水温む、紺碧



「ここに群青、溺れる」の続き。
サイト1周年記念夢。





「スーツ姿、似合うじゃない!」

出勤してきた私の姿を見て、まきをさんは開口一番に告げる。
今日は黒のパンツスーツに、いつもほどいている髪も華美にならない程度にまとめ上げてきた。

「本当ですか?普段スーツなんて着ないから、慣れなくて・・・」

変じゃないですかと問う私に、まきをさんはひたすらうんうんと満足気に頷いていた。




今日は年に数回行われる営業同行の日だ。
営業さんの外回りに一緒に同行して、普段の営業の様子を勉強する日である。
普段は社内で事務処理ばかりをこなしているけど、実際の現場の空気を触れてどの様に事務の仕事と結びついているのかなどを学ぶ、というのが主な趣旨だ。
この営業同行、苦手って事務が多い中、私は結構好きだったりする。
普段はずっと社内籠りっきりだけど、同行の日は社外で様々な会社にお邪魔することや車で色んな場所に行けることはとっても新鮮だ。
あとランチタイムが基本的に外食なので、それも楽しみの一つだったりする。
今回の同行は宇髄さんだって前々から聞いていたので、ますます楽しみでならなかった。
前に宇髄さんの同行させてもらった時は、仕事もそこそこに美味しいランチ屋さんに連れて行ってもらった。
もちろん、“そこそこに仕事”って言いつつ、宇髄さんは午前中でしっかりと数字は上げていたのだけど。
そのランチ屋さんは宇髄さんオススメなだけあってとってもご飯が美味しくていまだにプライベートでも食べに行ったりしている。

『営業同行は緊張するけど、ランチは楽しみー』

それに宇髄さんならチームとしての付き合いも長いので、車の移動時間も気兼ねなく話せる。
呑気な私は何も気にせずにのほほんと始業開始を待っていた。



「おはよう」

「あ、悲鳴嶼さん、おはようございます」

「・・・スーツ着ると、雰囲気変わるな」

しみじみとお父さんのような表情を浮かべる悲鳴嶼さんに思わず笑ってしまった。

「あ、すまん。言い忘れていたが今日の同行だが、宇髄から不死川に変更になった」

「へっ!?」

寝耳に水とはまさにこの事だ。
今までランチのことばかり考えて、浮いていた心が急に地に落とされたように重くなる。

「不死川さん・・ですか?」

「俺じゃァ、不服かァ?」

ボソリと呟いた言葉に返すように、後ろから声をかけられ振り向けばちょうど不死川さんが不機嫌そうに出勤してきた。

「不死川さん、おはようございます」

一瞬目が合った彼は、何かに少し驚いたような表情になったが、またすぐに不満気に眉を寄せる。

「不服だなんて、そんな」

慌てて歩いていく背中に否定するけど、彼は機嫌悪そうな雰囲気のまま私の後ろの席にドカリと座ってしまった。

「急な変更で悪いな。宇髄がどうしても抜けられないクレーム対応があってな」

理由を告げる悲鳴嶼さんの後ろで宇髄さんがごめんとばかりに両手をおでこの辺りで合わせているのが見えた。

「いえ、私は構いません!ただ、不死川さんは私がついてくるのお邪魔じゃないですか・・?」

不死川さんが法人チームにきてまだ1ヶ月程度しか経っていない。
あの残業の日以来、仕事のことで言葉を交わす事はあれど、特にそれ以外の会話らしい会話をしていない。
以前よりはだいぶ近寄りやすくなった気もするけど、私はまだ気軽に話しかけるほど親しくなれていない気がしていた。
迷惑に思っていないか不機嫌オーラ漂う背中に話しかければ、その背中が振り返った。

「お前なんか1人いても2人いても、俺の成績は変わりゃしねェよ」

確かに不死川さんはまだチームにきて日が浅いのに、気付けば先日までの営業成績は法人チームトップの宇髄さんに追いつく勢いだった。
さっすが天才は違うねぇ、と煽てるように宇髄さんが不死川さんに言っていたのを思い出す。
そうだよね、私なんかの存在が彼の仕事にそんなに影響を及ぼすとも思えないし。
私の杞憂だったかなと、不死川さんを見つめ直した。

