安土に住まう魔王への挨拶も終え、今生でもまた木瓜紋の入った袋を下げ渡された私は、鑿箱をそれに入れて懐に仕舞った。
魔王軍の各地での蹂躙ぶりを知っているだけに意外なことだが、明智と比べるとその魔王にはあまり殺されたことがない。
もちろん時と場合にもよるが、手土産に持って行く掘り出し物の唐風茶器だけは外したことがないからだろうか。ここでの私の命は、焼き固めた土が身代わりだ。精々、公に長く気に入られると良い、土偶茶碗。
無事に領地を通る許しを得た私は、いつになく心がざわめくのを感じていた。
向かうはこの淡海の反対側に位置する、坂本の城そのおそばである。
私の再開の地。
今までは死んで戻ってきたときしかろくに踏みもしない場所だが、たまには自らそこに赴くこともまた必要なのだろう。どうせ死んでもまたそこから始まるだけだ、これは自棄ではなく試みである。私なりの保険のつもりだった。魔王の後ろ盾がある今ならば、あの死神も少しは大人しくしてくれると良い。ほんの少し、私が自分の手掛かりを見つけるまででいいから。
退出するその途中、柴田とすれ違った。
柴田勝家、彼はかつては勇壮な武将だったと聞き及んでいたが、今見るその背はいっそ哀れなほど小さく影が薄い。私を案内してくれていた丹羽ですら、彼には頭も下げずに一瞥しただけときた。謀反を起こせば、周りの反応はこうも変わるものなのか。
私が見てきた者は謀反を起こして全てを殺したが最後、行方を眩ませた後に別人になって出てくるのだから、こういった冷遇の者を見るのは少しばかり新鮮な気持ちである。
御館を出て、城下の寺で一晩。
それから西へと向かった場所は毎度お馴染み、戻りの山道だった。
探すのならば、ここから始めなくては。
右手に持った錫杖で枝葉を掻き分けながら、まだ見ぬ何かを探す。
もしかすると、だ。『初め』の私はこの付近の村の出だったのかもしれないし、それとは関係なしに単に廻国しているところを賊にでも襲われて、妙な未練でもあったがために今こうして日の本を歩き回っているのかもしれない。何か一つ些細なものでもいい、落とし物の一つでも、何か見つけて思い出せるものは見当たらないだろうか。
あまり道から逸れると山が恐ろしいので、私は道を蛇行しながら藪をつついたり上を見回したりしていた。
時折、商いにでも行くのか篭や荷を背負った人が道を降りてくる。けれども誰も私の顔に覚えはないようで、手を合わせられることはあっても名を呼ばれることはなかった。
ここは、私の故郷ではないのだろうな。道の真ん中で立ち尽くして物思いにふけるも、暗くなり始めたので急いで道を降りた。
そんな、当てのない探し物に精を出して三日目の昼のことだった。
私はついに出くわしてしまったのだ。
何を探しているかもわからないまま時間が過ぎていて、気が疲れていたのは認めよう。注意も散漫だった。遠くから聞こえる竹の割れる音も、大して気を払っていなかった。
だから今、前に気の立った熊がいる。
熊の走る速度は人の全力で走るそれよりも速く、また腕の一撃は人の頭を易々とへし折り吹っ飛ばす。また、死んだ獲物で遊ぶこともままある。
何故知っているか。知っているから、知っているのだ。
刀を振るう武人の次に私が恐れるものは、幽霊と獣である。どちらも為す術がない。
熊は手負いのようだった。地面に赤黒い染みを落としながら、荒い息で私をじっと睨みつけている。
動いたら殺される。動かなくても、一手で殺される。
私は足が竦んでいた。どうする、どうすればいい。生唾を呑むことすら躊躇われるほどの緊張感に徐々に吐き気を覚えた私は、不覚にも「うっ」と呻いてしまった。
その一瞬を捉えた巨体が、まっすぐに走ってくる。
重量のある地響きが、薙ぎ倒される藪が、枝の折れる音がこれから自分の身に起こることを嫌でも予見しているようだった。
後ずさった足がもつれて尻餅をつく。咄嗟に固く目を瞑って身を固めた。まさかここにきて熊にやられるとは思っていなかった。次に戻ってきたときは絶対に熊避けの鈴も手に入れるようにしよう。ああ、南無阿弥陀仏!
