深夜とはいえ街中には人の姿がまばらに見える。俺はできるだけ人が少なく、街灯の少ない道を選びながら帰路に着く。途中、何人かが行き摩りに俺たちを見たが、すぐに興味を失ったように視線を移した。暗がりの中であることや、お前が全身を覆い隠すほどの外套を纏っているのも相俟って、まさか人を抱えているなどとは誰も思わなかったのだろう。
自分の身に起こっている非日常的な出来事とは裏腹に、家は当たり前にそこにあって、その外観も内装も普段となんら変わらず、日常の空気を携えていた。張りつめた糸のような緊張が少しだけ緩む。今この状況は夢や幻などではなく、現実に起こっていることであり、自分の気が触れた故の虚ろではないのだ。俺が長年追い求めていた探し人は、確かに俺の腕の中にいる。
「……どうすっかなあ」
片付けねばならない問題が山ほどある。なにから処理すべきか見当もつかない状態であったが、まずは腕の中に抱えているお前をベッドに横たえることにした。
普段あまり家に人を招くことはない。常ならば俺が占領している空間に、お前というイレギュラーが存在している。不思議な光景にしばらく茫然としながら、シーツも包布も枕カバーも昨日まとめて洗濯しておいてよかった、などと場違いなことを考えた。
お前の顔を見ると、昔を思い出してしまう。伍番街スラムのこと。ハウスのこと。
俺が生まれ育った伍番街スラムは、ミッドガルにある八つのスラムの中でも比較的古い歴史を持つスラムだ。
それぞれスラムには異なる歴史や文化がある。過去にプレート崩落の事故を受けた六番街スラムを除けば、大体の構造はどのスラムも同じだ。外壁に近づけば近づくほど廃材と魔物が増える。内縁、すなわちメインピラーに近いところには居住区や、戦後に解体されたかつての兵器製造プラントエリアがある。
伍番街スラムも同じ。居住区があり、そこに住む人々はミッドガル建設時に廃棄された大きな土管や車両などの廃材をそのまま家として転用していることが多い。そのため、七番街スラムや八番街スラムと比較すると、全体的に無秩序で雑然とした街並みをしているのが特徴だ。
かつて、伍番街スラムには、初期のミッドガル建設に携わった工夫(こうふ)や、その二世三世が住んでいた。彼らの殆どはプレートの完成と共に上へ移住したと聞くが、今もなおスラムに残って暮らしている者もいる。現在もミッドガルの維持に必要となる下層の設備やインフラを整備するにあたって、神羅はそのノウハウや技術を持つ彼らを頼らざるを得ない。必然的に神羅との結びつきは強く、スラムに住みながらも多額の報酬と様々な特権を与えられている。実質、伍番街スラムを取り仕切っているのは彼らだった。神羅から伍番街ハウスの経営を委託されていたのも、彼ら有力者のうちの一人だった。
伍番街ハウス。正式名称は『下層伍番養護院』という。ウータイとの戦争で親を失った戦災孤児を引き取る目的で、神羅によって建設された施設だ。伍番街スラムのなかでは珍しい煉瓦造りの建物だった。
俺は生まれたときから十三歳の誕生日を迎えるまで、そこに住んでいた。
伍番街ハウス自体は元々造りはしっかりしているものの、経年劣化が激しく、機能していない設備も多かった。当時の先生達は経営者に何度も修繕を依頼したという。しかし生活に支障はないからと彼らは取り合わなかったのだ。
「どうしようもないの。ごめんね」
申し訳なさそうに、だが既に諦めた様子で謝る先生を見ると、何とかして助けたてあげたいと思うのが子どもの頃の俺だった。
「俺がなんとかするよ」
「あはは、ありがとね。でも、無理しなくていいから」
