森に囲まれると、私はかなりの確率でしんでしまいたくなる。
首を括れる太い枝が多いからではない。
単に方角を見失って迷子になるからだ。
川に出られればまだ良い、下流へ歩けば大抵は集落の一つ二つに出くわして道を尋ねられる。
けれども、鬱蒼と茂った深い森で一度迷ってしまえば一切の望みが絶たれる。方角がわからなくなったときが、一番きつい。遠くからは梟に紛れて鵺の声でも聞こえてきそうだし、いやに生温い風が吹いてきたときはいやな気配がする。
尼僧が物の怪を恐れるかと笑われそうな話だが、もともと怪談は苦手な性分なので仕方がない。
そして現在、陽が暮れる黄昏時である。
上を見上げれば、橙の空に鳥と枝葉の黒い影がみっしりと。手には空になった竹筒。周りはどこを見回しても樹、樹、樹ばかり。
ああ、遠くから野犬だか狼だか知らぬ獣の遠吠えが響いてきて、閉塞感。
……つまり私は今、猛烈にしんでしまいたくなっていた。
もともと、姉小路頼綱に用があって飛騨の帰雲城を目指して北上していた。
彼には過去から何度も世話になっており、これでも道や方角の記憶には自信があったつもりだった。何せ何度もあちこちから訪れたことがある。
それでも迷ったのは、毎度目印にしていた三本松を今回は見つけられなかったためである。あれを見つけていたなら、いつものように一番大きい松の先へ進めば見慣れた景色に着くはずだった。
向こうにも文は人伝だけれども届けてあるので、今頃首を傾げているに違いない。『尼入道は一体いつ来るのだ』と。
幸い、荷は普段よりも軽いが、いかんせん道に迷ってからは余計な体力ばかり使ってそろそろ疲労が溜まってきた。
一休みしたいところだが人の世界ではない山での野宿は怖い。野盗にでも出くわした方がずっとマシだ。
私が迷っているうちにも陽はどんどん暮れて、いよいよ辺りは紫の帳が降りてきた。
人の気配は、ない。
「……これは、しんでしまった方が早いのでは」
弱気な独り言に返ってくる言葉もなく、途方に暮れたそのときだ。
不意に、後ろの方から葉の擦れる不穏な音がして、私はびくりと震えた。
ごくり、生唾を呑む。
こちらに近付いてきている。
……四つ脚の獣か、はたまた妖か。
ほとんど薄暗くなって見えない闇を捉えようと必死に目を凝らす。応戦できないこともないが、物理的に武器になりそうなのは細い錫杖くらいしかない。大事な鑿は意地でも血に染めたくはないし、かといって食いちぎられて死ぬのも嫌だ。釈迦なら前世で餓えた虎に自らの身を投げ出したが、生憎この私にそこまでの仏性は備わっていない。
そうこうしている間に謎の気配はすぐそこまで迫っていた。
ザ、ザ、ザ、と見えぬ音が近付いてくる。
生きるか、しぬか。
しんだ方が遥かに容易いが、ええいどうする!
覚悟を決めきれず、目を皿のように見開いて身を固くし錫杖を握り締める。
けれども、そんな私の前に現れたのは、熊や猪どころか狼でも鵺でもなかった。
その『人』は背負った笹葉を揺らし。
「……来るのが遅いので、こちらから迎えに参った」
樹をかたどった兜の男が悠々と暗い森から姿を現した。
その見慣れた姿にどれだけ私が安心したことか!
「あ、姉小路様!!」
思わず声が弾んで、私はへなへなとその場に脱力してしまった。慌てて頭を下げたのを、姉小路は手を取って立たせてくださった。
「よく私がここだとおわかりになりましたね……」
「森はなんでも知っている、おまえの居場所を教えてくれた」
「なんと有り難い……この尼入道、あと少しで自刃してしまうところでした」
「早く城へ戻ろう、尼仏師殿。眠っている夜の森を起こさぬうちに」
ただでさえ表情に乏しい塩顔の姉小路の顔などすっかり暗くなって見えなかったが、きっと微かに笑んでおられるような気がした。
そして、再び迷子にならぬようにとひかれた手が大層温かく、そこで初めて自分がどれだけ冷えてしまっているか気がついた。
* * *
「改めまして、お久しぶりです姉小路様。数え切れぬ数多のご縁によって生かされております、円拝でございます」
昨夜は城に迎えられ一部屋与えられた上に、陽も沈んだ後だというのに膳を馳走になり布団まで用意してもらい、私は久し振りに熟睡することができた。
そして夜明け前に川で身を清め朝餉も戴き、こうして姉小路に謁見しご挨拶を申し上げたところである。
姉小路は小さく頷き、「遠路はるばる、御苦労だった」と仰った。
「材の話なら既に民に伝えてある。こちらもそろそろ、おまえが来る頃だろうと見当をつけていた」
「感謝いたします」
姉小路氏の治めるここ飛騨の国は、私が昨夜迷った山をはじめ、広大な森林を持つ。そしてここで育った檜は私の知る限り、日の本では一番上質で仏像を彫るには最適のものなのだ。
とはいえ、私のような流れ者が最上級の丸太など貰うことはない。私が戴くのはその端材だ。端だろうと檜は檜、良い香りもあるし質は確か。携帯する小さな守り本尊などを作るにはうってつけである。
そしてそれらは私の路銀に化ける重要な役目を持っているのだ。ちなみに、托鉢だけで一遍生きてみようとしたこともあったが、一握りでも銭は持っていた方が良かったと結局悟る結果になった。
「今年は例年よりも幼木の間伐が多かった。薪にと思っていたが、すべてそうしてしまうのは森に対して礼を欠く。尼仏師殿はいつも良いときに来てくださり有り難い」
「持ちつ持たれつ、これもご縁でございましょう。今回は如何されますか」
「城下の寺の本尊が手や頭部を損壊したらしい。その修繕を頼みたい。それで今回は手を打とう」
「ははァ」
三つ指を揃えて深々と頭を下げる。
そう、持ちつ持たれつ。全ては人と人の助け合い関わり合いがあってやっと成り立つのだ。人は一人では生きていけぬ。およそ真っ当な人間から外れてしまった私とて例外ではないのだから間違いない。有り難いことである。
「合点承知。この尼入道、謹んでお受けいたしましょう」
鑿を構え、私はお得意の殊勝そうな笑みを浮かべてみせた。
帰雲城にて
森に独りで囲まれるとしにたくなるのは変わらない。
けれども穏やかなこの御仁の守護するこの国に育つ樹は、触れると何やらほんのりあたたかい気持ちになる。
(2015 06/13) 【
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