あの、目を焼かんばかりの煌々とした一面の白い熱を憶えている。
焼死は何よりも苦しい。
一説によれば、火に身を焼かれることは不動明王の御加護を得られるので幸福な死だとする信仰もあるとのことだが、それならば何故私は未だ此の世の輪廻から逃れられずにいる。
さしもの松永も聖性など持ち合わせていないからか。
否、違う。
結局、仏を一番信仰していないのは尼僧を偽る己自身である。
だが、でなければ、何として生きられようか。己に像を彫るより他にできることなどないくせに。
「なれば円拝。今生では常人《ただびと》として生きてみるか」
いつの間にやら背に佇む南部は、今にも空気に溶けて消えそうな幽けき声で確かにそう訊ねた。
津軽。恐山。廻る私の戻り路。
幾つ目になるかもわからない地蔵像を納め、私はふっと後ろを振り返る。
南部晴政は、小さな体躯にいくつもの蒼い人魂を引き連れてそこにいた。
鷹のような鋭い隻眼に浮かぶ表情は、堅く重苦しい。だがその眼差しに憂いと心配が滲んでいることも、私は重々承知していた。
「今更、他の生き方など許されましょうか」
「おぬしが望むならば苦難あれど道は拓けよう」
「では、私が苦難の中にありながら同じ道をいつまでも堂々巡りしているのは、南部様はどうお考えで」
いくらか声を低くした私の拳は震えていた。
怒りではない。とてつもない徒労の前に震えていた。
地獄堂を満たす小さな地蔵仏は、全て私が奉納してきたものだ。この像の数が、私が私をやり直している証左なのだ。本尊の大きな地蔵尊は足元に群がる無数の人形をどう思っているだろう。
私はこんなにも此の世で迷っているというのに、いつになったら私は此の世から救われるのだ。
いつになったら。
……いつになったら、役目を終えられるのだろう。
何のために此処にいるのだ、私は。いつになったら死ねる。
蒼い蛍火が慰めのようにそばで舞う。
「おぬしと相対していると、遠き地の八尾比丘尼の伝承を思い出す」
南部の静かな語りに首を横に振る。
「人魚など見たこともございませんよ」
「あるいは円拝、おぬし自身が外つ国から迷い出た人魚であるやも」
拳の震えが、ぴたりと止む。
俄かに動悸がしてきた。
南部が何を言いたいか、わかってしまった。
「ふ、ふ。御冗談を。脚に尾鰭があるかお確かめになられますか」
「客人《まろうど》に違いはなかろう」
南部の何の温度も感じられないその言葉が、痛いほど胸の奥深くに突き刺さった。
他の誰に言われてもここまで痛みは覚えないだろう。
ああ、そうか。
諦めと嗚咽を誤魔化すように口から笑みが漏れ出ていく。
此処に何度も足を運んでいるのは私ばかりで、どの時軸においてもこの奉納の時だけが南部にとって私との初邂逅なのだった。ただ、彼には事情が通じているようなところがあったから、私は勝手に安心を感じていた。
だが、実際はなんてことはない。
彼にとって私は、霊山に縋りに来た亡者と同じただの旅人でしかないのだ。
「ではやはり、私は常人になど成れないではないですか」
元の世に帰れないなら、どこで何を為そうと。
此の世はどこまで行っても、私を閉じ込める地獄に他ならないのだ。
* * *
とはいえ、劫火に再び焼かれることは避けるに越したことはない。
梟の動向に注意しつつ北から降っていると、ちょうど越後と上野の国境のあたりの山中か、なんとなく見知ったような一羽の黒い鴉に上空から後を尾けられていることに気付いた。
鳶と鴉の違いは何か。
鳶は無言で急降下して物凄い勢いで手荷物を奪い取っていくが、鴉は上から喋りかけてきて物を落とす。
「おーい、尼法師サマー!」
内心ぎょっとして声のした空へ顔を向けると、頭上を覆う木々の遥か天から人が降ってきた。
それは器用にも森の隙間を縫うように跳ね降りて、ついに私の目の前に立ち降りた。
時代に似つかわしくない迷彩柄の忍び装束に、派手な赤い髪の飄々とした涼しい目元の男。真田の忍び頭の猿飛佐助である。
「さすが猿飛様、人をおどかすのがお上手で」
「だから声掛けたじゃない。おーい、って」
へらへらと笑うこの男が、私は真田よりも少々苦手のきらいがある。
というのも、彼は表面上では友好を装ってはいるが心の底では私を疑っていて、真田や武田様の目がないところで出会うとかなりの確率で脅してくる。酷いときはそのまま命まで取られてしまうので、なるべく甲斐国の外では会いたくない相手だった。
