豊臣の軍師である大谷吉継がその者の姿を視界に捉えたのは戦に向けて行軍中、道中の廃寺で休憩を取っているときのことだった。
薄暗い堂の奥、かつては本尊だったと思しき朽ちて伏せた如来坐像の前で、見慣れない背が座禅を組み経を上げていたのだ。
すぐそばに大きな行李と笠と錫杖を置き、白の帽子と黒の僧衣に身を包んだその格好からしてどうやら旅の尼僧のようだったが、大谷はどうにも腑が落ちない。
あまりにも周囲に溶け込んでいるその姿からは、たしかに視界に存在しているにも関わらず気配というものがまるで感じ取れないのだ。
経の声もとても小さく、注意して聞き耳を立てていてもすぐにわからなくなりそうな程である。
すぐ周りで腰を下ろし思い思いに休んでいる足軽兵たちすらその尼僧の存在には気付いていないようで、ある種の異様な雰囲気に大谷は少し離れた場所から尼僧を観察していた。
この世にありながら、この世から隔絶されたかのような存在。加えて、その漂わせる気配はまごうことなく、何者かに掛けられた呪いのような強い不幸だった。
『あれ』は一体、何だ。
そもそも、大谷がその尼僧に気がついたのもほんの偶然のようなものだった。いつからそこにいたのかもわからない。
疑わしきは罰すれば白黒はっきり結果も出よう。
輿をふわり浮かせ大谷は尼僧の背後を取った。
不思議と、誰も大谷の行動に気付いた者はいなかった。
「答えよ。ぬしは何者ぞ」
大谷のその問いに、経が止み俯いていた白帽子が僅かに上を向く。おもむろにこちらを向いた尼僧は、実に緩慢な動きでまばたきをした。
どこかで見たような暗い星運びの浮かんだ顔、と既視感を抱いたのも一瞬、大谷は尼僧を睨みつけた。
否、こんな女は知らない。
尼僧もまた大谷を観察するように目を細めた後、思い出したかのように「ああ!」と手を打ち笑顔を作ってみせた。
「これはこれは、お偉い軍師のお方ではございませんか! あー……薬師如来様の薬壷が必要そうなそのお体……お久しぶりでございますね、大谷刑部様」
馴れ馴れしいその言葉に、包帯の下でたまらず眉を顰めて首を傾げた。
「はて、われとぬしは初対面よ、初対面。知己のふりをしてわれを欺くか」
尼僧は再びぱちりとまばたきをした。
こんな間抜けそうな顔に覚えはやはりない。顔に覚えはないのだが、何かが引っかかる。
目の前の女は視線を上に遣りながら、「おや……? そうでございましたか、これは大変失礼を。それでは初めまして大谷刑部様」と繕うように言葉を紡ぎ頭を下げる。
物腰は穏やかで丁寧だが、どこか気に障る女だと思った。
「言え。ぬしは何者か。どこぞからかの間者か、ここで何をしておる」
「なんとまあ、いっぺんにものを訊ねて忙しない。単なる旅の尼入道が寺にいては不安でしょうか」
「なに?」
「たしか……貴方様は豊臣のお方でしたか。私からも一つお伺いしたいのですが、竹中様はお元気でしょうか」
女は穏やかな微笑みを崩すことなく大谷に問い掛けた。
これを見つけてから面食らってばかりだ。豊臣の竹中といえば豊臣軍副将たる軍師、竹中半兵衛だ。なぜここで賢人の名が出てくる。彼にこんな知り合いなどいただろうか。それとも先程のように己を騙そうとしているのか。いずれにせよ舐めた真似をしてくれる。
狂言を、と大谷が数珠の一発でも打ち込もうと手を翳したそのとき、彼は背中から己を呼ぶ声を受けてそちらに気取られた。
この度の軍を預かっているのが声の主、豊臣総大将が左腕の石田三成である。
朽ちかけの床板などものともせず彼は早足で大谷のそばまで来るなり、神経質そうな細い目をさらに細めた。
「刑部、そろそろ出発だ」
「あい、わかった」
「こんなところで何をしていた」
「いやなに、この者を……」
前を向きかけて、絶句した。
そこには木肌の荒れ果てた仏像が床に伏してあるだけで、他には誰もいなかった。
「……? 仏像など放っておけ」
それはその通りなのだが、そういうことではない。
先程までいたあの不可思議な尼僧は一体どこへ消えた。行李や笠まで消えている。ほんの僅かだけ目を離した隙に……?
よもや狐にでも化かされたのか。このわれがか。
気配を探そうとしても元から僅かなものだった、見つけられはしないだろう。
「……」
ただ、やはり何かが引っかかる。
顔は知らぬ、声に覚えもない。
けれども、何かが。どこかで、そうどこかであの幾重も纏う不幸を見た気がするのだが、はて。それに賢人の名前を出してきたのも気に掛かる。
……やれ、どうやら進軍具合の他にも報告せねばならぬことができてしまったらしい。
廃寺にて
自らを尼入道などと嘲る慇懃無礼かつ、煙のようにたち消えて見せた尼僧。
何よりあの濃い不幸と既視感を纏わせる稀薄な存在とは。
大谷はひっそりと膚を引き攣らせながら笑んだ。単純に、興味がわいた。
(2015 06/11) 【
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