浦島と犬 U


そもそも何でこんな木曜の昼間にバスに乗ったのかといえば、やり残した仕事があるからだった。
その日、僕の会社は創立記念日で休みだった。なんで会社にそんな日があるのか分からないけども、ともかく休みだった。とは言っても平日なので何かしなければいけないという事が無かった。旅行に行こうにも一日だけではどこか遠くにいけるはずも無い。
それより結構期限がせまった仕事があったので(一日休んでも十分間に合う仕事だったが)、記念日に出勤できるように会社に申請した。
午前中は空調の点検をするので、午後に出勤するならいいと言われた。
それでかまわない、と僕は答え、人事課の女の子に礼を言って鍵の束を受け取った。
「予定が空いているのなら私が一日デートしてあげても良かったのに」と彼女は鍵を手渡しながら言った。
なかなか魅力的な提案だったが、「もう決めてしまった事だから」と断わった。
「じゃあ日曜日はどう?」そういう彼女の目は少し腫れていた。
「考えておく」
入り口で空調の点検をする人と擦れ違った以外は、会社には他に誰もいなかった。
僕は自分の席の前に行って、パソコンの電源ボタンを押す。それから給湯室に行き電気ポットに水道水を入れ、沸騰するようにセットする。
席に戻るとパソコンが起動し終わっていたので、スーツを脱いで座席に掛け、席に着く。
そうして僕は仕事に取り掛かった。
仕事の進みはなかなか悪くなかった。むしろ周りに人がいない分はかどっている気がした。
気付くと日は沈み始め、辺りは段々と暗くなってきていた。時計を見ると6時を丁度回る所だった。
丁度仕事の方もひと段落ついていたので、足元に気をつけながら給湯室に向かう。
既にポットの中身は沸騰し終わっていて、保温モードになっていた。戸棚からコップを取り出す。コーヒーか紅茶にするか少し迷い、疲れていたけれど眠気は感じなかったので紅茶にする事にした。
 コップにお湯を注ぎ、ポットの横に置いてある様々な種類のティーバックの中から一つ適当に取る。レモンティーだった。封を開け中身を取り出し、それを湯の中ににしばらく浸す。ティーバックを引き上げ、砂糖を大さじ一杯と小さじ一杯分入れ、かき混ぜる。
出来上がった紅茶をその場で冷ましながら飲んでいると、今日一日タバコを一本も吸っていない事に気付いた。
会社では屋上以外喫煙は禁止されていた。まあ今ここで吸っても文句を言う人は居ないけれど、規則通り屋上へ上って吸う事にした。それに夕陽を眺めながら吸うのも悪くない。
屋上の扉を鍵を使って開けようとすると、鍵が開く手ごたえを感じない。ノブを捻ると、扉は外に向かって開いた。誰かが鍵を閉め忘れたのだろう、その時点では僕はそう思っていた。
屋上はほとんど風は吹いていなかった。僕はタバコを一本取り出して口に咥え、ライターで火をつける。深く煙を吸い込み、そして吐き出す。
夕陽は半分より少し多く地平線に沈んでいた。僕はそれをぼんやりと眺め、タバコを再び吸う。
僕はこんなぼんやりと眺める風景が一番好きだった。秋の紅葉や春に舞い散る桜も綺麗で好きだったけれど、その季節にしか見れず、場所を選ぶので、心に残そうと少し集中して眺めてしまう。それよりは毎日ほぼいつでも色々な場所で見る事ができるので、肩肘張らずにぼんやりと眺められる夕陽や流れる雲が好きだった。
ふと、視界の端に何かがあることに気付いた。僕からみて右手側にそれはあった。
夕陽から目を離し、そちらの方に視線をやる。
人の形をした影が二つ、屋上の隅に立っていた。
最初、僕は看板か人形だと思った。今日、僕以外に会社に来ている人間はいないはずだった。
ここからだと影の正体が良く分からないので、僕はゆっくりとその影の方へ歩いていく。
影に近付いていく途中でその影が動いた。片方の影が腕を少し動かし、もう片方の手をとる。その動きで僕は影の正体が人間だと分かった。
二人はは同じ学校の制服を着ていた。髪型や服装からして性別は女性のようだった。
僕は二人に声をかけようと更に近付いた。
五メートル程の距離になったところで彼女達のうち一人が気がつき僕の方を向いた。
「こないで」と、叫ぶように一人が言った。
僕はその場に立ち止まる。
