甘く溺れる 01


 カツカツという覚束無い不規則なヒールの音と、それを支えるような革靴が地面を擦る音が絡み合って静寂を破る。


「成瀬、この部屋でいいんだな?」
「う〜ん、鍵開けて……」
「ほら、しっかり立てよ」


 私を支えながら鍵を開けて、雪崩込むように私を玄関に横たえる。もう少し丁寧に扱いなさいよ、と心の中で毒突くも酔っている私はそのまま玄関に倒れたままだ。
 成瀬、と私を呼ぶ声が少し上気した。それもそうだろう。気のある同僚が酔い潰れてその部屋に送っているのだから、普通の男なら送り狼になるところだ。
 近づく気配に少し身体が硬直しかけるも、覚悟を決めた私は、降りかかりそうな温もりを受け入れる覚悟をした。


「……何してるの。いいのかな、酔っている人を襲うのは犯罪なんじゃないの?」


 今入ってきたであろう玄関から聞こえた声に、落胆と安堵が絡み合った複雑な気持ちが湧き上がる。私に覆い被さろうとした彼は、素早く私から離れた。


「違う、送っただけだ! じゃ、じゃあな成瀬。また会社で」


 爽やかが売りの彼らしい返答。だけど去り際に呟いた、男がいる部屋に送らせるなよ、という言葉に、罪悪感を覚え心の中で謝った。
 彼が出ていった後、入れ替わるように入ってきたのは、金色の髪を揺らし大きな碧眼をもつ少年。いや青年か。その彼はその双眼を真っ直ぐ私に向け、身を屈めて私と視線を合わせる。


「……わざとでしょ」


 その言葉に私は何も答えなかった。いや答えられなかったという方が正しい。ここで咄嗟に次の言葉が出てきてさえくれたら、この作戦も成功していたのに。慣れないことはするなと言うことなのだろうか。


「どうして邪魔したのよ。合意の上よ」
「そんな安心した顔してるのに?」
「……」
「そもそも本当に抱かれるつもりだったならホテル行くよね。僕に見せつけるため? 誰でもいいなら僕でもいいでしょ」
「アルミン離れてっ!」


 言葉を繋ぎながら、まだ玄関で上体しか起こしていない私に覆い被さるように近づく彼に、今にも唇を塞いで来そうな彼に、私が向けた声は思ったよりも大きかった。
 身体の中から打ち付けるように鳴る胸の音が彼に聞こえてしまうと思ったから。まだ灯りをつけていないから顔が赤くなっている事はバレずに済みそうなのが幸いだ。


「コハルさん、嘘が下手だよ。もういい加減気づいてるでしょ? 分からない?」


 伸びてきた手が頬に触れる。まるで硝子細工に触るかのようなその優しい手に、熱が一気に集中した。
 早く起きなきゃ。逃げなきゃ。そう頭では思うのに、お尻が床に縫い付けられたみたいに動けない。


「……どうしたら、素直になってくれる? 僕は本気であなたを想っているのに。もう、子どもじゃない」


 ゆっくりと近づく端正な顔に、私はどんな顔して彼を見ていたんだろう。口ではいくら否定しても、こうして近づかれるだけで、胸は熱くなり全身で彼を受け入れたいと思ってしまう。
 だけど、その理性ギリギリの所で毎回聞こえる声がする。その悪魔なのか天使なのか分からないその囁きのせいで、私はこの気持ちをどうにも出来ずに持て余していた。



 遡ること半年前。それは一本の脳天気な電話から始まった。実家の母からの電話で、どうでもいい話を長々と話した後、そろそろ電話が切れるだろうというタイミングで投下された爆弾。

――ご近所に住んでたアルレルトさん覚えてる? そのアルミンくんが大学編入する事になって、コハルのマンションが近いのよ。だから面倒見てあげてちょうだい。あ、家賃は卒業まで全額もってくれるそうよ! 来週からね〜よろしく!

 我が母親ながらアッパレだと思った。
 物凄く大事な話を勝手に決めて、しかも一方的に有無を言わさない。しれっと仕事を取ってくる営業向けなのではないかと思う程だ。
 電話を切った後に脳を整理するも、私の記憶ではアルミンという子の顔がぼんやりとしか思い出せなかった。
 確かに近所に外国から来た家族が居たことは覚えてるし親同士が仲良かったから遊んだ記憶もある。だけど、まだ小さいその子と私とじゃ遊ぶ内容が違っていたし、そんなに遊んだ覚えはない。
 普通、娘の元へ思春期の男の子を送るだろうか、親が。そう思うも、自分が少し前に親に話した事を思い出し、一人頭を抱えた。
 数ヶ月前まで同棲していた私は彼氏に振られ出ていかれ、一人暮らしでは広い2LDKに住んでいる。だけど家賃高い。そんな愚痴を零したのが原因だろう。母からしてみたら、娘に助け舟を与えたようなものだったのだろう。
 そんな経緯でひとつ屋根の下に、幾つも年の離れた金髪の男の子を住まわせることになったのだ。
 可愛いペットを飼うことになったと思えばいい。そんな考えが浅はかだったと気づいたのは、彼を迎えて一週間程経ってから。


「僕、コハルさんが好きなんだ」


 彼の発した一言で状況がガラリと変わってしまった。恋愛経験が元々豊富でない私は、すぐに彼を男として認識してしまい、外国特有なのか、何度も好きと言われ、気づけば完全に恋していた。
 可愛いし、懐いてくれる。好きだと言ってくれる。可愛い顔をしてるわりには腹筋なんてシックスパックだ。その上スキンシップが多い。意識しない方が無理な話だった。
 結婚適齢期のアラサー女子が年下の男の子に。しかも大学生。これは何としても深みにハマる前に出ていってもらおうと私が考えた作戦のひとつが、先の件だったのだ。





「好きだよ、コハルさん」


 吐息が顔にかかる距離で囁かれた愛の言葉。この先に進んだら終わりだ、と脳内でアラームが鳴り響くも、お酒の所為でその音に靄がかかっているようだった。
 逃げようと思えば逃げられたかもしれない。押し返すことも出来た。でもそうしなかったのは、私の中の悪魔が囁いたから。
 一度くらいキスしてみたらいいじゃない、と。


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