そのとき、風を裂く音が聞こえた。
次いで、何かの鈍い音。
構えていたはずの一撃がこない。薄く目を開ける。
私は今度こそ腰を抜かした。
馬上の『彼』が振り向く、笑う顔の朱色は恐らく返り血。
「貴女が死ぬべきは、ここではありませんよ。円拝
尼」
そういって、鎌に刺したそれを軽々と振り払う。
件の死神の登場である。
* * *
そういえば、死神というものはなにも生者の命を奪うばかりではなく、人の寿命を定めるのも仕事の内、といったような話を聞いたことがあったな、と思い出していた。
女中が持ってきた茶をありがたく頂戴し、喉を潤す。明智は満足そうに目を細めていた。
「先ほどはこの命をお助け戴き、まこと感謝の至りです。深く、深くお礼申し上げます」
「よいのですよ。偶然通りがかっただけですから」
そんなわけがあるか、と言いたくなったがここは堪える。三日前にはどこぞかを平定しに出ていたと聞いていたのに。むしろそれを好機と思ってこんな場所へ来たというのに、この男は。
ともあれ、危ないところを救われたことに違いはないので、私はひたすら頭を床にすり付けていた。
今生、明智とは初の御見えになる。
彼は私をじろじろと見やると、先ほどの女中を呼び出した。何かを伝えた後、すぐに女中が駆けていく。
私はその様をぼうっと眺めていた。彼女に怯えた様子はなかったし、城も町も落ち着いている。身構えていた程の死臭もない。
戦に出ていない平生の明智とはこんなにもまともな城主をしているのかと、私は少しばかり呆気に取られていた。
思えば、魔王の手足である彼のことを私は大して知らないのだ。
落ち着かない様子の私に、明智はどこか温かみすら感じる眼差しを寄越してきた。
「今、風呂を用意させています。身を清められると良いでしょう」
「なっ……そ、それはあまりにも勿体なく」
「城主の私がいうのですから、ここはどうぞこちらの厚意をお受けください。命の礼は、またその後にでも」
「……はァ。では、甘えて」
にこりと、微笑まれる。その胡散臭い顔が妙に怪僧のそれと重なった。いや、それは当然といえば当然なのだけれども、何かが妙だ。
魔王は先の通りまだまだ健在だし、本能寺もまだ焼け落ちてはいない。明智もまだ討たれずに目の前にいる。それがどうして、既にそちらの顔が見えているのだろうか。
毒気がないのが却って不気味だった。湯浴みは純粋にありがたいが、何を考えているのだろう。
やがて、女中に湯殿に案内されたかと思うと、てっぺんは白頭巾から下は足袋まであっという間に身包みを剥がれて体を洗われた。丁寧なことはありがたいが、私に拒否権もなければ一言物申すこともままならず、まるで調理前の芋の気分である。
そうして湯浴みを済ませれば、いつの間にやら私の僧衣が消えている。
妙だと思う間もなく、別の女中らが妙に熱意を滾らせて小袖を着せに掛かってきた。一目見ただけで上物とわかるしっとりとした生地に腰が引けたが、女中らは私に袈裟を返す気はないらしかった。
肩を強く、掴まれる。
「……私には、不相応では」
「とんでもない、きっとよくお似合いでございますよ尼法師様」
有無を言わせない気迫じみたものを感じたのは、やはり上が上だからだろうか。私はもう、何も言えないまま長い布に巻かれるより他なかった。
* * *
「明智様は、恩を売るのがお得意のようで」
明智の部屋に戻されて開口一番、皮肉の一つでも言わなければ気が済まない私は食ってかかったが、それでも彼はあの薄ら寒い笑みを浮かべて「情けは人のためならず、というでしょう」などと返す言葉で手をこまねいた。
「命をお救いになり湯浴みまで用意戴き、その上このようなお召し物とは、あまりにも行いが善すぎると何かお考えがおありなのではないかと少々勘繰りたくなりまして」
「ククク、考えだなんてとんでもない、私は元より善良なひとですよ」
「……」
善良な人間は、戦で相手を嬲り殺したりはしないのでは。
口を開きかけたが、どうせ口車を回されるだけなので私はとっとと本題を切り出した。怪しい誘いなど早く済ませるに限る、私はまだこの地で何も探し出せていないのだから。
それとも、まさかこの男から何か得られるとでもいうのだろうか。脳裡で竹中が含み笑いをしたのが浮かんだ。……当たって砕けてみるのも一興だよ、などとあの佳人は言いそうだ。
「して、明智様。この尼入道、礼を尽くさせて戴きたく存じますが、何を御所望のおつもりで。私このとおり、旅の道具の他に何も持ち合わせがないもので、この身一つでございます。何か報いることができればよろしいのですが」
「そうですね……」
「何でもお付き合いいたします」
「そういえば、位の低い尼僧は体も容易く売ると聞きました」
「中にはそうやって生きる者も居りましょう」
「ほとけさまを彫る者たちの中で希代の腕を持つ貴女も、そうやって宿を見つけたことが?」
「ただでさえ俗世に縛られたこの身、余計な柵は好みませぬ故、否」
明智は自分から訊ねてきておいて「そうですか」と興味の欠片も無さそうな素っ気ない返事を寄越した。
訊ねてきた時点でまさかと思ったが、それにしてはどうにも肩透かしのような返しである。褥に組み伏せられるようなことはなさそうだが、この男一体何を考えている。