「改めて1日よろしくお願いします!」

「ヘマすんなよォ」

鼻で笑う不死川さんの様子に、何故か悲鳴嶼さんも宇髄さんもまきをさんも意味深な暖かい目で見つめていた。




朝礼が終われば、不死川さんは早速出かけるらしく私も慌てて荷物をまとめる。

「行くぞォ、事務係ィ」

「はい!皆さん行ってきます」

まきをさんに手を振れば、奥に座っていた宇髄さんにオオカミに気をつけろよぉーと軽く手を振られる。
オオカミってなんだろ?
取引先に怖い担当さんでもいるのかな?
小さくなる不死川さんの背中を見て、思いもそこそこに慌てて駆け出した。



「まず○×商事から行くぞ」

「はい!」

言われるがまま、営業車に乗り込んでシートベルトをカチリと締める。

「ま、お前が話すことなんかねェけど。一応、資料なァ」

そう言って不死川さんに数枚の紙を差し出された。
受け取ろうと手を出して、そしてはたと気づく。
距離が、近い。
営業車は軽自動車なので、運転席と助手席なんて本当数十センチの距離だ。
普段見れない距離の不死川さんの横顔に心臓がドキドキと大きな音を立てる。

「?どうしたァ?」

「あ、いや、なんでもないです!」

訝し気な不死川さんの視線にはっと我を取り戻すと、差し出してくれた資料を奪い取るように受け取った。
赤くなりそうな顔を伏せるように、資料に目を通す。
内容はわかりやすく営業先の情報がまとめてあった。

「・・・これ、不死川さんがわざわざ作ってくれたんですか?」

「わざわざ、なんていうほどの資料でもねェよ。3分あれば誰でもできんぞォ」

チラリと視線だけを向けてくる不死川さん。
ううん、絶対3分じゃ終わらないと思う。
私のこと考えてまとめてくれたのかなぁ。

そう思うと何故だか、心底嬉しくてニヤついた顔を不死川さんに見られないか必死だった。

「・・・あと、お前、今日の格好・・」

じいっと見つめられる視線にどこかおかしなところでもあっただろうかと、ジャケットとパンツスーツを見直す。

「あ、何か変でしたか!?スーツなんて普段着ないから、変でしたかね」

「いや、そうじゃなくて・・かわー」

何故か言葉が途中で止まってしまった不死川さんを、不思議そうにじっと見つめていれば、ポカリと手に持っていたバインダーで顔を軽く叩かれた。

「なんでもねェ。行くぞ」

顔からバインダーを避けながら見た不死川さんの横顔は耳まで真っ赤だった。
車内、暑かったかな、と思いエアコンを勝手にいじれば触んなァと怒られた。理不尽。




「お前は新人で今日1日先輩の俺の営業についてきてるって設定な」

「わかりました」

営業先に着くと、不死川さんはネクタイを正しながら私に淡々と告げる。
なんだか余計な緊張で、1人手汗をかいていると「俺より緊張してどーすんだァ」と不死川さんに笑われた。
普段あまり仕事以外で話す事なんてないから、不死川さんの笑顔はとっても貴重だ。
まじまじとみていれば、いつまでボーっとしてんだ行くぞ、と不死川さんは足早に歩きだした。



営業先につけば、担当者さんが出迎えてくれた。
簡単に営業先の担当者さんに私の事を紹介してもらい、商談が始まる。
商談ブースで向かい合った2人を、不死川さんの少し後ろから見つめていた。
いつも見ているはずの紺色のスーツの背中が、何故だがとても頼もしくみえる。

「前回教えてもらった内容だとこの部分の料金が気になっててね」

「かしこまりました。御社のシステムでしたら新しくこちらのプランなどはいかがでしょうか。このプランであればー」

『あ!あの資料、この間ランチずらして頑張って作ったやつだ!』

「なるほどねぇ・・。じゃぁこの場合のオススメとかある?」

「こちらの場合であれば、2番目のプランが最適かと」

『この資料は先日急にいわれて、残業してひいひい作ったやつ!』

時折出てくる自分が作った資料に、営業さんの役に立ってるんだと一人心の中で感激する。
社内の雰囲気と違い、柔らかい物腰ながら淡々と仕事をこなしていく不死川さん。
全く営業のわからない私でも気づけば話にのめり込んでいて、契約しない方が不利なんじゃないかって思い始めていた。

