幸せの、その先に

 幸せに包まれると世界が変わる。
 いつもと変わらない日常が色付いて見え、嫌な仕事が舞い込んできても笑顔でこなせる余裕がある。肌ツヤだって潤うし日々のケアも楽しい。好きな人の為にしているという事実が、私を満たしていた。


「リヴァイ部長、この書類にサインお願いします」
「あぁ」


 私から書類を取るリヴァイ部長の手が止まる。その視線の先には私の手があり、そこには先日実弥くんから貰ったリングが輝いていた。誕生日でも何でもないけど、初めてデートをした時に買って貰った。ずっと付けてて欲しいから、とシンプルなデザインのリング。
 リヴァイ部長からの視線が気になり、会社は派手すぎない装飾なら問題ないはず、と思案する。何か言うべきかと考えあぐねいている間に、リヴァイ部長の視線が私から静かに書類へと移動していった。
 何だったのだろうか。今までしていなかった指輪をしてるから? いや部下のそんな些細な変化に普通は気づかないだろう。自分から聞くは自意識過剰発言になりかねない。そもそもリヴァイ部長の視線は意味もないものだったかもしれない。


「コハル…」
「はい?」
「来週の土曜日、空いてるか?」
「えっ?! ど、土曜日? え?」
「勘違いするな、仕事だ。新規の仕事をするにあたって事前調査をしたくてな。一緒についてきてくれるか」
「あ、仕事ですか…。予定は何もないので大丈夫ですけど」
「落胆させてすまねぇな」
「な……してませんよ、落胆なんて!」
「詳細はまた追って連絡する」


 軽く口端を上げて笑ったリヴァイ部長。私のことを揶揄っているのだろうか。返された書類を少し強くリヴァイ部長の手から取って自席へと戻った。一瞬でも休日の予定を聞かれてデートの誘いかと勘違いをした自分が恥ずかしい。リヴァイ部長に限ってそんな事あるはずないのに。そもそも私には実弥くんがいるんだから。
 指輪を無意識に触れながら熱くなった顔を書類でパタパタ扇いで冷やしていると、パソコンの画面にメールの受信を知らせるアイコンが入った。

――渋谷駅前に11時。あくまで内密な事前調査だ。服装はスーツではなく、休日過ごす普通の服装で来い。

 仕事だ、ともう一度自分に言い聞かせた。微かに鼓動が速くなったことには気づかないふりをして。





 約束の土曜日。普通の服装というのが分からず、無難なニットにパンツスタイルという格好で待ち合わせ場所へと向かった。
 貴重な休日を仕事に充てるのは嫌だったけど、昨夜は実弥くんの家に泊まって、朝も見送ってもらえてとても気分が良い。
 連絡が入ってないかとスマホを取り出してすぐ、背後から「オイ」と声を掛けられる。振り向くと、リヴァイ部長が腕を組んで壁に寄りかかっていた。私より先に来ていたのだろうか。慌てて姿勢を正し近づいた。
 リヴァイ部長は普段のスーツと差程変わらない格好ではあったけど、オシャレなジャケットとシャツがとても似合っていた。私だけが私服なわけがないと分かってはいたものの、こうしてリヴァイ部長の私服が見られるのはやはり貴重だと気分が高揚する。


「リヴァイ部長おはようございます! 早かったですね! 今日の訪問先を聞いてなかったのですがどちらに、」
「行くぞ」
「え、あ、はい! あの、待ってくださいよぉ」


 説明もなしに歩き出すリヴァイ部長を追いかけ隣を歩く。小柄なリヴァイ部長は私よりも少し背が高いけどその差は殆どない。だから少し首を動かすだけで視線を合わすことができる。実弥くんは見上げないと合わないな、なんて思いながら歩いていると、リヴァイ部長の視線が飛んできた。
 リヴァイ部長に見つめられると否応なしに反応してしまう私の心臓。どうしてなんだろうか。


「ここだ」
「え、ここ……いちごフェア、カップル限定イベントってありますけど。え?! ここに入るんですか?」
「そうだ」
「私とリヴァイ部長が?!」
「いいか、ここから先は部長はやめろ。内密に来てる意味がねぇ。分かったか」


 カップル限定のいちごフェアという看板とリヴァイ部長を交互に見つめる。混乱する私と素知らぬ顔をしているリヴァイ部長の元へ、店内からやって来た店員が「お二人はカップルで間違いないですかぁ?」と恐らく全員に聞いている質問を投げかける。
 あぁ間違いない、と答えると私の方を向いて「行くぞコハル」と私の手を取り優しく握った。
 リヴァイ部長の手には何度も頭を撫でられたけどこうして繋ぐのは初めてだった。指が長く、不思議とその手にしっくりときてしまう。
 席を案内されて自然と離れてしまったその手に寂しさを感じてしまう私は、一体何なのだろう。恋人のフリをしているだけのリヴァイ部長を、顔が熱くてまともに見られないなんて。


