飛騨の森に足を踏み入れると必ず日暮れ前に姉小路が迎えに来てくれるのは、今更ながら不思議なことだと思っていた。
森に耳を傾けるというよりは、第六感のようなものが発達しているのではないかと考えていたが、彼の話を聴いている限りではどうやらそういうものでもなく、森の営みに生じる違和感、例えば天気や風の流れ、動物たちの騒ぎに特別気が回るだけなのだという。
森は何も木だけで成り立っているものではない。
そこに棲む生き物たちが必ずいる。森で生まれ、森で死んだものたちは土になり、そして土は森を育む。森は生死を繰り返す。
当たり前のことだが改めてそれらに目を向けて考えてみれば、なるほど姉小路の才はたしかに道理が通っているようだった。
ならば、森にとっては私が踏み入れるだけで違和感が生ずるのだろう。
己独りだけで死も生も繰り返す、既に人かも怪しい存在である。
姉小路の才は、勘の良い狼たちが獲物を遠くから追うのと同じように思われた。違うのは、彼が私を殺す側ではない点のみである。
「尼仏師殿は」
先導する彼の声は普段どおり落ち着いており、ともすれば風の囁きのように微かだった。
俄かに立ち止まったその背をじっと待つ。
おもむろにこちらを振り返った姉小路のつらは、薄暗い森の中にあってなお薄ぼんやりと仄かに明るく浮いて見える。
「貴女は何故、──」
言葉が不自然に凪ぎ、やがて続きを紡いだ。
「──旅を、続ける」
他に掛けたかった言葉の代わりか。
以前までの私ならば、その問いになんと答えただろうか。
人として死ぬため。
何らかの役目を果たすため。
死に続ける理由を、この因果の始まりを知るため。
いくらでも同じ答えはあったが、今の私の答えは違った。
「変わるために」
ただ一言、それだけ。
このまま無為に過ごしても、過去の発端を探し歩いても何も成せないことは自分の躯が証明し続けてきたのだ。
ならば、私は自らの意思で変わるべきなのだろう。
そして最も変わるべきは、己の弱さだ。
「今一度、安土か坂本へ参ろうかと」
俄かに姉小路の眼差しが鋭くなる。
彼の背負う笹が、風もないのに葉を擦り合わせる。
「死ぬつもりか、尼仏師」
「いいえ」
「あの男は貴女の死をもたらす者だ」
「よく存じております」
「貴女がここを抜けて死神に会いに行くのであれば、森は貴女を通しはしない」
「それは困りました」
「……円拝殿」
姉小路は聊か困ったように眉を顰めた。
今までは、何かある度に生きることを諦めてきた。どうせ『戻る』だけならば、しかし『もしかしたら』と、自ら死を受け入れてきた。
特にあの死神、彼の手によって生を諦めた数など、凶王の比にもならない。
私の弱さはそこにある。
生を諦めることを、止めなくてはならない。
生き足掻かねばならない。泥で藻掻くことになっても、雷雨に打たれようとも、容易く首を手折られようとも、命にしがみついて此の世を生き抜かなくてはならない。
私は仄笑う。
「姉小路様。次に私が森に踏み入ったときは、どうかまたよろしくお頼みします」
彼はしばらく唇を結んでこちらを見据えていたが、やがてそのうち背を向けまた歩き出した。
「貴女に安寧の地があるなら、それはこの地であれば良いと思っている……常に」
「お優しい言葉、感謝いたします」
他の言葉を言いたげなつらには言及せず、私は案内されるままに城下のいつもの寺で一晩世話になり、夜が明ける前に此処を発った。
* * *
しかし、いくら口で決意を確かめようとも実際『その時』が来ると、そんなものなど濡れた紙よりも容易く破れてしまう。
目の前の本堂は、夜だというのに煌々と赤い焔に呑まれている。
黒い煙がそこかしこで天を焦がしている。
火の奥から、数多の命が灰に変わる音がする。
たまらず、袖で鼻を覆った。
京のみやこの本能寺である。
探す死神は安土にも坂本にもいなかった。日の本を焦土にせしめようと行軍しているのか。情報は人の集まるところに集まるので、何か手掛かりがあればと思って京に来れば、この有り様だった。
本能寺が燃えているのは、史実に沿うならば恐らく明智の謀反なのだろうが、それにしては──。
時折、奥からまるで大砲でも炸裂しているかのような地響きが聞こえる。
爆破された空気が見えぬ波となって辺りを震わせた。
私の足は、すっかり竦んで動けないでいる。
この爆発音は、この音だけは、いけない。
記憶にかろうじて残っている本能寺炎上に『あの男』は関与していなかった筈だ。
だが、幾度となく史実にない事件を目の当たりにしてきた私にはわかる。
火達磨になって転がり出てきた兵が、私のつま先に手を伸ばして絶叫を上げた。
焼死は辛かろう、楽にしてやりたい気持ちはあるが、それ以上に足が動かない。情けないことに声すら上げられないでいる。
この先へ進むか、退くか。
日を改めた方がよいのでは。明智が本能寺で死ぬ可能性も無いこともないが、恐らく数日は生き延びるだろう、話をするなら後でもよいではないか。今むざむざと殺されに出張るのは、間違いでは。
火の手はこうしている間も一層盛んに燃え上がっている。
ごうっ、と熱風が吹き、近くの柱が燃え折れる。支えを無くした瓦がぼとぼとと火の雨の如く降り注ぐ。
その煙の向こうから、確かに二本足で悠然と歩いてくる人影があった。
「……ぐ、う」
明智ではない、この威圧感。
魔王であるわけもなく、それは私がこの繰り返す死生の中で、何よりも優先して避けねばならない男の姿に相違なかった。
