橋を越えて山門をくぐったそこは、いたる所に積み石と枯れ木が散見し地中からは湯気の吹き出す、まごうことなき地上の地獄である。
いつ訪れても独特の臭いがするこの荒涼とした山々の、その真ん中にある唯一清廉たる湖の畔で一人、材をひたすら彫り続けて二晩経った。
この場で不用意に火を扱うことはすなわち、死を意味する。
何も知らずに餅を焼こうとして引火爆発を起こした昔のことを思い出しながら、私は持ち込んでいた木の実をかじった。木喰といえば聞こえは良かろうが、やはり欲を言えば火を通すなり真水にさらすなりして灰汁抜きしたものが食べたい。
囲む八峰を蓮華八葉となぞらえて呼ぶこの中心に、こんな私が存在すること自体おこがましいことなのではないか。
そうは考えても今まで幾度となく足を運んできたし、恐らくこの先何度廻っても私はここに戻るのだろう。そうしてまたここを出て行く。
ここは人が己の魂を見つめる場所でもある。
また、陸奥の国に住む者たちは皆、死ねばこの山に『還る』という。そういう信仰のある霊山は少なくないが、ここは中でも別格だろう。故に私も何度もここへ戻らずにはいられない、のか。
赤い灯りを灯すことができずとも青白い光をもたらす常世の者たちがいるおかげか、普段であれば寝入ってしまう夜でも私の鑿槌は止まることを知らない。黙々と材と向き合い、ひたすら面を取っては彫り進めていく。槌を打つ音と鑿が材を削る音だけが、丑三つ時の静寂に響く。
幽かな薄明かりは水面に波紋ひとつ浮かべず漂っていた。
ここは生者と死者の集う、あの世とこの世の境界だ。
生者は死者を喪い苦しむ己を慰めるため、あるいは迷いのある己を見つめるために。
死者はその生者に引き寄せられるためか、はたまたここが六道と浄土の景色そのものに似ているからか。
ただでさえ積み石だらけの荒廃した山だ。噴き出る白煙は地獄の瘴気のようでもあるし、血の池を彷彿とさせる場所もある。それを囲う山端から黄金色の陽が昇る様は、まさに仏の来迎そのものだ。
しかし、夜はか細い星の光も届かぬ闇に包まれている。この山の夜は、酷く濃密でやたら長い。
「おぬしは何故ここへ還る」
「さあ……なぜでしょう」
「往きて廻り還りて巡り、この道も何度目になることか……深き業よ」
「ほんにおっしゃるとおりで、南部様」
ザ、と砂を踏み締める音が材を彫る音に混じる。
その音は隣までやってくると止んだ。
この山の厳しさ、うら寂しさをすべてその身に降ろしているかの如き老人、それが陸奥の戦国大名、南部春政である。
「私とて、すくわれるものなら早く此処からすくわれたい」
顔は上げずにそのまま仕上げに掛かる。
……ひとつ廻る度に彫り上げてきたこの地蔵菩薩様も、一体何躯目になるのだろう。
地蔵殿の中を思い描くが、本尊である六尺余りの地蔵尊の側には、今まで私が奉納してきた仏様が本尊のお足元に寄り添うようにして並んでいたはずだ。その様は同じ仏の形であるにもかかわらず、まるで一条の光に縋る矮小で卑しい餓鬼たちのように思えて仕方がない。そしてその者たちの数だけ、私の見えない背負うものは増えていく。
今もまた、ひとつ。
「地蔵菩薩は六道にて迷える衆生を導く仏……しかし円拝」
「……」
「おぬしが彷徨うは既に地獄の六道にあらず外道なれば、もはや」「南部様」
遮った私の声は震えていなかっただろうか。
それを隠すように鑿を持ち替え、肺から息を押し出す。
槌を構え、今まで何度も託してきた言葉を刻むように唱え打ち込んだ。
「この尼入道、もはや忘れてしまった目的のために、この魂擦り切れるまで廻り続ける所存で……己が救われることは、既に諦めております」
私が本当に恐れているのは、このまま何の目的も役割も果たせずに時と魂を浪費していくことだ。
私が何度も何度も生と死を繰り返すことには、未だ解らない何らかの意味が、理由があるはずなのだ。あると思いたい。
でなければ、どうしてこんな己を受け入れられよう。私とて何度も無為に廻るのは苦しい、それともこの現実こそが私の受けるべき責め苦なのか。
闇夜に槌の音だけが響いている。
南部はついに一言も返さぬまま、朝陽の昇る前にこの場を後にした。
私の鑿はまだ止まらない。
未だに、止まらない。
恐山にて
ただ、何か誰かを救わなくてはならなかったような、そんな朧気な記憶だけが澱のように心の底に横たわっている。
それともその思いすらも業なのだろうか。
答えはまだ、出そうにない。
(2016 04/06) 【
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