甘く溺れる 02


 あの夜から一週間が経った。
 元々夜バイトをしてるアルミンとは寝る直前に顔を合わせる程度で朝も私が早いから、顔を合わせずにやり過ごすことは大した事ではなかった。
 だが私の気持ちはどうだろう。
 あの日、軽くだけど確実に触れた唇の熱は、一週間経った今でも覚えていた。まさか本当にキスするとは思っていなかった。いや、受け入れてしまった自分が予想外だったのだ。


「あー、頭痛い」
「成瀬さん風邪ですか? 大丈夫ですか?」
「竈門くん……ううん、考えすぎて頭痛いだけ。風邪でも何でもないから安心して」
「悩みだったら俺聞きますよ! 今夜飲みに行きませんか?」


 隣のデスクに座る後輩の竈門くんが、曇りなき眼で私を見つめる。彼は確か新卒で入ったからアルミンとそう歳も離れていないはず。
 竈門くんに下心が無いことは明らかで、自分で抱えている悩みを同年代の友達には相談する気もなかった私は、華金ということもあってその誘いに乗った。


「悩みって、もしかして恋ですか?」


 乾杯をしてすぐさま本題に入ろうとする竈門くんに思わず喉に流し込んだビールを噴き出しそうになった。鋭い。しかも恋とは無縁そうな――失礼だけど――彼から恋なんて言葉を耳にするとは、今どきの子はみんなそうなのだろうか。


「いや、恋っていうか……」
「成瀬さんが仕事で悩むとしてもまず俺には相談しないでしょう? 悩みを聞くとは言いましたけど、意外とアッサリ了解したから、もしかしたら俺と年齢が近い人に恋してるのかなって」
「……鋭いね、竈門くん」
「俺、昔から鼻が利くんですよ! 匂いで何となく、そういうのが分かるっていうか」
「そう、なんだ」


 何でも聞いてください、と瞳を輝かせている竈門くんに、私はグルリと視線を逡巡させてから小さな溜め息と共に重たい口を開いた。
 アラサー女の悩みを真剣に聞いてくれる竈門くんは、間違いなくいい子だ。


「つまり、成瀬さんは好きなんですよね、その人のこと。両想いって事ですよね。何が問題なんですか?」
「えっと……私は結婚適齢期なわけ。いま遊びで恋愛してる時間はないっていうか。それに若いと出会いは沢山あるわけで、もっと年齢重ねてから捨てられるかもって思うと……ちょっと怖い」


 話しながら渇いていく喉を潤すために飲み過ぎたせいかもしれない。心の奥に隠していた気持ちがペラペラと流れるように吐き出されていく。
 前に付き合っていた人に未練はないけど、その時の傷は癒えたわけではない。他に好きな人が出来たと出ていった時の絶望感はそう簡単に忘れられるものではなかった。
 アルミンは若い。だからこそ、その可能性が強いから余計に怖いのだ。ずっと私だけを見てくれるという自信が、私にはない。


「成瀬さん、それって相手も同じですよ」
「え?」
「怖いって思うからこそ大事にしたいって思うんです。失いたくないからこそ。それに成瀬さんは遊びで恋愛できないと言ってましたけど、どうして遊びだって決めつけるんですか? 僕ならちゃんと向き合って自分の気持ちに嘘はつきたくないです。後悔はしたくないから、自分に出来ることはやりたいって思います」
「……竈門くん、歳サバ読んでるでしょ」


 俺は長男ですから、と意味が分からない理由を言った竈門くんが「大丈夫ですよ、成瀬さんなら」と背中を押すように笑った。
 彼に言われて気づいたけど、私は今までちゃんとアルミンの気持ちと向き合った事があっただろうか。自分がこれ以上この恋に溺れてしまわないようにする事ばかり考えていて、ちゃんと向き合って来なかった。ずっとアルミンの気持ちを否定してきた。自分が傷つかない為に。年下のアルミンの気持ちを無碍にしてきたのは、この私だ。


 少しだけ光が差したような明るい気持ちで店を出た。ホロ酔いの私を介抱する竈門くんに寄り掛かりながら駅に向かって歩いていると、「コハルさん?」と背後から声がした。
 その瞬間に、心臓を掴まれたように苦しくなる。


「何してるの、こんな所で」
「ほら今日は金曜日だし後輩を連れて飲みに来たの……色々と話してて、ちょっと気分良くなっちゃって。ね、竈門くん?」
「あの成瀬さん、この方……あ、あの俺用事思い出したので任せてもいいですか? じゃ!」
「ちょ、竈門くん待っ、」


 竈門くんに伸ばした手は、当たり前にアルミンのてによって掴まれてしまった。視線を少しあげると、竈門くんが去っていった方を向いていた視線が私へと降りてくる。
 怒っているようで苦しそうで、もう一度私の名前を呼んだアルミンに、私も何故だか胸が苦しくなる。
 黙ったまま私の手首を引いていたその手は、少し形を変えて掌へと移動する。包まれるように握られたアルミンのその手は熱くて、思っていたよりも大きくてゴツゴツしていて、男の手をしていた。


「……アルミン」


 漸く言葉を発することができたのは、駅を降りてマンションへの道を歩いていた時だった。離されることなくずっと繋いだままの手。端から見たら、私達はどう見えるのだろうとぼんやり考えていた。
 私の呼び掛けに足を止めたアルミン。私に向ける視線はやっぱり怒っているようだった。


「怒ってる、の?」
「……もっと、自覚しなよ」
「え、」
「コハルさんはさぁ! なんで簡単に人に触らせるわけ? どうして男と二人でいるんだよ。僕は全然その隣に行けないのに、どうして簡単に他の男はっ……どうして僕はダメなんだよっ!」


 声を荒らげながらにじり寄るアルミンは、いとも簡単に私を電柱へと追いやった。顔の横に伸びた腕。人生初の壁ドンがこんなに悲しなんて思いもしない。
 頭では色々と考えてまだ自分の気持ちに踏ん切りがついていないのに、それでもアルミンの手の温もりが離れてしまった事が寂しかった。泣きそうな瞳で見つめられる事が苦しかった。
 ダメなのはアルミンじゃない。ダメなのはこの気持ちを認めることも諦めることもできない、私なのに。
 手を伸ばし、彼の金色を指で撫でてから頬に手を置いた。ただ触れただけでこんなにも跳ね上がる私の心臓は一体何なのだろう。頭と心が一致しなくてもうグチャグチャだ。


「アルミン」
「……」
「アルミンっ…」
「……」
「アル、」


 好き、という二文字がこんなにも重たいものなのだと思い知らされる。言えずに喉に引っかかったままのそれを吐き出す代わりに彼の名前を呼んだ。
 そんな臆病な私の唇を塞ぎ、強い想いを乗せたアルミンの温もりが注ぎ込まれるようなキス。下唇を舌でなぞられ、割って入ってきた舌が私を捕まえようと口内で動く。
 抗うことなどできなかった。こんなにも心が躍り、身体が甘く疼いてしまうのいうのに。


「好き、コハルさん。好き」


 少し離れた唇の隙間から漏れる甘い囁き。私はそれに答えるように彼の唇を自分から塞いだ。
 二回目のキスは、苦くて甘くて、しょっぱかった。


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