「あの……どうして、」
「このイベントはカップル限定だ。この会社の次の企画にうちが傘下に入る予定だが、その下見というところだ」
「それは別にリヴァイぶちょ……リヴァイ、さんが行わなくてもいいのでは?」


 部長と言うなという言葉を思い出し咄嗟に呼んだ名前に、勝手に脈は速くなり身体中の血が熱くなる。そんな私にリヴァイ部長は息を吐き出すように笑い、「悪くねぇな」と運ばれた紅茶を口へと運ぶ。
 そのたった一言に、また顔に熱が集まり心臓が掴まれたみたいにキュッと締まった。


「俺は仕事に手を抜かねぇ」
「それはそうですけど、別に私でなくても……いや、ちゃんと事前に言ってくれれば私もそれなりに心の準備ができたのに」
「行ったらお前、来たのか?」
「え?」
「いるんだろう? 恋人が。俺が誘って今日ここに来たか? お前は無駄に悩むだろう」
「それは……」
「まぁいい。俺はコハルと来たかった、それだけだ。お前はこれ全部食え」


 目の前に並んだいちごパフェとパンケーキ。甘いものが苦手だというリヴァイ部長は紅茶を飲むだけだった。


「お、おいしい! リヴァイぶ……リヴァイさん、美味しいです! でもこんなに食べたら太っちゃうな」
「いいんじゃねぇか? 太ろうが何しようがコハルはコハルだ」
「……はい」


 きっと今私はこの苺ほどに頬を紅くしているのだろう。甘酸っぱい苺を咀嚼しながら、紅茶を飲むリヴァイ部長を見ながら考えてしまう。
 もし私が行かないと言ったら別の女性社員を誘ったのだろうか。さっき無意識に「別に私じゃなくても」という言葉を飲み込んでしまった。嫌だった。今ここにいるリヴァイ部長の前に座るのが私以外の人だと思ったら。恋人のフリをするのも、休日を一緒に過ごすのも、私がいい。
 彼氏がいるくせに傲慢で強欲な考えだと思う。それでも、その瞳に他の女の人は映して欲しくない。

 いちごフェアの後すぐに解散すると思ったけど、カフェで軽食を食べて――私はもちろん満腹だったけど――それから近くに停めていたリヴァイ部長の車でドライブをした。海沿いを走って、車を停めて二人で潮風に揺られながら海を眺めた。
 カップル限定でフリをするのはあの店だけでよかったのに、私もリヴァイ部長もその事には触れずにそのまま休日を一緒に過ごした。まるで夢のような時間。その夢を醒ましたのは、私のスマホに掛かってきた着信だった。


「実弥くん? うん……うん、夜には帰れると思う。大丈夫、帰って着替えたら連絡するね」


 私が電話をしている間、ずっとリヴァイ部長は私を見つめたままだった。心臓が狂ったように跳ねていたのは、果たしてその瞳の所為なのか実弥くんの声を聞いたからなのか、それともこの矛盾する感情の後ろめたさからなのか。
 電話を切り終わった私に、「帰るか」とリヴァイ部長は車へと戻っていく。その背中を寂しいと思ってしまうのはやっぱり今日の私はおかしいのだろう。


「もうすぐ着くぞ」
「マンションの角の手前でいいです。ベランダから見えちゃうかもしれないから」
「一緒に住んでるのか」
「いいえ、元々隣同士だったんです……今日も、ご飯一緒に食べようって」
「そうか」


 どうして実弥くんとの事を話しているのだろう。何か言ってくれるかと思ったけど、リヴァイ部長はただ返事をするだけだった。何を欲張っているのだろう。私が好きなのは実弥くんなのに。
 マンションが見える手前の角に静かに車が停車する。カチカチというハザードの音が私の心音に重なる。隣に視線を向ければ、同時にその視線が交わった。


「そんな名残惜しい顔してんじゃねぇぞ」
「そんな顔、してません……リヴァイさん」
「もうごっこは終わりだ」
「そうですね。リヴァイ部長、今日はありがとうございまし…た」


 突然重なる手に落ち着きかけていた心臓がまた激しく脈を打ち始める。これ以上は危険だと脳が叫んでいるのに身体が動かない。
 リヴァイ部長の瞳が微かに揺らいだ気がしたけど、それもまたきっと私の気の所為なんだろう。今日の私はおかしい。リヴァイ部長の視線が全部私を愛おしく見ているような錯覚をしてしまった。だから、こんなにも離れ難くなっている。


「コハル、俺は…」
「おやすみなさいっ!」


 私の手を温かく包んでくれているその手を、私は引き剥がして急いで車を降りた。その先の言葉を聞いてはいけない気がした。当たり前にリヴァイ部長が後を追うことはない。マンションが見えて誰もいないベランダが目に入る。安堵で目尻から温かな雫が一筋流れ落ちた。

 部屋に入って少ししてから実弥くんにLINEを送った。少し頭痛がするから今日は休む、と。嘘ではない、本当に頭が痛かった。考えすぎて、脈が速すぎて苦しかった。すぐに返信の音が聞こえたけど、私はそのメッセージを既読にすることが出来なかった。


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