嵐は突然やってくる

 人生に訪れるモテ期は三回あると聞いたことがある。だけど、産まれた時に注がれる愛を含めてしまえばそんなもの早々に終わっている気がする。そう思わないとやってられない。


「ごめんね、やっぱり君じゃなかった」


 成瀬コハル。ただ今振られました。恋人でもない男に。
 え、やっぱりって何? 私まだあなたと会うの二回目なんだけど。まだ名前と年収と趣味しか知らないんだけど。君じゃなかったってどういう意味? たかだか二回会ったくらいで私の何を知ったって言うのよ!
 頭の中でいくら叫んでも言葉が何も出てこなかった。悲しいとかいう次元の話じゃない。まだそんな感情すら沸いてこない関係なのにこの言われように怒りすら覚える。
 去りゆく背中を見送ることもなく、私は背を向けて歩き出した。マンションへ向かう途中、コンビニに寄って缶チューハイを大量購入した。
 普段家ではそんなに飲まないけど、こんな日は飲まなきゃやってらなれない。重たいビニール袋を下げてマンションへと向かう。歩数を重ねる度にイライラが増してくる。マンションのエントランスを通り過ぎる時にはそれがピークに達していて、部屋に入ってすぐにシャワーを浴びて全身を洗い流した。
 会社で小綺麗に直したメイクもセットした髪も、何もかも洗い流したかった。今度こそは、と毎回思うも始まる前に終わる関係ばかり。婚活を始めてもうすぐ一年。何だかもう、疲れてしまった。

 購入した缶チューハイを手に部屋着でベランダへ出た。まだ秋が始まる前とは言え、薄手のシャツでも十分な季節だった。
 私はこのマンションのベランダでぼんやりと過ごす時間が好きだった。立派なマンションではないし、景色が特別綺麗なわけでもない。だけど、何かあった時は必ずこの場所で時間を過ごす。今日は缶チューハイだけどアッサムティーを飲みながら過ごす時だってある。


「はぁ……なんかもう、お先真っ暗」


 ベランダに置いてる椅子に座って曇った空を眺めながら深い溜め息が漏れた。別にモテ期が来て欲しいわけじゃない。ただひとりの人に愛されたいだけなのに。このままじゃ永遠にそんな相手が現れないんじゃないかって思う。
 結婚に焦りがないかと言えばゼロだけど、だからと言ってトキめかない相手は御免だ。私が高望みしているだけなのだろうか。


「何処にいるの、私の運命は」


 一本目の缶チューハイが空になった時だった。私の独り言に「騒がしいなァ、おとなりさんよォ」と隣から声が聞こえた。
 その声に驚き心臓が飛び跳ねはしたけど、すぐに安堵の気持ちへと変わっていく。


「なんだ、いたの? 実弥くん」
「俺ァずっといたけど、お前がブツブツ念仏唱え始めたから気配消してやってたんだろォが」
「消さないでよ! 主張してよ、恥ずかしいから」


 実弥くんが短く笑った声が届いて私も顔を緩めた。ベランダの仕切りで顔は見えないけど声だけは届く。恐らく仕切り越しに座っているんだろう。そこが私と彼の定位置でもあった。
 実弥くんとは高校が同じだったけど、その時は特別な接点はなくただのクラスメイト程度の関係だった。共通の知人がいて大学に入ってからは話の流れで近況を聞いていたくらいだ。
 そんなある日、隣に引越しをしてきた人がご丁寧に挨拶をしてきて、その時久しぶりに実弥くんと再会したのだった。
 見た目が目立つ彼だったので私は直ぐに実弥くんだと分かったけど、彼が私を認識したかどうかは分からない。同級生だと言うべきか一人でモヤモヤとしていた時に、ベランダで偶然顔を合わせたのだ。私の洗濯ハンガーが仕切りの下に落ちていて、拾おうとした時に向こう側からも引っ張られ尻もちをつくというコントみたいな偶然だった。
 それから、何となく気配がしたら話しかけるという関係が続いている。高校生の時とは違うからか、仕切り越しだからか、その表情を想像しながら喋る時間は何だか楽しかった。


「……また例のアレかァ?」


 実弥くんの言う例のアレは、所謂婚活の事だった。私は何度か実弥くんと会話をしてるうちに、自分の事をペラペラと喋っていて、気づけば聞き上手な彼に相談までしていたのだ。
 高校の数学教師だという実弥くんは、さすがと言うのか人の話を最後まで聞いてくれる。相槌が殆どだけど、それでも私にとって聞き役がいるというのが大切で今回もまた誰にも言えない愚痴を零している。実弥くんは私が婚活をしていても、何度惨敗してても、笑いはするけど馬鹿にはしなかった。


