都合のよい夢だとしても

「お邪魔しまぁ〜す」
「おぅ、まぁ適当に座ってくれや」


 連絡を取り合い始めて数日後、初の宅飲みが開催された。ベランダの時はいつも部屋着だった。流石にその格好で行くつもりはなかったが、かと言って気合いの入った服装で行くのも変だと思い、仕事着から少しラフなパーカーとズボンに着替えて手土産持参でインターフォンを押した。
 隣に住んでいながらも、この扉の奥に入るのは初めてだった。変に緊張している私とは違い、いつもと変わらない声色で出迎えてくれる実弥くん。スウェットズボンにVネックのシャツ、上からパーカーを羽織るという私と似たような格好をしていて、お揃い感が出てしまっている。
 少し顔が熱くなるも、一人で意識している事の方が恥ずかしくて、誤魔化すように部屋を見渡した。余計な物が置いていない、男性らしい部屋だった。ただ意外だったのは、壁に取り付けられたコルク板に複数貼り付けりた家族写真。大家族で有名だったから、私でも知っている。こうして離れて生活しても家族想いなんだろうなと、優しい気持ちになった。


「なんで地べたで正座なんだァ? ソファあるんだから座れよ」
「いや、人様の家にあがるのって久々だし緊張しちゃって!」
「同じ間取りじゃねェか」


 笑いながら目の前に置かれたお皿に目が見開く。カルパッチョと野菜スティックというオシャレバーに出向いたのかと勘違いしてしまう品々が並べられていく。


「え、これ……まさかの手作り?」
「は? 切って並べただけだぞ」
「宅飲みなのにオシャレ過ぎる! すごい!」
「毎回こうはいかねェぞ。今日は初めて成瀬が来るから特別だァ」


 実弥くんの何気ない言葉に、胸が掴まれるような感覚がした。深い意味があってもなくても、次があるんだという安心と、特別というワードへの期待。
 いくら家に上げてくれるからとはいえ変に期待をしてはいけない、と来る前に散々自分に言い聞かせたくせに、無意識に高鳴ってしまう心臓が憎らしかった。
 お疲れ、という乾杯の音を鳴らしてから、この雰囲気とアルコールに酔いしれた。実弥くんとの会話は心地よくて、ずっと強面だと思っていたその表情は笑うととても柔らかい。
 学生の時に一度だけ見た事のあるその笑顔。思い出した拍子にその先にいた人の顔が頭を過ぎり、針先で突かれたような小さな痛みが走る。それに気付かないふりをして実弥くんに笑顔を送る私を許して欲しい。

 ベランダで話す時よりも弾む会話に、飲むペースもそれなりだった。緊張を解すために勢いをつけて飲んだお酒が程よく酔いを運んでくれる。美味しい酒の肴も有難い。時折目が合うと綻ぶ目元が、私の心臓を心地よく叩いてくる。


「高校教師って凄いよね、なんか。私は社会人になってから今も自分の事で手一杯だもん。後輩の面倒は見てるけど、勉強を教えるのは訳が違うし」
「まぁ仕事だからなァ。教えるのが合ってるかどうかは別として、数学は嫌いじゃねぇから。勉強を教えるよりも変に大人ぶったガキを指導する方が大変だぜ」
「変に大人ぶった?」
「制服のままラブホに行ったり、親に黙って外泊するような奴らが多いんだよ。親から教師が怒鳴られることもあるしなァ……俺からしたら、好き合ってんなら勝手にしろォって思うけど、教師になったらそうはいかねェだろ?」
「す、凄いね。今どきの子達は」


 顔が赤くなったりしてないだろうか。声は上擦ってなかっただろうか。思わぬ方向に進んでしまった会話に脈打つ鼓動が速くなっていく。
 高校生達の発達した交際にドキマギしているんじゃない。ラブホへ行ったり外泊をしてする事なんて一つしかなくて、それを想像してしまったが為に、実弥くんと目が合った瞬間、顔に熱が集中してしまったのだ。
 ベランダだと顔は見えないけどこうして対面すると私の感情なんてすぐにバレてしまいそうだ。それでも今まで想像していた実弥くんの表情が見れる嬉しさの方が強かった。
 ただ、そんな嬉しさがある反面、飄々としている実弥くんを見て複雑な感情に苛まれる。そうか、実弥くんにとって私は平気で家にあげられる存在で、こんな話をしても意識することもない隣人なのだと告げられたようなものだからだ。
 それが良い事なのかどうかは分からないけど、少なからずショックを受けてる私はきっと、この家に上がった時点で期待をしていたんだろう。いや、連絡先を交換したあの時点からかもしれない。
 優しくしてくれたら、距離が近づいたから好きかもしれないなんて、今どきの学生でも思わないというのに。


「成瀬、ペース早くねェか?」
「だいじょうぶ! だいじょうぶ!」
「二回も大丈夫っつー時点で危ねぇだろ。待ってろ、水持ってくる」


 浮ついたり沈んだり、騒がしい自分の感情にまるで船酔いしたみたいに目眩がする。実弥くんが好きなのかと問われれば、分からないとしか答えられない。
 机に突っ伏してそんな事を呆然と考えていると、実弥くんが戻ってくる気配がした。意識はあるけど瞼が重い。本格的に寝ちゃう前に部屋に戻らなければ、と身体を起こそうとした私の頭が大きな掌に包まれる感覚がした。


「……成瀬」


 起こすためじゃない呟くようなその声が、私の鼓膜を優しく叩く。頭に置かれたまま指が髪の毛を掬うように動く。暫くしてその手が移動し、骨張った指が頬を撫でた。まるで私が愛されているかのような、勘違いしてしまいそうな、そんな優しさを指先から感じた。
 私は都合のいい夢を見ているのかもしれない。きっとそうだ。誰かと間違えているのだろう。
 ただ、もしそうだとしても……実弥くんの温かな手に触れられて私は幸せな気持ちになってしまった。


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