しばらくして、明智は小さな溜め息を吐いた。
「少し、疲れました」
「はい」
「なので、しばし束の間の休息を取ろうと思います」
「では私、後ほどまた改めて顔をお出ししましょう」
「いえいえ、円拝尼。貴女は此処にいるのですよ」
「……はい?」
眉根を寄せて男の面を見上げると、彼は呆れた顔で私をじろりと見た。
「鈍いですね。膝のひとつでも私に貸してくださいませんか」
「それが、お望みで? 本当に?」
「ええ。ご安心ください、無粋な真似はしませんよ」
そんなことは気にも留めていないが、一体なんでまた膝枕などを望むのか。まったく予想していなかった要求に、私はさぞ間の抜けた顔をさらしていたことだろう。
「明智様がそれで良いと仰るのならば……あまり心地はよろしくないかと存じますが、こんな身でもお役に立てるならば幸いで」
「では、決まりですね」
薄く笑みを浮かべた頭を膝に載せる。色素の抜け落ちてなお白い髪がばらりと眼下に広がった。私に着せられている小袖が淡い水色のためか、明智の顔色が悪いのもあってか、それはまるで水面に浮かぶ水死体のように思えた。
腹のあたりで手を組んで寝転がっているものだから、あるいは自ら入水してそのまま浮かんできたようにも見える。
最低限は人であるとわかる体温が感じられるのがまた倒錯している、と思わされる程度には、目を閉じた彼の姿は文字通り死体のようだった。
不意に、その色の悪い唇が弧を描く。
「湯浴みの後もあってか、程良く温まった血の巡りを感じます……クク、クククク」
「今回限りですよ、明智様」
窘めるように軽く額をはたいてやると、ますます彼は可笑しそうにくつくつと喉を鳴らした。……こういう、少し毛色の変わった生き物なのだと思えば、どこか愛嬌があるようにも見えるのかもしれない。私には到底できないが。
膝の上で緩く微睡むように目を細めている明智からは、驚くほど殺気も狂気も読み取れない。ひどく心穏やかな顔が、そこにはあった。
「不思議な心地です。……戦場で見る明智様の眼差しは、確かにもっと恐ろしく冷たかったのに……今はなにやら温情すら感じます。本当に、心底不思議と」
「ク、ク……貴女にそういわれては、何やらこそばゆいですね。近頃は散歩をするようになったので、穏やかな時を過ごしているのですよ……目は、その顕れでしょうか」
「ええ、きっと。とても良い散歩なのでしょう。羨ましい限りで」
「ですが……、私はやはり戦場に散華する血も好きなので……貴女を今ここで、私の手でくびり殺してしまいたい」
伸ばされた白い手がひたりと、私の首に触れた。冷えた指先。
「こんな私を、ほとけさまは赦してくださるのでしょうか」
明智の顔は、何の表情も浮かべてはいなかった。
ただ、その冷え切った指先が音もなく静かに、私の首に食い込んでいく。
抵抗する気は、何故か起きなかった。むしろそれに自分の手を重ねて握った。
ほんの、出来心だ。私も平生であれば指先は冷えるたちだが、今はまだ湯上がりなので温かい。だから、少しでも早く温まるようにとそんなことをふと手を重ねた、ただそれだけである。
「……全ての迷う衆生の前に、仏様は等しく手を差しのばしておいでです。人は誰もが、彼岸に渡る素質を備えているのです。ですから明智様、貴方が救われたいと、赦されたいと真に心より願うのであれば、きっと仏様は貴方をもお赦しになりお救いになられることでしょう」
「貴女はどうなのですか、円拝尼」
「微力ながらお祈りいたします」
「私に殺されても、ですか」
「明智様がいなければ、恐らく私はあのとき熊に殺されていたことでしょう。それを思えば、なんてことありません」
「ククク……では、貴女の命は私のもの、ということですね」
「今生限り、は」
口酸っぱく付け足してやると、明智は微かに喉を鳴らして笑ったようだった。目蓋がもう、降りていく。
「……久しぶりに、
好い夢を見られそうな気がします。長く微睡んでいたくなるような、夢を……」
「どうぞごゆるりと。夢を見るのは人に赦された最後の自由です。……醒めることもまた、必定ですが」
私は着せられていた打掛を脱いで微睡む男の上に掛けてやった。
こうして見ていれば本当にただの人のようだ。とても死神とは思えない。どこにでもいる、普通の人。それでも戦場に一度現れたならば、二振りの鎌で命を刈り取るのだろう。愉しげに、舞いながら。
「ところで、貴女とは以前どこでお会いしたのでしょうか」
「……いいえ。お顔を合わせるのは、此の度がお初にございます」
「そう、ですか。どこかでお会いしたような気がしていたのですが、どうやら私の思い違いですね」
「戦場の死体の中に似た顔があったのでは? どこにでもいる顔ですので」
「ああ、よく回る口だ……本当に」
坂本城にて
もぞ、と明智が寝返りを打つ。
そういえば、いつまでこんな真似をしていればいいのだろうか。私は膝が痺れてきたのと慣れない感覚とで、彼が寝言のように呟いた言葉に気付くことはなかった。
「いつの世の貴女も……また、忘れている」
(2017 08/15)【
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