こうして冷静に振り返ってみると、いつも私は誰かに殺されてばかりいる。
そこまでされるほどの罪を働いた覚えはないが、それほど彼らにとって私は忌むべき異質な存在ということなのだろう。
現に、猿飛は私を異常分子として見ているのだ。
「あんたがこんな山深いところで何してるのか、ちょっと気になっちゃってさ」
「旅僧が山にいるのがそんなに不思議なことでしょうか」
「あんたの場合は特にね。山法師でもないのに山道から逸れて歩いてるなんて、俺様じゃなくても相当目を引くと思うけど」
へらりと笑っていた猿飛の眼が俄かにぎらついた光を持った。
「まるで人目を避けているみたい、ってね」
「なるほど、猿飛様にはそう見えましたか」
あくまで平常どおりに私は頷く。
人目を避けているのは指摘通りだ。
この戦乱のご時世、いつどこで何に出会すかわかったものではない。例えば、人の命を奪うことに何の躊躇いもない梟だとか、蛇だとか。
だが、臆することはない。彼はまだ言葉が通じるのだから。
私は困った顔を作って肩を竦めた。
「実を言うと、猿飛様が上から降りてこられたのは不幸中の幸いでした」
「へえ?」
「越後におわす軍神様にお目見えしたく歩いておりましたが、どうにも道がわからず途方に暮れていたのです」
「冗談でしょ。こんな山奥まで来ておいて?」
「これが冗談を申しているつらに見えますか」
「うーん、ぶっちゃけ尼法師サマっていっつも無表情だからそのへんよくわかんないんだよね」
「何度も死線を潜れば表情も死にますから」
人よりも顔が硬い自覚はあるので、そこはそっとしておいてもらいたい。そもそも自分の命を奪ったことがある人間を前にして、愛想良くにこにこと笑える方が異常ではないか。
もちろん、そんなことを猿飛が知っているわけがないので押し黙るより他ないのだが。
猿飛の眼差しから鋭い刃物のような光が消える。
どうにか疑いは晴れたらしい。
彼は尊大な溜息を吐くと「わかった」と肩を竦めた。
「どうせ俺様も向こうに用事があったしね。連れてってやるよ。あんたも一人よりは安心でしょ」
「有り難うございます、猿飛様。この尼入道、深く深く感謝いたします」
本当は、行く宛に困って山中で迷子になっていただけで、上杉になぞ用はひとつもないのだが。
流れに身を任せた方が楽には違いない。
猿飛の手を取り、深くこうべを垂れた。
忍びは一夜で幾里も駆けるというが、猿飛はいたって普通の人の歩きで山道を先導してくれていた。
命令を速やかに遂行する筈の忍びに、そんなに悠長な時間があるのか。
それとも本当に尼僧をただ気遣っているだけか。
敵国の視察か。
ただの視察に猿飛ほどの忍びを使うだろうか。
何か大きな戦が芽吹こうとはしていないか。
天を覆う木々や鉛色の雲は、そのまま私の頭に重くのしかかっているようだった。
そろそろ日が暮れる。
どこかで夜を凌がなくては。
私の不安を感じ取ったか、おもむろに猿飛がこちらを振り返り片手を挙げた。視線で促された先には、一軒の小さなあばら屋があった。笹竹や柴草を編んで作ったような庵だ。
「人はいないようですが……」
壁の隙間から中を窺う。
ほんの四畳もあるかないかといった狭さだ。
破れた蜘蛛の巣がいくつも掛かっている。床板はないが、相当朽ちた藁編みの円座と、中央に火を扱っていたであろう炉のような煤けた穴が残されていた。
「どなたかの草庵でしょうか」
「よかったじゃん、あんたはここで寝なよ」
「猿飛様こそ此処でお休みなさいませ。私は外で寝ますので」
「尼さん外に寝かせて部屋で寝る忍びがどこにいる、っての。いいから中で休んでな」
半ば押し込められるように中に私が入ったのを見届けて、猿飛は瞬く間に黒い風に包まれて消えてしまった。
呆気に取られていたが、気を取り直すと背負っていた行李をようやく下ろして、ふっと一息吐いた。
やはりただの気遣いなのだろうか。忍びの考えていることは、よくわからない。
……いや。
はたと考え直して思い至った。
私は誰のことも、何もわかってなどいない。
炉に転がした炭で小さな火を熾して両手を翳す。
赤赤と明るく燃える火は、前回死ぬ間際に見たそれよりもずいぶんと小さくおとなしく見えた。
むしろ、枝の微かに爆ぜる音がどこか耳に心地好い。人に扱える火などこの程度が関の山。