白黒の片身替わりの羽織に身を包むその男は、私に気付くと心底不思議そうに首を傾げた。
「はて……この宴に卿を呼んだ覚えはないのだが」
「私も、貴方に用は御座いませんよ……松永弾正」
じりじりと逃亡の焦燥感に駆られる。しかし、足は依然地面に縫い止められている。
梟雄、松永弾正久秀。
今まで無数に散ってきた私だが、この男だけはいけない。
これに出会ったが最期、私は必ず炎に巻かれて焼死するのだ。炎は舐めるように全身の膚を焼き、髪を焼き、喉と肺を焼き、空気を奪い、前身から血を流してショック死に至るまで、じわじわとこの身をいたぶって燃える。ちょうど今し方転がってきた、足下で悶え苦しむ兵のように。
此の世に死因は数多あれど、焼死ほど苦しい死は他にないだろう。あるいは、血肉を爆散されて殺される。
明智が死神ならば、この男は私にとって死そのものだ。
「卿が此処へ何をしに来たかは興味がそそられるが、今の私は別の宝を手に入れたばかりでね……卿も、となると、聊か手に余る」
「相変わらず御冗談がお好きなようで」
「だが、妙だ。珍しく卿の瞳に生気が充ちている。廻国僧の円拝尼といえば、薄ら笑いの人形の如きであった筈だが……何が卿に玉と成り得る変化をもたらしたのか、実に興味深い」
松永は微笑を浮かべ、ゆったりとした足取りで目の前まで歩いてきた。炎に囲まれていることなど、まるで気にも留めない。
私は自分の心臓が強く胸を打っている感覚に吐き気がしていた。
松永の手は、まだ背にある。
「その光、私の手で磨けば如何様に輝くか、卿も気にならないかね」
「いいえ、ちっとも。私急いでおりますので、失礼いたしたく」
あの手に捕まれば最期、頭を爆破される。
範囲に入れば灰を撒き散らされ粉塵爆発だ。
間合いに入れば一刀に斬り伏せられる。
私の足は、まだ後ずさることも叶わないでいる。
「この火焔の中へ進むと? 何の力も持たないか弱き尼僧の卿が? 止したまえ、行って何ができる」
そうだ、私に何ができる。このまま逃げれば良い。日が悪かった、生きているうちに彼に訊ねられればそれで良い、それで良いではないか。
だが、此の場に松永がいるなら、例外なく私の命はこの日この時限りだろう。
それは、良くない。
「それでも会わねばならぬ人が、この先におりますので」
「ほう……」
松永は値踏みでもするように私をじろりと一瞥し、やがて納得したように鷹揚に頷いた。
「ああ……『明智光秀』かね。彼に宝を見る気持ちは私にもよくわかる……故に今は気分が良い」
「何を仰りたいのか、この尼入道ちっともわかりませぬ」
「では、この焔は私が彼を磨いて引き出した輝きだ──といったら、どうかね」
梟が意地悪く眼を細める。
酷く嫌な響きだった。
「貴方が明智様を謀反させた、と?」
「決めたのは彼自身だ。謂われのない非難は困る。それとも、私が彼に接触したことがそんなに不愉快かね」
「……」
「卿は彼に何の用がある? あれはもう人の言葉など聞こえないだろう。魔王の言葉も耳に届いているかどうか……とても卿に救える男とは思えないが」
「救う? 私は私のために明智様に会います。なので松永弾正、私そろそろ本当に失礼いたします」
「そうかね。卿の曇った眼にはがっかりだよ、円拝尼」
パチン、と死の弾ける音が鳴る。
まだ灰を浴びていないのに、と思ったときは遅かった。
「磨く前に喪われる玉とは斯くもくすんで見えるものか。やはりただの石、いやはや残念残念……死にたまえ」
ぞっとするほど低い声が冷徹に放たれる。
足下で燻っていた死体が激しく光った一瞬、強く目を瞑ってそれを蹴飛ばしたが間に合わない。
爆風が、飛び散る肉が、鎧の破片が、私の身体を容赦なく裂き千切っていく。
吹き飛ばされた衝撃に耳が痛んだのも束の間、鼓膜が破れた音がした。激しい耳鳴りに包まれ、地面に叩きつけられたのもわからないまま、頭を割られるような痛みに喘ぐ。全身が千切れてしまいそうな激痛。
朦朧としながら、必死に煙の向こうに手を伸ばした。
この先から、呼ぶ声が微かに聞こえた気がした。耳が破られて聞こえるわけもないのに、そんな気がしたのは本当は私がただ呼ばれたかったからか。
しかし、背中から腹に貫かれては声も出ない。私に剣を突き刺した松永は今度こそ灰を撒いたらしかった。
視界が黒く、色を無くしていく。
この『死』に立ち向かわなくてはいけないのか。諦めてさっさと死んで次へ向かった方が、よほど容易いのに、私は。
私は、この尽き掛けの命にしがみつかねばならないのか。だが、これでは。
そのとき、ふと、いつだったか昔に聞いた、誰かの消え入りそうな縋る声を思い出した。
──あなたに発願した、初めのただ一人を。
すると、自分の中に改めて疑問が湧いた。
なぜ松永は、私に明智を救えないと言ったのだろうか。救う? 何から? 彼自身の修羅からか? 救われることを望んでいる? なぜ? 彼は、自ら望んで修羅にいるではないか。ではなぜ今あの声を思い出したのか。あれは、あれを吐いた彼は、白い袈裟に身を包んで。死神とは相反する立場に。死と生を。
そこまで刹那のうちに考えが巡って、とうとう思い至った。
無垢故の、か──? いやいや、あれのどこが。
焔の中で主を求め彷徨う男のつらが頭に浮かんで、炸裂した光の中に消えた。
本能寺にて
(2022 12/14)【
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