どうやら邪魔されたくない様子であった。二人きりで夕陽を眺めたいのだろう、と僕は考え、夕陽が沈むまで待つ事にした。
彼女達から一定の距離を置くように柵まで歩く。
夕陽を眺める振りをしながら彼女達の方を気付かれないようにそっと覗き見る。
二人の横顔は互いに良く似ていた。多分姉妹なのだろう。身長もほとんど変わらないことからひょっとすると双子かも知れなかった。
僕は携帯灰皿を取り出し、その中に灰を落とす。
二人の表情はどことなく寂しそうで、そして何かを決意した様な、そんな表情だった。
もしかしたら彼女達は夕陽を眺めるためにここに来たのではないのかなと僕は考え始めた。
そもそも彼女達がここで夕陽を眺めなければいけない理由はどこにも無さそうだった。
ここは他のビルより高い訳では無く(平均よりは少し高いけれど、これより高いビルは結構あった)、見晴らしはあんまり良くなかった。今も夕陽は右半分がビルに隠れている。
確かに今日は会社が休みなので人目には付きづらかったけれど、鍵はちゃんとかかっていたので侵入するのは難しいはずだった。
僕は彼女達がここに来る理由が他に考えてみたけど思いつかなかった。
遂に夕陽が沈む。正確に言うとビルの裏に沈んだだけで地平線の奥には沈んでいなかったけれど。
僕は彼女達に声を掛けようとそちらを向く。彼女達はいつの間にか柵を乗り越え、縁の部分に立っていた。
そこでやっと僕は気付く。二人はビルから飛び降りようとしているのだと。
 意思を持ってビルから飛び降りる理由は一つしか思いつかなかった。自殺だ。
 僕はゆっくりと彼女達の方に歩いていく。多分走ったら、彼女達は飛び降りてしまう。そんな気がした。
 歩いてくる僕を見て、再び「こないで」と叫んだ。僕は言われてからに二歩歩いて立ち止まる。
 僕は何も言わなかった。ただ二人ををじっと見つめていた。
タバコを吸い終わり、残ったフィルターを携帯灰皿に捨てる。
 彼女達は繋いでいないほうの手で柵を掴んでいた。
 僕から見て手前の子がこちらを再び見る。何も言わずに僕と視線を合わせる。それは止めないで、と言っているようでもあったし、止めてくれないの、と聞いている様でもあった。
「僕には君たちを止める権利が無い」僕は何も聞かれていないのにそう言った。
 奥に居るもう一人も僕の方を向いた。
「僕は君達の事を全く知らない。もし少しでも知っていたら、君達がそうなる原因の解決策を考えてあげられたけど、僕はそれをする事が出来ない」
 二人は僕の言葉を黙って聞いていた。
「命が大事だ、と言う理由で止める事は出来るけど、僕はそうしたくない。それは君達に価値観を押し付ける事になる。少なくとも君達は今、命は惜しくないと思っているんだろう?」
「うん」
「だから死ぬの」二人は答えた。
「それを止める事はただの自己満足だと思うんだ。特に事情の知らない僕のような人の場合は。
……まあ、無理に止める事は出来る。ここは僕が勤めているビルだ。君達が自殺をすると後処理が大変だし、悪い噂も立つ。しかもその時にいた僕は何故止めなかったのかと非難される。しかも君達は不法侵入している」
「確かに」
「そうね」
「でも結局それは言い訳に過ぎない気がするんだ」そう僕は言って柵に背を預け寄りかかる。
「すまない。君達が自殺しようとしているのを引き止めてしまって」
「構わないわ」
「どうせ夜になるまで死ぬつもりは無いもの」
「じゃあ僕は帰る事にするよ」
「わかった」
「さよなら」
僕は柵から身体を放し、屋上の扉へ歩く。彼女達の視線を感じたが、振り向かずに扉を開け、 階段を下りた。
 まず給湯室に行き、ポットに残っていたお湯を全部捨て、使ったコップを洗い、ティーバッグを捨てる。そして自分の席に行って、パソコンの電源を落とす。必要な書類をまとめ鞄に詰め、職場から出た。
会社の玄関を出て駅まで歩いたところで社員証を机に置き忘れたことに気付いた。取りに戻るのは億劫だったので、明日取りに行こうと考えた。社員証と一緒のカードケースに入った免許証も置き忘れてきたけど、今日明日で車に乗る予定は無いから別に支障は無かった。

- 2 -

*前次#


ページ:



ALICE+