だが、これとて扱い誤ればこの小さな庵ひとつ簡単に焼き尽くすだろう。そして、私の命もまた。
旅に、行き詰まっていた。
この先、出まかせに話したとおり上杉に会ったとて何か道が拓けるとは思えない。その前に凍てつく風に吹かれてこの身が砕け散るか、不興を買って瞬く間もなく胴から首が離れていくか。冷たい死は、とても寂しくなる。火に焼かれた次はそうなるのかもしれない。
それが私にはお似合いだと思った。
南部に言われた言葉が、胸の奥の仄暗いところでずっと横たわっていた。
『客人には違いなかろう』
そうだ。
私は此の世の者ではない。
今いるこの場所を此岸というならば、先の世とは間違いなく彼岸であり、私は遠い彼の世から来た亡者に他ならない。
亡者は来訪した土地に居付かない。彼の世から来て、彼の世に戻る者だ。祖霊として歓待を受けることがあっても、亡者でありながら生きている私が身を寄せられる場所など、此の世のどこにもありはしない。
誰の縁と繋がっているわけでもないのだから尚のこと。
私の縁は独りで同じ円を描いている。
どこに帰れもしない。
どこにも行けない。
彼の世にも、きっともう戻れない。
なにも為せないまま、なにを為すべきかもわからないまま。
じっと見つめる白い火の中に、遠いどこかで見たような誰かの今にも泣き出してしまいそうな顔を思い出していた。
あれは、誰だっただろうか。
こんな私を頼った者などいただろうか。いたかもしれない。もう、顔も朧げで思い出せないが。
己すら救えない身に、いったい他の誰が救えるというのだろう。
……もう当てにしないでほしい。貴方のことを思い出せそうにない私など、許さなくていいから。そうやって貴方も私を殺したではないか。もう随分と前の事の筈なのに、顔も声も思い出せないのに、私の首を絞めたあの掌のぬるさだけ未だに憶えている。
あの手は、幾度も私を屠ってきた手だ。
それなのにどうしてだろう。おかしなことに、どこかの爆弾魔などよりよほど穏やかに想えるのだ。あの手は、いつか本当に私を殺してくれるかもしれない。
ふふ、と唇の隙間から自嘲の笑みが漏れ出ていった、そのときだった。
「ちょっと、あんた何やってんの!」
静寂を裂くように男の叫ぶ声が思考を止めて、ふと顔を上げた。
入り口に立つ血相を変えたつらに見覚えがなく、一瞬名前が出てこなかった。
「ああ……猿飛、さま? でしたか」
「ああ、じゃない! その手!」
手。手が、どうかしただろうか。
言われたままに視線を落とすと、翳していただけだった筈の両手が火にちろちろと舐られているところだった。
なんだ、道理で先ほどから指先がむず痒いと思った。
引き抜くよりも猿飛に手を取られた方が早かった。
「あ……」
火から抜けた指先が彼の持つ桶に突っ込まれる。中で揺らめく自分の指は赤く爛れていて、あっという間に水を赤く染め上げた。
「火の中に手を突っ込むなんて、何考えてんだあんた! 乳飲子でもあるまいに」
「面目ございませぬ、は、は」
「笑ってる場合じゃないでしょ、どうすんのこれ……!」
「どう、とは?」
小首を傾げると、猿飛は俄かに鼻白んだようだった。
「あんた、なんでそんなに平然としていられるんだ、痛みを感じないのか!」
「ああ、これですか」
私は得心して、両目を細めてみせた。
「いずれ朽ちる肉に注意など、何の意味がありましょう」
「……なるほど。こりゃ、かすがが苦手がるわけだ」
それから、猿飛は私などよりよほど手慣れた様子で手当てを終えた。
五指の先まで包帯に覆われた両手は、今生未だ見えていない大谷を思わせた。
そうだ。そういえば、竹中の処に行く用があったのだったか。あの佳人はまだ息災だろうか。彼に会えば、あの誰とも思い出せない顔もわかるかもしれない。竹中は私などより遥かに頭が良い。
上杉に会いに行くなどと言わなければ良かった、という小さな後悔が喉の奥を塞いで私を寡黙にさせた。
猿飛は、何も言わなかった。
そうこうしている間に外はとっぷりと日が暮れて、明かりも床の囲炉裏の火だけになった。
今はその炉端に串刺しの川魚がいくつか炙られていて、時折滲み出た油がぽとりと灰に染みを作った。魚は猿飛が捕ってきたもので、いずれも丁寧に腸が抜かれている。
私が自分で持って食べると言ったのを、せっかく巻いた包帯に血が滲むからと猿飛に止められたので、情けないことに彼の差し出すそれに齧り付いていた。
