変わりゆく関係

 初日の宅飲みは私が寝落ちをし、実弥くんが部屋まで運んでくれるという穴があったら入りたい失態から始まった。それを謝ると大笑いで吹き飛ばしてくれた実弥くん。夕食をご馳走したら許してくれるというので、苦手な料理を頑張ってカレーを作った。
 気づけば、お互いの部屋を行き来する事が増えて、二人で宅飲みや食事――専らそれは実弥くんが作ってくれるのだけど――をすることが多くなっていた。
 恋人ではないけど近い関係。時折触れてくれるその手は温かく優しくて、私の期待はどんどん高まっていく。彼の隣が心地よくて、きっと私は特別なのだと言い聞かせた。そう思って過ごす方が幸せだった。
 そこに事実があるとすれば、私が実弥くんに特別な感情を抱いているという事だろう。


「また残っていたのか。何時だと思っている」
「すみません、もう終わらせます!」


 実弥くんとの関係で以前よりも充実した日々を送っていた私は、いつもより気持ちに余裕があった。定時間際に困っていた社員がいたので助け船のつもりで声を掛けたら、まさかの自分だけが残業という事態になっているのにも関わらず、嫌な気持ちにならずに仕事ができるくらいに。
 予想外だったのは、直帰する予定だったリヴァイ部長がフロアに戻ってきたことだ。のんびりと仕事をしていた私の背筋がバネのように伸びる。


「あれ、リヴァイ部長……直帰じゃなかったんですか?」
「あぁ、ちょっとな。ところで何してる? これはお前の仕事じゃねぇだろ」
「そうなんですけど、今日予定があってみたいで……私は生憎なにも予定ないですし」
「予定のある無しは関係ねぇ。終わらなかったらそいつの責任だ。それは月曜までの期限だろ、残りは本人にやらせろ」
「でも……」
「手伝うのは悪いことじゃないが、今回の場合は本人の為にならねぇだろ。そんなのは優しさでも何でもねぇと思うがな」


 無用な手出しをしてしまったのだと、リヴァイ部長の言葉で気づく。自分のしたことを咎められたのだと思い、気持ちが一気に萎んでいく。


「別にお前のしたことが悪いとは言ってねぇだろ。コハルが見て見ぬふりが出来ねぇのは知ってる」
「……はい、すみません」
「今日はもう遅い、帰るぞ」
「はい……え?」
「送る。早く支度しろ」
「は、はい!」


 一瞬で身支度をした私をみて微かに口許が緩んだリヴァイ部長の顔を私は見逃さなかった。しかも、出張だったリヴァイ部長は車だったようで、まさかの事態に心臓が早鐘を打ち始める。運転するリヴァイ部長が拝めるなんて。
 さすがに助手席は、と思い後ろの扉に手をかけると、「何してやがる。こっちだ」と当たり前に助手席を案内してくれるから余計に脈が速くなる。たったそれだけで気持ちが高揚する私は、どこまで気が多いのかと流れる風景を眺めながら心の中で自嘲した。

 リヴァイ部長の運転する姿は、当たり前に素敵だった。ハンドルを片手で操作しもう片方の手は顎に添えられて、その姿勢さえ様になっている。写真に収めたい気分だ。リヴァイ部長を隣から、しかもこんな近くで見られるなんて今日は奇跡が起こっていると言えるだろう。この場所は、恋人や家族の特権に違いないのだから。


「オイ」
「……」
「オイ、コハル。お前は俺に穴でも開ける気か?」
「リヴァイ部長の運転姿なんて貴重なので、穴を開けてでも見ておきたいなと思いまして」
「相変わらず変な奴だな」


 指摘されたことが恥ずかしく冗談めかして答えた私とは正反対に、顔色一つ変えずに答えるリヴァイ部長は、所謂ポーカーフェイスが得意な人なんだろう。こんな風に私が見つめていても赤くもならずに平然としている。私に興味がないだけだろうか。それはそれで少しショックだ。
 マンションまでの道を聞かれて身振り手振りで案内する。車内では仕事の話がほとんどだったけど、会話の途中で時々飛んでくるリヴァイ部長の視線に、顔が火照るようだった。リヴァイ部長は最短の道を走っているだろうけど、このまま遠回りして家まで着かなければいいとさえ思ってしまう。
 私のささやかな願望も虚しく、渋滞に嵌ることなく車はマンションに着いてしまった。夢の時間は終わりのようだ。


「リヴァイ部長、わざわざありがとうございます。ではまた……ん、あれ?」
「何してる」
「あれ、シートベルトが固くて……」


 普段あまり使われていなかったのだろうか。固くてうまく外せずもたついていると、突然リヴァイ部長の香りと温もりに包まれた。
 正確に言えば、リヴァイ部長が私のシートベルトを外そうと覆い被さるように身体を伸ばしただけなのだけど、その一瞬で私の心臓は跳ね上がり、狂ったように脈打つ。
 息もまともにできず身体を硬直させている間に、「外れたぞ」とリヴァイ部長の声が聞こえきて、漸く少しだけ息を吸い込めた。それなのに、リヴァイ部長が少ししか身体を起こさずに視線を私に向けるから、思わず息を止めてしまった。
 至近距離で視線が交わり、勝手に熱が顔に集中する。キュンと甘く疼いた心臓がうるさい。これは違う。好きとかじゃない。近いから。隙のない出来る上司だから。いい香りがするから。リヴァイ部長だから。
 混乱する私の心を知ってか知らずか、リヴァイ部長が私の頭に手を置くと、何も言わずに離れてしまった。一瞬頭を過ぎった展開にならなくて安堵する気持ちと正反対の気持ちが、胸の内で轟いている。


「来週からまた忙しくなる。しっかり休め」
「あ、はい……」
「コハル」
「なんでしょう」
「オヤスミ」
「おやすみ、なさい」


 リヴァイ部長の優しい声色が私の耳から離れない。私はいまどんな顔をしているだろうか。雲の上を歩いてるのかと思うほどに足元が浮ついていた。それ程までに夢見心地で、周りが全く見えていなかったのかもしれない。




「……成瀬っ…」


 エレベーターを待っている時に呼ばれた声は、すぐに実弥くんだと分かった。でも振り向く前に腕を引かれ、気づいた時にはもう、私は実弥くんの大きな身体に包まれていた。背後から巻き付く太い腕が、強く私を抱きしめている。
 耳元を掠める吐息に混じって私の名前を呼ぶその声は、簡単に心根にあった実弥くんへの想いを連れ出してくる。
 ねぇ実弥くん。どんな顔で私を抱きしめてるの? その顔を見せて。


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