「じゃぁ不死川さんが提案してくたれたプランでお願いしようかな」

「ありがとうございます」

営業スマイルと言わんばかりに優しい不死川さんの笑顔に何故かほぼ部外者の私がドギマギしてしまう。
そこからとんとん拍子に話は進んで、一件成約に結びついた。



「おめでとうございます!」

車に戻ってそういえば、不死川さんはいつものテンションとさして変わらず、おーと返事をしただけだった。
トップ営業マンともならば契約の一つや二つでは満足しないんだ。
改めてすごいなぁと感心しているとまた手元に資料が降ってきた。

「それ、次の△○企画の資料なァ」

「ありがとうございます!」

成約になんだか私の方が心を弾ませながら、渡された資料に目を通した。
それから立て続けにアポイントをこなし、気づけば時計は13:30をさしていた。




「そろそろ飯でも食いに行くかァ」

「やったぁ!」

今回の同行で1番の楽しみだったので、思わず本音が漏れれば不死川さんは鼻で笑った。

「コンビニの菓子も好きだし、お前、食い意地はってんなァ?」

「や、違いますよ!大体コンビニお菓子は不死川さんから買ってきてくれてるんじゃないですか」

いまだに事務作業で無理難題を押し付けてくる彼だけだど、その後のアフターフォローはかかさないとばかりに、いつも仕事が遅くなっときはコンビニのお菓子を差し入れてくれる。
先日、牛乳プリンが大好物だと告げたらそこからは必ず牛乳プリンがお菓子のレギュラー入りをするようになった。
全く気にしてないようで、しっかり細かいところまでフォローする。
さすがトップ営業マンですね!とこの間、悲鳴嶼さんにその話をしたら何故かすごく複雑な表情をされたのだけど。



「和食は大丈夫かァ?」

「はい、大好きです!」

そう伝えれば、ん、と小さな返事の後、不死川さんは車のエンジンをかける。

「・・んにしても、慣れねェ・・」

何がだろう?と疑問に思って不死川さんを見れば、ぐいっとネクタイに手をかけてシュルリとネクタイを外してしまった。

「首回りきついと、息詰まるわ」

深く息をつきながら、てきぱきと第二ボタンくらいまで外されるシャツに目が離せなかった。
スーツフェチな私にはご褒美しかならないし、不死川さんがいつもよりカッコよく見えるし、鼓動は速くなるし。
頬が熱いのは、スーツにときめいていたのであって、不死川さんにドキドキしたんじゃない、きっと。
一人心の中で言い訳大会をしていると、行くぞ、との不死川さんの声で、慌ててシートベルトを締めた。




少し郊外まで走っていく車から、どこまで行くんだろうかとぼんやり景色を眺めていた。
着いたぞ、と車を止めたのは住宅街の中のお家かなって思ってしまうお店だった。
外見からはお店だなんて言われないと気づかない。
よく見ればお店の名前が書かれた小さな看板が出ている。

「ここ、結構美味い」

夫婦で経営しているらしいぜ、と何気ない会話しながら、慣れた様子でお店に入っていく不死川さんに続く。
いらっしゃいませと、朗らかな様子の女性が笑顔で迎えてくれた。
夫婦経営って言ってたから奥さんかなぁと思っていると、不死川さんの顔を見て、あらと軽く会釈をする。
それに合わせて不死川さんも頭を下げた。

「知り合いなんですか?」

「知り合いっつーか・・・ここに通うようになって顔見知りになったっていうか」

案内された窓際の四人席に腰掛ける。
駐車場と逆側に面した窓からは綺麗な木々が生い茂った裏庭が見えた。

「今の季節はねぇ、何も咲いてないけど。もうちょっとしたらツツジがきれいなのよ」

お水をテーブルに置きながら先程の奥さんが、笑顔で話しかけてくれる。

「不死川さん久しぶりねぇ。それに今日は可愛い子を連れてくるなんて・・・」

にこにこと何故か意味ありげな笑顔を浮かべる奥さん。

「今日は仕事で一緒に回らせていただいてまして」

「あらそうなの?」

奥さんが不死川さんを見つめれば、不死川さんは水を飲みながら、手元のメニュー表に視線を落としていた。

「またこの後仕事あるからなァ、さっさと頼めェ」

何故か、すごくばつが悪いようなオーラを放っている不死川さんを不思議に思いながら、私はメニュー表を手に取った。
ページをめくれば、当店一押し!と大きく出てきたのはチキン南蛮だった。

