日の本を二つに分けた、あの大戦からしばらく。
人と人との繋がりを絆と呼ぶ徳川が各地にくすぶる残り火を消し回って奔走していたのも、もう過去のこと。
誰もが新しい時代の風を肌で感じていたその陰で、ひっそりと息を引き取った男がいた。
「金吾さんは死ぬ間際まで『きっと呪われたんだ』といって、ずっと怯えていました」
そう話す高僧の口振りは、とてもではないがその主と共に過ごしていたとは思えぬほど白々しく他人事のようである。
白く長い髪が歩きにそって重そうに揺れる。
案内されている私はその背を追って歩く。
ここは烏城、今や主を喪い臣下も失った単なる空の箱である。もはや誰ともすれ違うこともない。かつての鍋を巡る喧騒ももうなく、私と目の前の男が歩く床の軋む音しか、聞こえない。
以前、その小早川秀秋に頼まれて小さな仏像を贈ったことがあった。今回はその仏のことで呼ばれたのだった。
「貴女より戴いた仏さまを毎晩握り締めて、慣れぬ酒に縋り、泣きながら祈っているお姿は……それはそれは、なんとも哀れでお可哀想でした」
「私も少しは、お役に立てたようで」
「ええ……鍋に誤って落としてしまわれたときも、とても手をかけて綺麗に洗って拝んでいましたよ」
「まあ。お声掛けくだされば、すぐにでもまた彫りましたのに」
「すべては過去のことです。そう、過去のこと……」
高僧、天海が足を止める。
その前には他とは違う絢爛な襖があり、そこがかつて小早川の寝起きしていた部屋であり、そして息を引き取った場所なのだと気がついた。
天海がおもむろに振り向いた。仮面と髪で隠れた顔から読み取れるものは、慈しみとやらを浮かべた眼だけである。
その目が、真っ直ぐに私を射抜く。
私は余計なことを口走ってしまいたくなるのを堪えながら、その目から逃れた。酷く居心地が悪いのだ、この男の傍は。息が詰まる。私は締めていた白帽子の紐を少し緩めようと袈裟の下でもがいた。
天海はさして気にしたようでもなく、「では、こちらへ」と襖を開け放ち中へ入っていったので、それも叶わないまま私は後に続く。
鼻についたのは、死臭ではなく鍋物の匂いだった。
それもそのはず、中の調度品はほとんど片付けられていたが、生前の小早川が背負っていたと思しき見覚えのある鍋が部屋の隅に重ねられていた。襖絵に描かれた松の前に立つ鶴たちも具材に見えてきそうな部屋である。
そして、その鍋のそばの文机の上に、件の仏像は置かれていた。
一尺どころかその半分にも満たない背丈の観音像である。
天海から手渡され確認すると、どうやら光背を支えていた細い支柱を何度か折ってしまったのか、丁寧に膠か何かで固められた痕が幾箇所かあった。それにたしかに、どことなく出汁の匂いがする。あの小心者のことだ、鍋に落としたときはさぞや大いに焦ったことだろう。想像するに難くない光景に、ふっと笑みが零れた。
「こんなに大事にされていたのですから、きっと浄土へ往生なされたことでしょう。私からも今一度、経を唱えさせて戴きたく存じます」
数珠と折経本を懐から取り出そうとして、その手を掴まれた私は反射的に身を固くした。
掴んできた手が、ぞっとするほど冷たかったのである。
そして厭でも重なって見えるのだ。
天海が私を見るその目が、表情が、きりきりと細糸を巻くように私の胸を締めつける。
「あ……あら、天海様?」
すんでのところで出そうになった名前を飲み込み、訊ねる。
覗き込むように見開かれたその双眸に、竦んで強張った私の顔が写り込んでいた。そう、たしかに私を見ている。
「その前に、もう一
躯……お見せしたく」
けれども何故か不思議と、彼と目が合っているとは思えなかった。
それは今日この城に来て言葉を交わす間ずっと、ただの一度も。
貴方は一体、どこを見ているのですか。そのたった一言を口に出せないまま、今に至る。訊いてしまったが最後、もう後には引けなくなるような、そんな言いようのない漠然とした不安に覆われているのだ。それがどこから湧いてくるのかもわからないまま、私は喉を鳴らした。
私は今、この男に心底怯えている。
天海はそんな私の心情を知ってか知らずか、手を離すとするすると身を引いていった。けれども有無をいわさぬ調子で「ついてきて、くださいますか」などと目を細めてのたまうのだから、私は頷くより他なかった。
続いて案内されたところは、そこから離れた小さな部屋だった。死体がないのに死臭のするここが誰の部屋かなど、考えるまでもない。
