お前を抱きかかえて、明朝の街を歩く。明朝といっても、光源はスラムの太陽だ。放たれる無機質な光から希望は感じられず、俺は俺とお前との間に待ち受けているであろう不明瞭なこれからのことを考えて、思考は何度も袋小路に追い詰められて行くような感覚に陥った。
八番街スラムへ来るのは久しぶりだった。
八番街スラムは、ミッドガルのなかでも一番歴史が浅いスラムで、最近外からきた余所者なんかは大体七番街スラムか八番街スラムに住みつくことが多い。古いスラムに比べると街が綺麗だし、そこに集う人々にも活気があるからだ。八番街スラムも伍番街スラムと同様に、街の有力者が何人かいて、それぞれが縄張りをもって取り仕切っている。詳しくはないが、この辺りは確か、マンソンとかいう男の縄張りだったはずだ。
「まだ診療時間外ですよ」
目的地の前で立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。振り返ると、褐色の肌をした女がいる。白衣を纏っているのを見るに、ここの医者だろうか。
「悪いんだけど、急いで見てほしいやつがいる」
俺が腕の中に抱える#ロゼ#に視線を落とすと、女もつられて視線を移す。そこではじめて、俺が抱えているものの中身が一人の少女であることに気付いたようだった。
「……中へ入って」
女は何かを悟ったようにそれだけ告げると、目の前にあるドアを開けて、俺たちを中へ招き入れた。ドアに吊り下げられている『オレンジ診療所』の表札が静かに揺れた。
消毒液の蓋を開けた瞬間のような、鋭く鼻をつく独特な刺激臭。白塗りの壁と天井。常に規則正しくリズムを刻む電子音。五感で捉える非日常はどことなく居心地が悪い。
昔から、病院は苦手だった。注射の針とか苦い薬に抵抗はない。ただ、そこを訪ねる人たちはもれなく誰もが病人であり、活力を失った人たちが集う場所に漂う負の空気が好きではなかった。戦争の影響もあるだろう。昔の病院はどこも戦災による影響をその身に患った人で溢れていたから。
「初診の方よね? はじめまして。私はダミーニ・オレンジ。この診療所の医師です。早速ですが、診察をさせていただきます。その子をここのベッドへ降ろしてくれる?」
ダミーニ・オレンジと名乗るこの女医が、信頼に値する人物かどうかはわからない。だが、俺ひとりではお前の身体に何が起こっているかを知り得ることはできず、目の前の彼女を頼るほかないのだ。そう言い聞かせて、俺は言われるがまま、お前をベッドに横たえた。
その後の展開は早かった。ダミーニは誰になんの断りもなく、そして躊躇もせず、お前を包んでいた外套を取り払った。
ひゅ、と喉のあたりが鳴る。反射的に目を閉じた。一晩かけたところで心の準備なんて、できているはずがなかったんだ。だけど見なくてはならない。お前の身に起こっている全てを。俺は、確かめなくてはならないのだ。
閉ざした目を、恐る恐る開く。ダミーニは外套の下に着ていたのであろう、下着までもを脱がせようと手にかけているところだった。それは#ロゼ#の身体と外気を隔てる最後の境界だった。やがて、これまで隠されていた部分のすべてが俺たちの目のもとに晒される。
息が詰まる。想像以上だった。浮き出た肋骨や関節。全身の至る所にあるまだ新しい青紫の痣。大小程度の差はあれど刃物でつけられたような古傷もある。そしてなにより目を惹いたのは、腕や腹部にある無数の注射痕だった。目を背けてしまいたい、現実だと認めたくない。昨晩、あの部屋の中でひとり、これを目にしていたら、俺はどうなっていただろう。正気を保てていただろうか。呼吸が、うまくできない。瞬きもしていないのに、目の前が激しく明滅する。ダミーニが横で「酷いわね」と呟いた。
ああ、どうして。どうして、お前がこんな目に遭わなくてはならなかったのか。
「この子の名前と歳を教えて頂戴」
憎い。お前を傷つけた全てが憎い。殺してやりたい。いや、殺すだけでは足りない。切り刻み、生まれてきたことを悔いるほどの思いを抱かせて、お前に頭と膝をつき、許しを乞わせねばならない。それらの存在が星に還り、循環すること、いずれ新たな生命となることさえ許せないとすら思った。この数年で学び深め、心の拠り所にもなっていた星命学の教えを、自ら否定したくなるほどの衝撃。頭が割れそうだ。吐き気がする。
「……ねえ」
お前を壊した者たち。名前も顔も知らないそれらに明確な憎悪と殺意を抱いた。そしてそこには、俺自身も含まれていた。そうだ。元はといえば俺のせいだ。俺が、俺がお前を手放したから。
「君!」
強く肩を掴まれる。揺れる視界に、ダミーニの冷静な表情が映る。
「動揺している場合ではないの! 彼女を救いたいと思うなら正気を保って、私の質問に答えなさい」
