まだ寒い3月の朝、香織は身支度を整えて玄関を出た。
道の両側に連なる桜の木の蕾は大きく膨らみ、来週頃には花が開き始めるだろう。
学校近くのバス停の前まで来ると、見知った人影があった。
彼は壁に寄りかかって、寒そうに顎をマフラーに埋め肩をすくめていた。
香織は少し距離をとって立ち止まり、声を掛けた。
「切原。」
顔を上げた切原は香織を見つけると、にっと笑った。
「やっと来たな。」
「待たせてしまったわね。」
約束通り、エース切原の率いる立海大テニス部は圧倒的な強さで全国大会を制した。
部活を引退した今、切原は来月から高校のテニス部で活躍すべく真田や幸村達と練習に明け暮れている。
そして、香織が母から自由を言い渡されたのはつい昨日のことだ。
あの日から、全ての習い事と勉強に一層集中して取り組んだ香織の姿に、母も満足したようだった。
「まだ言ってないことがあったわね。」
香織は切原の目の前に立つと、切原を真っ直ぐに見上げた。
そして、これまで見た中で一番綺麗に笑って言った。
「貴方のことが好きよ。」
「…っ、いきなりそれは反則だろ…。」
切原は手の甲を口元に当て、困ったように目を逸らした。
耳や頬が赤くなっているのは、寒さのせいだけではなかった。
切原が香織の手を引くと、彼女は簡単に切原の腕の中に収まった。
「香織。」
今度はもっと至近距離で目が合う。
「赤也…。」
名を呼んだ香織の声を飲み込むように、切原が唇を塞いだ。
唇を離してもう一度目が合うと、彼女は照れているのを誤魔化すように笑ってみせた。
「兄様と精市が待ってるわ。行きましょう。」
「…そういや、そうでした。」
今日は二人の目標達成祝いに、真田と幸村が焼肉に連れて行ってくれることになっている。
まだ心臓がばくばく言っているせいもあって、切原は当初の目的を忘れかけていた。
それどころかこのまま2人で居たいような気さえする。
…さすがに後が怖いので、そういう訳にはいかないが。
「そういえば」
隣を歩く香織は楽しそうで、その姿を見ているだけでも温かい気持ちになる。
「全国制覇したテニス部のエースさん。」
繋いだ手の向こうで、彼女は挑戦的に笑った。
「何だよ?」
「私にテニスを教えてくれる?」
切原はにやりと笑って答えた。
「高くつくかもよ。」
fin.