hear a door open 02



翌日、昨日のデートのお誘いの熱が冷めやらぬまま、私は頼まれた書類を持って上司のいる6階にエレベーターで向かっていた。
一日中、何かにつけて昨日の事を思い出しては、ニヤけてしまう顔を隠すのに必死だった。
もう自分の人生には、絶対に起こらないだろうことが続いて、ここ数日は奇跡が続いていることを神様に感謝してばかりだ。
よかった。まだ神様に見捨てられてない、私。


軽い足取りで廊下の角を曲がろうとした時、少し先に不死川さんがいることに気が付いた。

「不死川さ―」

その広い背中に声をかけようとして、不死川さんが誰かと話していることに気付く。
話に夢中なのか、その長い前髪のかかった横顔はこちらには気づいていない。
邪魔しちゃ悪いなと、物陰から様子を窺えば話し相手はこの会社の社長令嬢の産屋敷かなたさんだった。

社長令嬢なんて肩書きだけど、私より年下なのに仕事もそつなくこなす人で、皆から一目置かれている存在だ。
それに彼女は日本美人という言葉がぴったりと似合うとても洗練された容姿で、いつも注目の的だった。
普段の業務で絡みはないけど、何かの折に言葉を交わした際は緊張して「はひっ!」なんて声が裏返った私を優しく微笑んでくれた聖女のような人である。

『不死川さんとかなたさん、接点あったんだ・・・』

あまり二人が親しく話しているようなところを見たことがなかったので、この組み合わせは新鮮だった。
何を話してるんだろうかと、聞き耳を立てると「結婚式のお花のことなんですが」なんて衝撃的な言葉が聞こえてきて、思わず背筋を伸ばしてしまう。

結婚式って?
まさか不死川さんと、かなたさんが結婚?
そんな話は噂話でも聞いたことがない。
思わず耳を大きくして、聞き入ってしまう。

「やっぱりお花は白がいいかなと思いまして」

「おォ、いいんじゃねェかァ」

誰がどう聞いても結婚式の準備の会話だった。
明るい不死川さんの声に、嬉しそうなかなたさんの言葉。
その2人の声色とは裏腹に、私の気持ちは海の底に沈んでしまったようだった。
まさか、不死川さんに結婚相手がいたなんて、考えてもみなかった。
いや、あんな素敵な男性だもの。
いない方がおかしいよ。
そうやって心を納得させるように頷くのに呼吸が早くなる一方で、上手く息が吸えない。

「あと、テーブルに置く花は淡い色がいいなって思ってて―」

続いていく会話に耐えきれなくて、そっとその場を後にした。



不死川さんの「鈍感な相手」ってかなたさんのことだったのか。
私の知らないところでいつの間にか鈍感な相手から、結婚相手まで昇格していたんだろうか。
きっと不死川さんの事だから、何の心配なくともスマートに事が運んだんだろう。
恋愛経験がないばかりに、そんな事実にもちっとも気付けない私を不死川さんは優しいから断れず、ずっと模擬デートに付き合ってくれていたんだ。

結婚相手がいるのに。

なんてことだ。

私は、鈍感にも程がある。

「・・・・あ、れ。なんで」

小走りで胸元に抱きしめた白い書類に、たくさんの染みができる。
私の頬にぼろぼろと涙が伝っているのだとわかった時にはもう、止められなかった。

『これじゃまるで、失恋したみたいじゃないの』

ライオンに叶わぬ恋をしていると自覚したネズミは、会社の隅で枯れるまでこっそりと涙を流した。

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週末の金曜日。
不死川さんに誘ってもらった模擬デートの約束の日だった。
いつもならルンルン気分で待ちわびていたデートの日が、今はただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
今日、今後の模擬デートは断ろう。
先日の別部署の男性にデートに誘われた話を伝えれば、きっと不死川さんも安心してかなたさんと結婚できるはず。
私と無駄に接点を作ってしまったから、こんな茶番に付き合わせてしまった。
水底に沈んだような心を持ち上げられないまま、私は重い足取りでいつもの居酒屋の扉を開けた。



「はァ?!何て!?」

「だから、模擬デートは今日で最後にしたいと思いまして」

居酒屋でいつものように最初の一杯で乾杯をして、早々に私は切り出した。
驚いた様子の不死川さんは、危うく飲んでいたビールを吹き出しそうだった。
タイミングを間違えたかもしれない。
さすがに、デートの断りをいれる模擬までは行ってもらってない。
伝えたものの、一瞬にして流れる気まずい雰囲気に目を伏せる。
いつもなら近くに聞こえる周りの喧騒も、今は遠くの事のように耳に響く。
まるで騒がしい店内で二人だけ切り取られたような沈黙が続いた。


「・・・何か、嫌、だったかァ」

たっぷりの沈黙の後、不死川さんは苦い顔で尋ねた。

「まさか!不死川さんのことで嫌な事なんてありません!ただ、その・・あの・・・実はデートに誘われたんです!」

誘われたのは事実だ。
断ってしまったけれど。

「ハァっ!?どこのどいつからだァ」

「別部署の清水さんです。実は・・・火曜日に誘われまして」

ビールジョッキを握る不死川さんの手に、青筋が立つのをみないふりして先日の報告をする。
嘘は言ってない。

「チッ・・俺が出張の間かァ・・油断したァ」

「え?なんですか?」

不死川さんが苦々しく何か呟いたが、私には聞こえず、聞き返すも何もねェよと言われてしまった。

「・・・そ、それで、デートも誘ってもらえましたし、もう、模擬デートは大丈夫です!」

ぐっと意を決してなるべく嬉しそうに伝えれば、不死川さんは何か言いたそうな瞳でこちらを見つめていた。
その瞳に含んだ言葉を聞きたい、けど、聞いてはいけない気がする。
何か、が、溢れて止められなくなりそうで。

「・・そうか・・」

「そうなんです!不死川さんのお陰で私もなんとか異性とデートが出来るようになりました」

引きつる口角を必死に上げる。
不思議ですね、本当のデートの誘いより、貴方との模擬デートが1番嬉しかった、なんて。
そんな気持ちはもちろん伝えられないけど、乾いた笑いのまま、不死川さんを見つめた。
やっぱり不死川さんの眉間の皺は刻まれたままで、彼はわかったと呟くとビールを一気に飲みした。

「すみません。ビール、おかわり」

あいよ!とビールが運ばれてくれば、あれよあれよと不死川さんは飲み干して、またビールを注文する。

「不死川さん、飲み干すの早くないですか?」

私の疑問も聞こえなかったように、いつもの倍のペースで不死川さんはお酒を飲み干していったのだった。



「悪いね、もう店じまいの時間だよ」

「ああ!!すみません!すぐ店を出ます!」

少し飲みすぎたと酔いを覚ましつつ、お手洗いから戻る際に店長にそう声をかけられる。
慌てて席に戻れば不死川さんは机に突っ伏していた。
ワイシャツ越しにもわかる筋肉質な背中がゆっくり上下に動いて、寝てしまっているんだって気づいた。
不死川さんと何度も飲んだけれど、潰れてまっている彼を見たのは初めてだった。
終電までには必ず店を出て、近くの駅まで送ってくれるのがいつもの流れだったから。
時計を見れば、すでに終電は終わっている時間だった。
覗き込めば、見たこともないような不死川さんの幼い寝顔に、シークレット画像ですか?と心のシャッターを切りまくる。

「不死川さん、大丈夫ですか?お水、飲みますか?」

不死川さんの肩を軽く叩きながら、ゆっくりと頭を上げた彼にお冷を差し出す。
赤い顔で虚な目がお冷に視点を合わせると、ぐいと一気に飲み干した。
いつも凄みを含んだ顔は何処へやら、少し隙のある無防備な顔に思わず顔を逸らした。
こんなこと言ったら怒られるだろうが、可愛すぎる。
守ってあげたいなんて湧き起こる気持ちは母性本能だろうか。

「すみません、お勘定を」

「ああ、お金ならもう彼にもらったよ」

「え?」

あんなに飲んでいたのに、いつの間に。
流石不死川さんだなぁと思いながら、よろけながら立ちあがろうとする彼に肩を貸した。
私より身長もあり、体格も良い彼に私の支えなんか頼りないのは百も承知だ。
でも支えがないよりいいだろうと、彼の腕を担ぐようにしながら、2人よろよろとお店を後にした。

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タクシーを、と言っても休み前の深夜帯。
そう簡単にタクシーは捕まらない。

『ていうか、ていうか。何にも考えてなかったけど、この体制、距離近すぎじゃない!?』

先日のバックハグといい、ファンなら大金払ってでも参加しているであろう握手会よりも、大変光栄な状況に頭が沸騰しそうだった。
頭を垂れた不死川さんの表情は窺えないが、男性用の香水の淡い香りに、ドキドキと心臓が速くなる。

『なんだか、意識したら、急に恥ずかしくなってきた』

耐えられなくなって、近くの公園に向かうと、ベンチに不死川さんを座らせて立ち上がり、そっと距離を取る。
深夜の公園には他に誰もいなくて、頼りない電灯の灯りがベンチの周りを照らしていた。

「不死川さん、大丈夫ですか?自販機でお水買ってきますね」

やはり頭を下げたままの不死川さんに、そう告げてから走り出そうとした私の腕が引かれる。
振り返れば、不死川さんの腕ががっちり私の腕を掴んでいた。

「不死川さん・・?わっ!」

大丈夫かな、体調悪いのかもと不安になって顔を覗き込もうとすれば、急に力一杯腕を引かれ、私は体勢を崩して彼の方に倒れ込んでしまった。

これは!
これは、あのエレベーター内での事故の時と同じような状況にっ!
慌てて体を離そうとするのに、気づけば彼の太い腕は私の背中に回され、顔が肩口に埋まっていた。
銀色の見た目に似合わず柔らかい髪の毛が頬をくすぐって、ピクリと背中が固まってしまう。

「しししし不死川さんっ!?酔ってますよねっ!?間違ってますっ!抱きつく相手、間違ってます!!よく見てください!!私ですよ!」

「・・・間違ってねェよ」

ボソリと漏れたような小さな声だったのに耳元で囁かれた声は、弾くように私の鼓膜を揺らす。
はっ?!間違ってないとは?どういうこと!?!?
頭の中が混乱を極め、ただただ固まるしかない私の体を不死川さんは力強く、なのに壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。

「間違ってねェから・・・。他の奴とデートに行くのは止めてくれねェか」

「えっ?」

なんで?なんで、不死川さんが私のデートを中止しろなんて言ってくるの!?
むしろ模擬デートを重ねたおかげだから、喜ばしい事なんじゃ・・・・。

「でも・・せっかく、不死川さんとの模擬デートのおかー

言いかけた唇にかさついた柔らかいものが触れて、それが不死川さんの唇だったって気づいたのは、彼が顔を上げた時だった。

「え?え?ええ?」

夢だ。

完全に夢だ。

私もずいぶん飲みすぎたものだ。

お酒の力で自分の都合の良い妄想を作り上げてるに違いないと思い込もうとするのに、どうみても目の前の不死川さんは現実で。
腕を掴まれている感触も、そこから伝わる熱も全部本物で思考がついていかない。
壊れたおもちゃのように、口を開けたまま固まった私をみて、不死川さんはうっすら赤い顔のまま口をへの字に結んだ。
少しむっとしたその表情はまるで拗ねている子供みたいだ。

「俺とは模擬で、他の奴とはデートすンのかァ」

「え・・だって・・」

「まだ・・わかんねェ?」

「えっ?何がどういう・・」

「もう、一回なァ」

動けずに固まっている私の頬を不死川さんの熱い両手が優しく包み込むと、溶けるような甘い瞳が私の視線を捉える。
次の瞬間、また唇から痺れるような感覚が走った。

『キス、されてる』

途端に頭がパニックになって、体を離そうと不死川さんの胸元を力一杯押すのに、彼はびくともしない。
そればかりか私の腰に腕に手を回し、下唇を甘噛みするものだから、私は呼吸するのも精一杯で、陸上なのに、本気で溺れて死にそうになった。
不死川さんが余裕の笑みで唇を離す頃、私はパクパクと魚のように口をただただ動かすことしかできなかった。

「伝わったかァ?」

いつもより真剣みを帯びた不死川さんの瞳は、街灯の灯りに反射して輝いていた。
その底知れない濃紫に引き込まれそうになって、言葉も発せられず立ちすくむ。

「・・・俺は好きでもねェ奴の模擬デートに、毎回付き合うほどお人好しじゃねェよ」

彼の男らしく厚い掌が私の耳元の髪に触れる。
そっと触れた感触だけで、火がついたように触れられた箇所が熱くなる。

「それに、好きな奴が他の男とデートに行く事を傍観できるほど心も広くねェ」

「・・・えっ、と」

好きな奴・・・って、デートって。
この流れだと、私、私、勘違いしそうになる。

「ででで、でも、不死川さん、かなたさんと結婚されるですよね?」

「かなた?」

呼び捨ての名前に心臓が痛くなりながら、この間結婚式の話してたじゃないですか、と聞けばあァと嬉しそうに口角を上げる不死川さん。

「かなたは、弟の玄弥の結婚相手だからなァ。その相談には乗ってたが」

「へっ?」

この間、盗み聞きしたあの会話は、弟さんの結婚式の話だったんだ。
そう思うと自分の勘違いが恥ずかしくなるのと、不死川さんが結婚しないって安堵感で急に体が軽くなった気がした。

「・・・気にしてもらえるって事は、少しは意識されてるって事だなァ」

ぐいと肩を捕まれ体ごと寄せられる。
鼻の先くらいに寄せられた不死川さんの瞳は蕩けそうなほど潤んでいるのに、その視線の鋭さに心が射抜かれる。

「なァ、名前。早く俺のものになってくれねェかァ?」

下等生物が捕食される時はこんな、気持ちなんだろうか、と私は体の奥底から熱くなる気持ちを抑えて、不死川さんの瞳を見つめ返した。


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