「チキン南蛮!私、好物なんです」

「あら、そうなの!ここの名物なのよ」

「じゃぁ私、チキン南蛮定食にします!」

「俺も同じの一つ」

「はーい!」

奥さんはさらさらと手元の注文票を書くと、ごゆっくり〜と笑顔で厨房に戻っていった。
久々に食べるチキン南蛮に思いをはせていると、ふと気になった。

「・・・私、不死川さんにチキン南蛮、好物だなんていいましたっけ」

「・・・たまたまだろォ」

不死川さんはふいと視線をそらすと、再度手元のメニュー表を手に取った。
そういったプライベートな会話を交わした記憶がないし、まして私の事なんて不死川さんが覚えているはずないよね。
たまたま、不死川さんがおすすめのお店が偶然、私の好物だったってだけだ。
でもすごく嬉しい。
ほわほわした心のまま、はたと先程の商談のことを思い出す。

「そういえば、さっきこの間私が作った資料使ってくれてましたね」

「当たり前だろォ。使わないもん、わざわざ仕事で頼むかよ」

「そうですけど。でも実際こうやって営業さんの役に立ってるんだなって場面をみるとすごく嬉しかったです」

そのおかげでいつも残業になったりしているけれど。
普段事務の仕事は対内的に向かっていることが多いけど、自分の仕事が誰かの役に立っているってことが実感できてとても誇らしかった。

