「ぼくはきみを愛することをちかう」

それはとても幼く、純粋でいて滑稽な、儚く淡い約束。
好きの一言と好きの一言で伝わった関係。寄り添えばそれだけで満ち足りた。春の陽だまりのような花咲ける庭で交わした。優しい思い出だった。



空が白んできたことに気付き、彼女は足を止めた。
落ち着かずに部屋をうろうろと、そのうちもどかしくなってきて玄関ポーチまでの屋敷の中を、一晩中歩き回っていたようだった。ほとんど無意識のことだったので時間の経過まで思い至らなかったのだ。

「必ず迎えに行くから待っていて」

恋人が告げたのは今夜のはずだった。夜はもう明けてしまう。
気付いてしまった事実に愕然とする。

優しい人だった。晴れやかな笑顔の似合う人だった。呪われていると揶揄される彼女を、それでも大丈夫だと言ってくれた。大きな手があたたかく、なにより愛しい人だった。
――その恋人が。
手の届かないものとなってしまった。失ってしまったのだ、永遠に。姿を見せないとはそういうことだ。

悲鳴が喉元までせり上がり、苦労して押しつぶす。
それでも涙は思うようにはならずに瞼を押し上げてはこぼれた。自分を抱き締めても力が足りない。震えが止まらない。立っていられなくなって膝から崩れた。

「こんな時間からこんな場所でどうした?」

どれくらいそうしていただろうか、頭上からかけられた声に彼女は頭を持ち上げる。

「風邪を引いてしまうよ、部屋に戻ってお休み」

優しく甘いいたわりに満ちた声だった。

「……帰ってらしたのですね、お兄様」
「いつも帰ってきているじゃないか。可愛い妹が待つ家なのだから」

明るく濃い金の髪は、まだ薄暗い屋内にあって朝日よりも早い光のように輝く。細められた灰色の瞳はやわらかで、彼女を慈しむ眼差しだ。
いつだって彼は優しい。彼女には。そう……彼女には。

「まだ朝というには早い。休まなければいけないよ」

諭すかの言葉をかける彼の服装は綺麗に整えられていて乱れひとつもない。完璧な兄の姿。
しかし彼女は知っている。理解している。完全に夜が明ければ、自分はまた呪いを増やすことになるのだと。

彼女と愛し愛されると死が訪れる――

それは噂でありながら紛うことなき事実である。
彼女の愛しい恋人は、今頃部屋で血を吐いているのだろうか、川に浮いているのだろうか。それとも誰とも知れない姿となって見つかるのだろうか。

「お兄様こそ、お疲れでしょう。ゆっくりなさるといいですのに」

立ち上がる彼女に手を差し延べる彼はゆるりと笑う。
その手のひらは繊細で優しく、だがどこか冷たい。

昔から馴染んだ感触が胸に痛くて彼女は俯いた。
何度も何度も、繰り返される呪われた所業。悲嘆しながら、それでも彼を嫌うことの出来ない自身がわからない。
苦しくて苦しくて息をするのも苦痛だと思えるのに、結局は受け身のまま流されて生きている。

「そうだね。少しばかり眠ることにするよ」

微笑み自室へと向かう背中を見送って、またひとつ、涙が流れ落ちた。
最後のつもりだった恋は終わりを迎え、いつものようにそばに戻ってきたのは兄ただ一人。そんな彼は自分とは違い、数多の恋人を囲っている。どの女とも顔を合わせたことはないが噂くらいは耳に届く。金の髪と淡い茶の瞳をした女たち。

どうしてこんなことになってしまったのか、始まりはわからない。ただ執着しているのだとははっきりしている。

徐々に明けてゆく空を窓から見上げながら、思い出すのは幼い記憶。母親とは早くに別れてしまったものの、父親がいて兄たちがいて、裕福な家庭だったこともあり幸せな幼少期だった。
ドレスを取っ替え引っ替え、友達も多く、パーティーに招待されることもあれば主催することもあり。

賑やかで幸せな日々を送っていた。それは今も続く日常でもある。兄の何人かは死に、多忙な父親は帰らない夜が続いていたが。

幸せなのだと、思っていた。

ふらり、ワインセラーから抜き出したワインを呷る。甘く、渋く、喉を下る熱さに目眩がする。
唇からこぼれた気がしたが、どうでもよかった。思い立った考えに胸が震えていた。なぜかどうしようもなく高揚した。

足音を忍ばせて向かったのは兄の部屋。合図をすることなく侵入する。
もう何年も入ってなどいなかったというのに、そこは昔から見慣れたままの姿をしていた。広い部屋にしっかりした机とクローゼットがあり、あとはベッドくらいの殺風景な空間。それでも彼がいるだけで華やいで見えることが幼い頃から不思議だった。

「……お兄様」

ベッドに横たわる彼は、呼びかけに薄らと目を開ける。口元が動いて名を呼ばれたようにも思えたが、果たして自分の名前であったかはわからない。

「ゆっくりお休みになっていて」

夢から覚めきってはいないであろう、その微笑みはやわらかで。普段の有能な顔ではない。
彼女は歩み寄った枕元に座り込み、手にしたままのワインを口に含むとそのまま唇を目の前のそれに押し当てた。

こくりと動く喉。全身が痺れていく。

まるで夢を見ているような心地で、彼女は笑った。
弾まんばかりの足取りで自室へと戻り、残ったワインを飲み干しベッドへ倒れ込む。

「一緒に死んではあげない」

笑いが口から漏れていく。
寄り添って死ぬことは選ばない。微量を摂取した彼はもしかすると苦しみながら堕ちていくのかもしれないが。これは復讐でもあるのだから。ワインに混ぜた粉は甘く、甘美な夢を見せてくれそうだ。

「おやすみなさい。向こうでお会いしましょうね」

もう泣かなくてもいい。心を痛める必要はない。誰かを想っては失い、それでも許し愛してしまった日々は終わる。報われない愛の悪循環はこれで断たれる。

「愛しているわ」

執着していたのだ。――互いに。
彼女は豊かな金色の髪を広げ、木の実のような瞳を閉じた。





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