「やっぱり君じゃなかったって言われた。まだ二回しか会ってないのに」
「そりゃロクな奴じゃねェな」
「でしょ! 私まだ好きにもなってないし始まってもいないのに勝手に振られたみたいになってるし」
「振られ損だなァ」
「もう辞めようかな婚活……疲れちゃった」
「その台詞、聞き飽きたぞ」
「はは、毎回言ってるか! でもなんか本当に、疲れちゃった。老後の為に仕事に生きようかなぁ」
「何十年後の話してんだァ? 先見過ぎだろ」


 喉を鳴らしながら答えてくれる実弥くん。やっぱり男と女では適齢期が違うのだろう。疲れたとは言葉では言っても、この年齢で恋人がいるのとゼロからのスタートでは焦りが変わってくる。
 男はいいよなぁ、と口から零れそうになった矢先、「でもよォ」と実弥くんの言葉が続いたので口を噤む。何となく、空を見上げているんじゃないかって思って私も空を見上げた。


「俺と成瀬は、なんて言うんだろォな」
「え?」
「再会したのは、運命だったりしてなァ」


 その言葉を理解する前に私の心臓が跳ね上がった。飲み過ぎて酔ったせいで耳がおかしくなったのだろう。実弥くんがそんな事言うはずが無い。だって、実弥くんは…。


「なぁに言ってるの! もしかして実弥くんも酔ってるの? 単なる偶然でしょ!」
「……だなァ」


 私は実弥くんの言葉に隠れた真意にも、自分の高鳴る鼓動にも気付かないふりをした。今日は嫌なことがあったし、これ以上何かを考える気にならなかった。実弥くんがどんな表情をしているのかも、想像するのをやめた。すべてアルコールの所為にして。





 平凡な日常がガラリと変わるのはいつも突然だ。もう少し前もって知らせて置いてくれたらと思わずにはいられない。
 あの日以来ベランダでの会話はない。というより実弥くんが忙しいのか隣から物音があまりしなかった。別に聞き耳を立てているわけじゃないけど、それなりに生活音は響く構造をしているから。
 それを残念に思いながらも仕事をしていた私に、その事を忘れてしまうくらいの驚きが社内で沸いて出たのだ。


「え? 新しい部長?! こんな時期に人事なんて」
「しかもヨーロッパ社からみたいよ」


 突然の人事だった。あまり仕事のできない部長ではあったが一身上の都合という理由で突然会社を辞めることになったらしい。その代わりに我が社の海外支店から新しい部長が赴任するとのことだった。
 海外から日本なんて、何か悪いことをしたのではないかという思案する。それに、あまり聞かない人事異動だった。どんな人が来るんだろう。うまくやっていけるだろうか。
 部長補佐がメインの仕事をしていた私にとって部長との関わりも多かった。だから今までの部長が何も言ってくれなかったことも少し寂しい気もしたし、新しい人との関係も心配になる。
 ザワついているフロアに始業時間のチャイムが鳴りそれぞれが自席に着く。その時だった、フロアの入口から革靴を鳴らして颯爽と入ってくる人物が目に止まったのは。
 人事部長の隣に立つ、小柄な黒髪の男性。鋭い目が社内全体を見回した。


「えー、突然の人事で驚いたかとは思うが、今日から営業部の部長に赴任することになったリヴァイ・アッカーマンくんだ。日本にいた事もあるから言葉は問題ない。皆、よろしく頼んだよ」
「リヴァイだ、よろしく」


 え、挨拶それだけ?
 呆気に取られている私達を置いて、人事部長は去っていくし新しい部長はさっさと自席の整頓を始めた。机を触って何かを確かめた後、「オイ」という低い声が聞こえ、数人の動きがピタリと止まる。
 目が合った瞬間、しまったと思った。なぜ私はジッと見てしまっていたんだろう。まさか皆視線を逸らしていたなんて気づかなかった。薄情者!


「な、なんでしょう?」
「補佐はお前か?」
「は、はい!」
「そうか……ところで、何故机がこんなに汚れている? 掃除は業者が入っていると聞いていたが、雑過ぎる。雑巾はどこだ?」
「え、部長がやるんですか……」
「俺のデスクだろう。それにお前らはさっさと自分の仕事をしやがれ。ボケっとしてる暇があったら仕事を取ってこい」


 一瞬でフロアの空気が変わる。この人は前の部長とは全然違う、逆鱗に触れたらヤバい人だと誰もが瞬時に察知し仕事に取り掛かった。
 私はそれでも呆然と立ったまま動けず、この状況に脳が追いついていかない。こんな人と仕事するの、私。無理なんだけど。
 恐らく引き攣った顔をしていた私を見て、顔色ひとつ変えることなくその鋭い視線を向けた彼。綺麗な顔が余計に怖さを連れてくる。


「お前、名前は?」
「成瀬コハル、です」
「すぐに雑巾を持ってこい」


 嵐が吹き荒れる予感しかしなかった。


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