「そうかィ」

一瞬、緩んだようにふっと不死川さんが微笑んだ。
その表情に、またどきりと心臓が跳ねて、心拍数が急にあがる。

『えええ?』

感情についていけなくて一人、ばっと顔を伏せる。

「どうしたァ?」

「いえ!なんでもないです」

慌ててメニュー表を立てて見えないように顔を隠した。
今、この顔を見られてはいけない気がする。




「はい、チキン南蛮定食お待ち〜」

しばらくして、待ちに待った定食が運ばれてきた。

「わぁ・・」

てかてかとしたチキン南蛮にたっぷりとかかったタルタルソース。

「いただきます!」

両手をしっかりと合わせて、さっそくチキン南蛮にかぶりつく。

「!とても味がしみてておいしい〜」

「そりゃよかったなァ」

不死川さんも満足そうにチキン南蛮に箸をつけた。



ご飯もそろそろ食べ終わろうかとしていた時、一組のお客が入ってきた。

「大人二人だ!!!空いているだろうか!!!」

はっきりと店内響く声に思わず顔をむければ、見知った炎のような髪と、見慣れた大きなピアスを見つけた。

「煉獄さん!竈門くん!」

「あ!苗字さんと不死川さん!」

思わず声をかければ、二人はあっという顔をして、何かを店員さんに伝えるとこちらにやってくる。

「空いている席がないようだから、一緒に食べてもかまわないだろうか!!」

「煉獄さん!!それはさすがに・・・」

テーブルの真ん前で宣言のように声をあげる煉獄さんを、竈門くんは慌てて止めようとする。

「?いいんじゃないですか?4人席ですし。ね、不死川さん」

「あァ・・・」

微妙に不死川さん苛々とした圧を感じる。
不死川さんの隣に煉獄さん、私の隣に竈門くんが座った。

「そうか、今日は苗字は不死川の同行だったな!!」

「はい!」

「苗字さん、いいなぁ。不死川さん、僕も今度一緒にまわらせてくださいよ」

「お前はお断りだァ」

えーと口をとがらせている竈門くんを笑いながら、残りのチキン南蛮に手をつけた。

「そういえば、今日の苗字は・・何だ、いつもと雰囲気が違うな!!!」

「僕も思いました。スーツだし、髪もあげてますもんね」

皆の視線が急に自分に集中して、むずむずと恥ずかしくなってくる。

「可愛らしいな!!」

「わぁ、煉獄さん、声量・・!でも、ありがとうございます」

お世辞でもほめてくれる煉獄さんにえへへと小さく返事を返す。
がたりと不死川さんが突然、立ち上がった。

「・・・食べ終わったなら行くぞォ」

「あ、すみません。のんびりしちゃいました。煉獄さん、竈門くん、お先に失礼します」

「また会社で」

入り口でお店の奥さんに頭を下げお勘定をと財布をとりだせば、さっき不死川さんに2人分払ってもらったよとの言葉が返ってきた。
え、いつの間に!?とあまりスマートな振る舞いに若干感動すら覚えながら、入り口をさっさと出ていく不死川さんの背中を追いかける。
空気が少しだけ重くなっている、気がする。

「し、不死川さん!お金払ってもらったって・・!すみません、自分の分払います」

「いいから、素直に驕られとけェ」

振り返らずに駐車場に向かう不死川さん。

「じゃぁ!」

駐車場で追いついて、運転席のドアを開けようとする不死川さんに助手席側から声をかけた。

「じゃぁ今度、私に食事を驕らせてください!」

軽く叫ぶように言えば、不死川さんの目を真ん丸にして驚いた顔がみるみる赤くなる。
あれ、私変なこといったかな、と思った瞬間、あ、とこちらも顔が熱を持ってきて咄嗟に鞄で顔を隠した。
完全に食事のお誘いじゃないか。
いやいや、そんな、他意はない!
ないのだと何度も心の中で言い聞かせるけど、不死川さんにそんな顔されるとこちらまでなんだか恥ずかしくなってしまう。

「わっ、ご、ごめんなさい。不死川さんの気持ちも考えず・・」

「いや・・・」

謝罪の言葉を口にしつつ、鞄から瞳だけをのぞかせれば、片手で半分を顔を隠した不死川さんがいた。

「・・・・・予定が合えば、行くかァ」

「へっ」

「食事、驕ってくれんだろォ?」

照れたように視線を外す不死川さんを見ながら、ぶんぶんと首を縦に振る。

「も、もちろんです!驕らせていただきます!」

「ぷっ、なんだそりゃ」

笑いながら、不死川さんは運転席に乗り込む。
やっぱりおさまらない心臓の高鳴りそのままに、私もつられて助手席に乗り込んだ。



「次はどこの会社に行くんですか?」

まだ仕事があるといっていたことを思い出し、ハンドルに片手をかけて前を向いたままの不死川さんに声をかける。

「いや・・・今日はもうアポはねェ。・・・ちょっと寄り道すっかァ」

首を傾げていると、不死川さんは髪を書き上げて笑った後、エンジンかけた。





「わぁ!この時期の海って来たことなかったです!」

不死川さんの言っていた「寄り道」で、海に連れてきてもらった。
ヒールの靴で砂浜に降りたら、砂だらけになりそうでコンクリートで舗装されたギリギリまで海に近づいていく。
夏前の海岸沿いにはまだ人影はなく、柔らかい日差しに照らされた海水は少し濁りを湛えている。
ふわりと風が吹くと、潮の香りと共に頬をすり抜けた。

「ここはよく来るんですか?」

真横に立つ不死川さんに尋ねれば、少し考えた後に時々なと返事をされる。
何か考えるように、沖を見つめて黙ってしまった不死川さんの視線に合わせて、再度海を見つめた。
営業の数字のプレッシャーなんて、事務職の私にはわからないけど。
きっと、不死川さんにも色々と私には想像もつかない悩みとかあるんだろうなぁとぼんやり考える。

