻った彼女は、彼の肘を柔らかく掴み直す。
「任せてほしい」。
態度でそう示す**を見て、ダズは腹を決めた。
決意を伝えるため、彼は肘に添う彼女の手に、初めて自分から触れた。

「こんにちは」
「こんにちは。また花壇の手入れですか?」
「ええ、とても天気が良いですから」

ニックのにこやかな挨拶に、**も微笑みを返す。
その姿は至っていつも通りで、緊張や動揺など微塵も見えない。
ただ、ダズの手の内側で、彼女の手は確かに硬くなっていた。

ニックはそのまま立ち止まることなく、2人の前を通り過ぎようとする。
**はごく自然に、彼を呼び止めてこう言った。

「待って。ダズ、荷物を持って差し上げたら?とても重そう」

その言葉で、ダズは**の意図を察した。
ダズが目を向けると、ニックは一瞬だけ口の端を引き攣らせる。
なるほど、これが答えか。
確信を得たが、今この場で問いただすのは悪手だ。
ダズは気づかないふりで、**の提案に答えた。

「ニックは何も持っていません」
「あら、そうなの?」
「お前、最近靴を変えたりしなかったか?」
「え…。ああ、そういや変えたな」
「だそうです。音が違うのはそのせいでしょう」
「そうだったの。驚かせてごめんなさい。前もダズに同じことをしてしまったの。今度から気をつけますね」

申し訳なさそうに謝ってから、**はダズを見上げた。
彼女が次に何を言うのかはわかっている。
わかっているが、ダズはその言葉が耳に届くのを待った。
たった数秒がやけに長く感じる。

「行きましょう」
「はい」

予想通りの台詞に準備していた言葉を返して、ダズは**に添えていた手を離した。
ニックは軽く会釈をしてから、2人に背を向けようとしていた。
1歩目を踏み出しながら、ダズは横目でその姿を確認する。

おそらく次の角を曲がったら、**は1人で部屋に戻ると言い出すだろう。
命令違反にはなるが、この場は彼女の提案に乗る以外に選択肢はない。
別れたあとは気づかれぬように尾行して…。

[] [次→
しおりを挟む
表紙 │ main
ALICE+