子どもの戯言だと思ったのだろう。先生のその言葉に期待が込められていないことくらい、子どもの俺でもわかった。悔しかった。なにも口から出任せで申し出たわけではない。自分の中で『なんとかする』ための算段はあった。得意分野なのだ。幼少の頃から手先は器用な方で、街外れでジャンクパーツを漁ってきては、機械仕掛けの物の修理や改造をするのが趣味だった。
同じ要領で、ハウスのちょっとした設備くらいならなんとかなるだろうと踏んでいたのだ。勿論、方法は大人達がやっていたことの見よう見まねで、知識や技術と呼ぶには拙いそれらではどうにもならないこともあったけど、案外『なんとかなる』ことの方が多かった。
まさか本当に『なんとかする』とは思っていなかったのだろう。先生を含む大人たちは俺の成果を見て、最初は驚いた様子で、それから俺の頭を撫でた。「他の子達には内緒だからね」そう言った先生が、俺の手に苺味の飴玉を握らせた。甘味の類は、ハウスでは滅多に与えられることのない贅沢品だった。
蕩けるような甘みが唾液と絡まって口いっぱいに広がり、味蕾と大脳皮質を刺激する。それはただの甘味以上の意味を伴って、俺に感動と衝撃を与えた。今まで口にしたどの食べ物よりも特別に思えた。
子どもの成功体験というものは、大人が考えている以上の大きな影響を当人にもたらす。俺はその日以来、同年代の子どもと外で遊びまわるよりも、周りの大人たちの手伝いをすることに夢中になっていた。設備の修理だけではなく、掃除や料理、スラムの人達のボランティアも積極的に参加した。「良い子ね」「偉いね」「助かるわ」「ありがとう」そういった言葉をかけられると、安心した。あの日のように飴は貰えなくても、言葉だけで脳が甘い味を思い出して、全身が痺れるような感覚がするのだ。それだけで満足だった。自分はハウスにいても良いのだと思った。大人達にとっての良い子であり続けることで、自分の居場所を守ろうとしていたのだ。
──ああ、でも、お前はそうじゃなかったよな。
ハウスの子どもたちは、十三歳を迎えると独り立ちをするというルールがある。ただでさえ孤児が多いスラムにおいて、空間的にも、経済的にも、成長した子どもを長く置いてあげられるほどの余裕はなかった。例に漏れず、俺は十三歳の誕生日を迎えたその日に、親しみ慣れたハウスを出た。しばらくは伍番街スラムで同じハウス出身の友達と家を借りて、生計をたてていたが、訳あって七番街スラムに移り住むことにしたのだ。その際知り合いのツテを利用して格安で借りたのが、まさに今いるこの家だ。
当初はコンクリート打ちっぱなしの、一面灰色の壁と床で覆われた、無機質な直方体の箱のような建物だった。壁は所々割れて、床の至る所には何かしらの染みが点在していた。格安なだけあって水場以外に備え付けの家具もなにもないので、本当に空っぽだったのだ。「これでもスラムではマシな方だぞ」と大家が言っていたのを思い出す。
それらを『なんとかしよう』と考えたのは自然なことだった。深く根付いている性分のようなものだ。汚れを拭いたくなるのも、壊れたものを治したくなるのも、『ビッグス』を『ビッグス』たらしめるアイデンティティのひとつだった。幼少の頃と決定的に異なるのは、それが誰かのためではなく、自分のために為されるということ。誰に褒められるわけでもない。かつて自身の原動力にもなっていた、あの飴の味は思い出せなくなっていたけど、もう必要なかった。その頃にはアバランチという、甘味などとは比にならない、血が熱く激り、迸る生命の感覚に酔いさえも覚えるものの存在を知ったからだ。反神羅の思想を掲げ、星を救うための犠牲と称して、時には銃を手に屍を積み上げる。そんな刺激的ともいえる青年期を経て、良い子でいることをやめた俺は、気づけば大人になっていた。