「・・ここ、俺の秘密のサボり場所だからなァ」

あんなに契約とって、熱心に仕事している不死川さんから”サボり”なんて言葉が出ると思わずぎょっとすれば、不死川さんは口角を上げて唇に人差し指を当てた。

「悲鳴嶼さんには内緒なァ?」

悪戯っ子のような表情に、不死川さんは本当にずるいと思う。
だってそんないつもと違う表情されたら、周りの音がかき消されるほどに心臓の音が煩くなってしまうもの。

「・・・・そろそろ会社戻るかァ」

しばらくぼんやりと不死川さんの横顔を見つめていたけど、不死川さんの声で我にかえった。

「はい!」

勢いよく振り向いて不死川さんに続こうとしたら、ズボっと右足の靴のヒールが道端に開いていたコンクリートの割れ目に刺さってしまった。

「わっ!」

勢いで靴が脱げたまま前のめりに転びそうになる。

「!危ねェ!」

不死川さんが慌てて、私の身体を受け止めてくれたおかげで地面との衝突を避けられた。
けど、いや、今、私不死川さんに抱きとめられてる、よね?
恥ずかしいやら、情けないやら、遅れて気づいた事実に頭の中は破裂しそう。
目の前の真っ白いシャツを握り締めれば、不死川さんは優しく、私の身体を起こしてくれた。

「す、すみません!」

「一人で立てるかァ?」

不死川さんの掌を握って片足素足のまま態勢を立て直す。
掌がじんわりと汗ばんで、不死川さんにばれませんように、と心の中で小さく祈った。

「ちょっとそのまま立ってろ」

不死川さんはしゃがみこむと、私の靴を隙間から引き抜いてくれた。

「あー、傷、入ってんな」

ヒール部分を見ながら、不死川さんは私の足を持ち上げる。
その動作がまるでおとぎ話から出てきた王子様のようで目が離せなくなる。
優しく持ち上げられた右足に優しく靴が履かされた。

「ひぇ・・・」

思わず本音の声が漏れれば、不死川さんははっとバツが悪そうに立ち上がる。

「悪ィ。小さい兄妹がいるから、思わず・・」

「あ、いや、私の方こそよそ見してて転んでしまってすみません!」

弾けそうなくらいに赤くなった顔を隠すように、思わず頭を深々と下げた。
溶けそう。本当に溶けてしまいそうなほど全身が熱い。

「・・・・・とりあえず帰るか」

いつもの声にはい、と小さく返事をして車まで歩き出した。
帰社する道中、車の中は二人ともずっと無言だった。
私の心臓は今までにないほどにうるさくて、この感情はどういうことなのか、帰る間、ずっと考えていた。






おまけの話

会社に帰りつくと、すぐに名前は今日の簡単な報告をするために上長に呼ばれた。
「不死川さん、今日は本当に、色々とありがとうございました!とても勉強になりました」
「あァ」
ぺこりと頭を深々下げて上長の元に向かう名前を見送ると、実弥は自分の席に着く。
机に両肘をつくと、考え込むように目の前で組んだ両手に額を預けた。
「さねみちゃーん!!今日のデートはどうだった?」
すぐ目の前に座っていた宇髄が、椅子ごと実弥の隣に移動してくる。
「・・・・―った」
「え?なんて?」
「・・・めちゃくちゃ可愛かったァ・・」
眉間に皺をよせぐっとこらえるような表情の実弥に宇髄は爆笑する。
「いや、本当俺に感謝しろよな〜。ありもしないクレームでっち上げて、同行変わってやったんだからさー」
「・・・今度、飯驕るわァ」
「チキン南蛮の店もよかっただろ?」
「あァ、好物だって喜んでた」
「まきをに名前ちゃんの好物聞いて、店の事前調査してたかいがあったな!」
全部俺様のお陰じゃん!とバシバシと背中を叩く宇髄に痛ェと実弥は手を振り払う。


「不死川、今日の結果はどうだった?」
「あ、悲鳴嶼さん、すいません。昼に電話連絡もせず」
毎日の日課で昼に一度進捗状況を電話することになっている。
今回は同行とのこともあり、実弥は悲鳴嶼から昼の報告はしなくていいと言われていた。
「今日の契約は「契約ではなくて」
慌てて契約書を鞄から取り出そうとする実弥を悲鳴嶼は制する。
「苗字の名前は呼べたのか?」
その質問に、一瞬空気が固まった。
「・・・あ、えっとォ・・それはまだ、ですね・・」
視線を泳がせながら、答える実弥にまた宇髄が茶化すように笑う。
「お前、契約は取れるのに、名前ちゃんの名前も呼べねぇの?カーっ、初心だねぇ」
「うるセェ!!!」
宇髄に殴り掛かる実弥を止めながら、悲鳴嶼が低くつぶやいた。
「南無・・・不死川、修行が足りぬ・・」


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