痛覚は鈍くなったが、私の指先を焦がした火で焼いた魚は妙に美味く感じた。
「すっかり世話をさせてしまい、なんとお詫びすればよろしいやら」
「ま、俺様の見てる範囲であんまり奇行に走らないでもらいたいし、真田の大将の幼い頃と比べればどうってことないからさ」
「真田様とは長いお付き合いで?」
「ま、それなりにね」
私に食わせる合間に魚を齧る猿飛の顔は、炉の赤い火に照らされて酷く穏やかに見えた。その眼差しに、慈愛の光がたしかに浮かんでいるのを認めて、私はつい「ふふ」と小さく笑みを漏らしてしまった。
「この尼入道、眩しい鴉など初めて見ました」
「あんた、手だけでなく目も焼いたのかい?」
「かもしれませぬ。ふふ」
差し出された湯の熱さに真田の気負った若さを思い、彼を導くはずの大きなあの虎を思い、私は目を閉じた。武田殿は私をいつも温かく迎え入れてくれる数少ない武人である。
……そうか。ならば、この身も少しは役立てるだろうか。
意を決して口を開く。
だがそれより猿飛の方が早かった。
「なあ、尼法師。本当は上杉になんか用はないんだろう」
声だけは穏やかだが、私を見るその目に今し方浮かべていた光は無く、しかし影らしく思慮深い態度でもって此方を窺っていた。
「はて」
なんだ、端からばれていたのか。
それでも一度目ははぐらかした。この程度で彼は怒らない。
「あんたが歩いてるのをしばらく観察させてもらってた。しきりに西を確かめて歩いていたようだが、上杉のいる越後へ向かうつもりなら方角が違う」
「……」
「本当はどこへ行きたかったんだ?」
どこへ、など。
私の方が知りたいが、そうか。猿飛の見た私はいずこかに惹かれて歩いていたのか。それが私の無意識下で求める場所なら、きっとただ一つだろう。
「これでも尼僧ですから。西方に惹かれるのは自然なこと……」
「わかった。質問を変える」
「……」
「尼法師……あんた一体、今まで何回死んでる?」
確信を持ったその声に、もはや私の心臓は驚きも歓喜も恐怖もしなかった。
ただ、喉がやたらと掠れた。
「もう思い出せないほど」
「……」
「本当はもう、ずっと死んでしまいたいのです。早く浄土へ渡りたい。もう此の世に未練などないのに、そんなもの覚えてもいないのに何かの因果が私を何度も此の世に呼び戻す。おかげで死に損なって道に迷って、このざまです」
すっかり動きの鈍くなった手で床を這う。
砂を噛むのも気にせず、そこに深く額付いた。
「貴方の仰有るとおりです、猿飛様。ですので、どうか……お情けを」
「なんだって?」
「殺してください」
俄かに猿飛が此方を睨んでいる気配がした。
それでも良かった。彼の殺しは、苦しくない。
それに、もしかしたら、という希望があった。
「噂でお聞きしました。甲斐の武田様が病に臥せっておられるとか。この八百比丘尼《ばけもの》の身はきっと霊験あらたかでしょう。どうぞ、この身を虎に献上いたしたく」
「釈迦の真似事でもしたいってわけかい。悪いけど、そういうことなら他を当たってくれる? あんたを殺すとうちの大将が悲しむ」
「死体を拾ったとでも言えばよろしいじゃありませんか。それに、海向こうの大陸では罪人の血肉は妙薬になるのです」
死んで役立てるなら、いくらでもくれてやりたい。
意味のある死を迎えたい。
その一心で、強く頭を地に擦り付けた。
「どうか、私を役立つ物にしてくださいませ」
猿飛はすぐには返事を寄越さなかった。
殺すべきか決めあぐねているようでもあったし、狂言に呆れているのかもしれなかった。
しばらく、囲炉裏の小さく爆ぜる音だけが静寂に響いていたが、やがて。
「……あんたの肉を御館様に食わせるわけにはいかないし、理由なく人を殺すのは猿のすることだ」
結局そう結論付けたらしい。
私は面を上げなかった。
「それはとても残念で」
翌朝目を覚ますと、既に猿飛の姿はどこにもなかった。彼にはとんだ無駄足を踏ませてしまった。だが、もう追ってこないだろう。
こんな身など殺したところで何の罪にも問われないだろうに。
それとも、やはりあの手の持ち主でなくては私は死なせてもらえないのだろうか。あれは果たして誰だったか。
はらりと解けた包帯の下の膚が、朝陽を受けて赤黒く光っていた。
山中草庵にて
(2023 02/15)【
←|
無】
【←もどる ↑Site top】