救う。救えるのだろうか。救うってなんだ。ただ、命を留めること? お前が目を覚まして、それからどうすれば良いのだろう。昨晩、お前を幸せにする、なんて大それた目標を掲げた自分が、いかにお気楽で何も考えていなかったかを思い知る。とてもじゃないがこの状態から、お前が幸せになれる未来が想像できなかった。身体の傷だけではない。心には身体以上の傷を負っているに違いない。お前はきっと俺を憎んでいるだろう。許せないし、殺したいと思うはずだ。そんな俺がお前を幸せにする? 馬鹿じゃないのか。でも、お前が俺を殺してそれで少しでも報われるのならば、救われるのならば、それでもいいと思った。どうすれば良いのかわからないのだ。俺は俺がお前のためにできることが、わからない。やけくそだ。だから、お前が目覚めたとき、お前に全てを委ねようと思う。ああ、俺はなんて狡いんだろう。
「……彼女の名前は#ロゼ#、歳は十五だ」
飽くまで平静を努めて返事をする。握りしめた拳が震える。ひょっとしたら、表情が引き攣っているかもしれない。そこまで気にする余裕はなかった。
「十五歳……。最近はどうしてこう若い女の子ばかり運ばれてくるのかしら。どうかしてるわね……」
ダミーニがこめかみのあたりを抑えながら、表情を歪ませた。
「それで? あなたとこの子はどういう関係?」
尋ねられて、言葉に詰まる。俺とお前の関係性。血の繋がりはないが、かつては寝食を共にし、周りからは家族同然の扱いを受けて育ってきた。だけど、俺はお前のことを妹だと思ったことはないし、お前だって俺を兄だと認識したことはないだろう。かといって、友という関係が当てはまるほど、言葉を交わし、心を通い合わせるようなこともなかった。
「……強いて言うなら昔馴染みみたいなもんかな。血の繋がりはないし、昨晩七年ぶりに会ったばかりだ」
「こうなるに至った経緯は?」
「さあね。さっきも言ったが、七年ぶりに会ったんだ。いままでどこでなにをしていたのかもわからない」
「意識を失ったのはいつ? 何時くらい? そのときの状況は?」
「意識を失ったのは……昨日の夜中。具体的な時間はわからないが、多分一時か二時くらい。意識を失う前までは特に様子のおかしいところはなかった。直前に頭をぶつけたりはしていなかったと思うけど、急に気を失ってその場に倒れた」
「昨日の夜中ね……。ひとまず、検査で意識障害の原因を精査をしつつ、栄養を補うための点滴をしていきます。小さい診療所だから、できることは限られているわ。ここにはCTもMRIもないの。早く原因を知りたいならミッドガル……プレートの上か、ジュノンにある設備の整った病院を受診することを強くお勧めします」
ミッドガル。ジュノン。もし俺やお前が神羅を憎んでいなければ、ダミーニの提案に抵抗を覚える必要なんてなかっただろう。だけど俺たちは、神羅に救われることを良しとしない。そういう境遇のもとで生きてきた。
「とりあえず、ここでいまできる検査をしてくれないか。訳ありなんだ。……わかるだろ? どうしても必要だってんなら、そのときは考える」
ダミーニは最初からわかっていたとでも言いたげな表情で、ため息をつく。
「ここだって神羅と無関係ってわけじゃない。ただ許される範囲で見て見ぬふりしてるだけ。この子やあなたが今まで何をしてきたのか知らないけど……神羅に目をつけられた、なんてことがあっても、私はあなたたちの味方はできないでしょうね」
神羅。俺たちがこの世界で生きていくのに、その存在を切り離すことはもはや不可能といっても過言ではない。どこに行っても奴らの影が付き纏う。
「わかってるさ。そこまで迷惑かけるつもりはない」
「そう、じゃあ、悪いけどあなたは外の待合室で待っていて」
「ああ……#ロゼ#のこと、頼むよ」
「医者として、できる限りのことは尽くすわ」
「ありがとう」
言うや否やダミーニは抜け殻になった外套ごと俺を診察室の外へ押し出す。
「#ロゼ#……」
お前の姿が、いつまでも残像のように網膜に焼き付いて離れない。手にした外套はまだ仄かに人肌の温もりを残していて、それだけがお前が今も生きているということの証明のように思えた。
ふと、外套の内懐に異質な硬い感触を覚える。中に入っているものを取り出すと、何枚かのIDカードがあった。
『エックス・トライバル』『エックス・エストハイム』『エックス・スキエンティア』
いずれも苗字は異なるが、名前は『エックス』で統一されている。最初はただの偶然かと思った。だが今この瞬間、俺は確信を得る。
エックス。かつて俺の名前だったそれを、お前が名乗っている。
どうして。なんのために。
握りしめた掌に、己の爪が食い込む。
まただ。幾つもの疑問がぐるぐると頭の中で巡っては、お前への蟠りとなって心の中に痼りを生む。
この世の理も、人の心も、大抵のことは簡単に見透かすことができるのに、お前のことを理解しようとするときは、どうしたって目が曇って仕方ないんだ。
はやく目を覚ましてほしいと思う。だけど、お前が目を覚ましたあとに俺に向けられるであろう負の感情や、俺が知らないお前の過去を想像すると、うまく呼吸ができなくなる。昔からそうだ。お前はいつも俺の調子を狂わせる。それこそ、当たり前にできていたはずの呼吸の仕方もわからなくなるほどに。
- 10 -
*前次#
ページ: