浦島と犬 T



 僕はバスの停留所にに立っていた。始めは僕一人だった。
やがて一人の若い女性が僕の横に並んだ。
彼女は犬を連れていた。何故バスに乗るのに犬を連れているのか僕は疑問に感じたが、それは彼女の顔を見ることで氷解した。
彼女は目を瞑っていた。ごく自然に。
彼女は目が見えないらしい。犬もペットとしてではなく、彼女の補助をするために、いわゆる盲導犬だった。良く見ると僕が手綱だと思っていたものも、それ用の特殊な物だった。
少し物めずらしさもあって、彼女を十秒程見つめる。
彼女は十人並み以上の顔立ちをしていた。目を閉じていてもそれが分かる。
気付くと、犬が彼女の横からからこちらを見上げていた。僕はなんだか気まずくなって、それ以上彼女を見つめるのをやめる。
バスが来るにはまだ十分ほどあった。
道路をぼんやりと見つめて時間を潰す。そんなに車の通りは多くない。まあ3秒に一台、通り過ぎるぐらいだ。
犬はいつの間にか地面に伏せていた。だけど顔だけは上げて周りを見つめていた。
あと五分ぐらいになった時、二人の男性が彼女の隣に来た。
それぞれ片手にはタバコを持ち、何かを大声で話しながら歩いてきた。大学生ぐらいだろうか。品がよさそうには見えない。かくいう僕も品が良いかは分からないけれど。
この区域は歩きタバコは禁止だった気がするな、と思いながら。
彼らはしばらく喋っていたが、彼女の隣にいる盲導犬に気付き、彼女と犬を交互に眺めた。
僕が横目でそれを眺めていると、一人が犬を軽くつま先で突いた。犬は動かない。
反応が無いのをいいことに彼らは少し強く犬を蹴り始めた。しかも色々な場所を。
それでも犬は動かなかった。鳴き声も出さなかった。鳴く事が出来ないのだ。
僕の記憶が正しいなら彼らは主人が危険な時にしか鳴けなかったはずだ。
だから鳴くと彼女を不安にさせてしまうのだろう。
彼女は気付かない。彼が気付かせまいと耐えているのだ。
仕舞いに彼らは犬の前にしゃがみ込み、鼻と目の丁度中間の場所にタバコをゆっくりと押し付けようとした。
犬は近付いてくるタバコの火にすら反応しない。
きっと本能では避けなければいけないと思っているだろうけど、盲導犬の仕事としてそれをする事が出来ないのだろう。
人間なら本能を超えて行動する事は、まあやろうとすれば出来る。でも理性より本能で動く事が多い犬にとってそれはとても辛い事だろう。
タバコの火が彼の顔に付く直前、やっと僕は声を出した。遅すぎたと言ってもいいくらいだった。本来なら彼が蹴られた時点で声を出すべきだったのだ。
「おい、やめろ」そんな自分の臆病さに腹が立ったこともあって、ほとんど怒鳴るような声になってしまった。
男二人は驚いてこっちを向く。しかし、彼女も僕の方を向いてしまった。
「え、わたしなにか」彼女が自分が怒鳴られたと勘違いして言った時にバスが到着した。
男二人は既に立っていた。気まずそうにこちらに背を向けてタバコの火を足で消していた。もう犬に危害を与えようとはしていなかった。
「いや、人違いでした。すいません」人違いで怒鳴ると言うのもおかしな話だな、と言った後で気付いた。
「は、はあ……」彼女は当然、納得しきれない様子だった。
「乗らないんですか」バスの運転手にそう声を掛けられ、「あ、乗ります」と慌てて入り口からバスに乗る。
彼女と犬もそれに続いて乗って来たが、男二人は乗ってこなかった。
ドアが閉まりバスが出発する。
バスの中にはほとんど人は乗っていなかった。
僕は後方の二人掛けの席に一人で座り、彼女は優先席に座る。犬はその横に伏せていた。
彼女と犬は僕が降りるひとつ前の停留所で降りた。僕の方は振り向かなかった。


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