伍番街スラムから七番街スラムには移った『訳』として、アバランチの活動を行なっていく上で色々と都合が良かったというのが大部分を占めている。俺はこの家に住むことになったその日のうちに、大家から許可を得て、改装に取り掛かった。壁の割れた部分は塞いで、全体をクリーム色に塗装する。床は木材を敷き詰めてフローリング調にした。少しでも親しみ慣れたハウスの雰囲気に近づけようと創意工夫を凝らした。流石に煉瓦造りにすることはできなかったけど、せめて内装だけでもと。良い子でなくても、ハウスを大切に思う気持ちに変わりはなかった。
日々の合間を縫うように、少しずつ、年単位の時間をかけて改装を施した結果、現在は一応、人が住める家の様相を呈している。とはいえそれらは所詮誤魔化しに過ぎず、根本となる造りや素材が粗悪なため、冬はどこからか隙間風が入り込んで寒いし、夏は熱気が篭って暑い。野宿よりはマシだが快適と呼ぶには程遠い環境だった。
元々外で活動している時間の方が圧倒的に多く、睡眠を取るときくらいしか帰ってこない。最近は数日家を空けることも多く、住居というよりは物置を兼ねた仮眠室になっていた。でもこれからは、きっと帰ってくる頻度も増えてくるだろう。お前がいるから。
「#ロゼ#、お前、家あるのか? まあ、あってもなくてもどっちでもいいけど、これからはここにいてくれよ」
外套の隙間からわずかに覗く不健康な寝顔は、満足に睡眠も食事も摂れていないことを示唆していた。目の辺りは窪んで濃い隈ができている。頬は痩せこけていて、唇は乾燥して皮がささくれ立っていた。外套の下はどうなっているのだろう。目に見える範囲でもこの有様だ。痩せているだけならまだしも、傷や痣でもできていようものなら── 想像するだけで心が抉られるような感覚がした。確認しなくてはならないはずなのに、たった一枚の布を剥ぐこともできない。もう少し心の準備が欲しい、なんて、そんなこと思う権利はないというのに。
いずれにせよ、まともな生活ができていなかったに違いない。お前には申し訳ないけど、状況が落ち着くまではここに身を置いてもらうことになるだろう。そのうち、もう少しまともな家を用意してやるから。
「なあ、#ロゼ#」
頬に触れてみる。温かい。昔は触るともっとふわふわで、しっとりしていたと思う。今はかつての柔らかさも、潤いも失われてしまった。変わらないのは高めの体温だけだ。だけど、きっと全部すぐに取り戻せるから。家だけじゃない。腹いっぱいの食事と、熱いシャワー、手足を伸ばせる寝床。お前のためなら、全部用意する。
だから、お前は何もしなくていいんだ。何もしなくても安心していられるように、俺がお前の居場所を作るから。大人の顔色を伺いながら、自分を価値ある人間に見せようなんて、しなくていいんだ。どうか、お前は俺みたいにはなってくれるな。祈るように、変わり果てたお前の額を撫でる。
どれくらい時間が経っただろうか。時計を見ると、時刻は既に夜中の三時を回っていた。
お前はいつ目を覚ますのだろう。数時間後? 明日? 数日後かもしれない。 そもそも目を覚ます可能性はあるのだろうか。 そこまで考えて、背筋に冷たい汗が伝うのを感じる。
まずは医者に連れて行くべきなのでは、と思い至る。この時間ではどこも診てくれないだろうし、七番街スラムにはまともな医療機関がない。自分が怪我をしたときは自身で簡単な処置をして様子を見るか、伍番街スラムの医者を訪ねることが多かった。だが、今のお前を抱えたまま伍番街スラムまで連れて行くのは難しいだろう。夜明けは近い。日が昇るのを待って、朝一番に隣の八番街スラムの診療所に駆け込むことにした。
それから朝まで一睡もせず、永遠にも思えるような一晩を過ごした。結局、纏った外套の中身を露わにすることはできなかった。
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