「金吾さんは、もっと広い部屋を用意できるとおっしゃったのですが、一介の僧には十分すぎますよねえ」
私は愛想笑いもできないまま、部屋の前で立ち尽くしていた。
また、ぶれる。
台に掛けられた鎌が、黒い燭台に紫檀の文机の位置が、その上に置かれた筆箱、その中の墨や硯の何から何まで、部屋の中に立つ男の姿が重なっていた。
不思議な感覚だった。普段ならばこんな細かい物事などすぐに忘れてしまっているのに、ましてや織田が無くなり彼が消えてからもう何年も経っているというのに、頭の奥から懐かしい声が聞こえる。息が苦しい。頭が痛む。私は彼を、この男を知っているのに、わかっているのに、何故、なんで、なんで。
「……天海、様……私は、申し訳ございませんが、……っ」
「おっと」
ふらついた体を支えたのは天海の細腕だった。
その腕が、手甲が重なる。黒に黒が、像が重なって、手が。
「まだですよ」
仮面でくぐもった声が密やかに囁いた。後ろ首を掴まれ呻き声が口から出ていく。
そして私の手に押し付けられた物は、像は、それは。
「さあ、思い出してください」
「ひ、──ッ!」
それは、未だに忘れることのない一番古い記憶。
私が、およそいくつも繰り返してきた『私』ではなく一番初めの私が、そして何度も繰り返し彫ってきたものではなく、正真正銘初めてのものが、とうに消えて無くなってしまっていてもおかしくないはずの物が、そもそも『今』『ここに』存在していること自体が有り得ないはずのそれは。
「これを持って、しっかりとよく見て、それから思い出してください」
「天海様、これ、は……ぐっ」
押しのけても押しのけてもさらに押し付けられるそれは、既に黒く変色して角も取れ丸くなってしまっている。
いつだったか誰にだったかどうしてだったか、肝心なところは何一つ思い出せないその仏像はたしかに私が彫ったものだ、けれども一体どれだけ昔と思っているのか。どれだけ前だと思っているのか。なぜこの男が持っているのか。
両の目を皿のようにかっ開き片腕でもって押し付けてくるその形相の前には、そんな疑問は消し飛んだ。
彼の顔が、必死を通り越して、もはや今にも泣き出してしまうのではないかというほど崩れきっていたからだ。
「さあ! 目を開いて!」
「天海、」
まさか、と靄がかかりはじめた頭で気付いたのは、一つの可能性だった。
「見なさい、心の奥深く、広げた指と指のあいだから零し落としたアナタのほとけさまを!」
「てんかい、きさま」
私の巡る理由を、因果を、罪科を、おまえは知っているというのか。
ぐらぐらと頭が揺さぶられる中での刹那、初めて目が合った、という実感があった。
ああ、おまえは。
「……あなたに
発願した、初めのただ一人を、思い出してあげてください」
また、そんな消え入りそうな声なんか出して。
しかし声を出すことはもうできなかった。
視界が、耳が、意識が全て急速に闇に呑まれていく。力が抜け、五感がなくなっていく。真っ暗闇に溶けて広がって消えていく。
これは死だ、何度も何度も繰り返してきた死であり、それはまた私が失敗したことを意味する。
ああそんな、せっかく何かわかったと、気付いたと思ったのに、わたし、は、…………。
* * *
目を覚ますと、そこは見慣れた山道の真ん中だった。
倒れていた身を起こし、あたりを見回す。
何かを掴み損ねたような、今し方まで覚えていた夢の話を忘れてしまったような、記憶にぽっかりと大きな穴があいている感覚。
ああ、またやり直しか。
戻ってきたばかりのためか、頭がまだ痛むのでよく思い出せないが、『前』はどこまで進んで何を間違えたのだろうか。
いつもはすぐに死因を思い出せるのに、今回はなかなか思い出せないのが妙に引っかかる。
とりあえず、這ってでも移動しなくては。
初めにここの領主及びその兵に見つかると、すぐにまたやり直しが待っている。慌てて潜む山を間違えようなら最後、道に迷った挙げ句に凍え死んだこともあるここは近江国、あの坂本城のすぐおそばである。
……私の流転は、いつだってここからまた始まる。
繰り返し
そしてついでに何かをまた一つ、忘れて先を進むのだ。
何かを忘れて、覚えて無くして、拾っては忘れて。
繰り返して私は一人、何かを何度も探すのだ。
何度も何度も、何度も。
(2017 05/01)【
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