「姫様、本日もお美しく」

膝を折り目の前にかしづく男に、少女は笑みも照れもせず、精緻な紋様を刻まれた椅子に腰掛けたまま鷹揚に頷く。
一面の赤絨毯。足元を彩る靴は対照的な白。高いヒールは細く、少女の足を覆うというよりは凝ったしつらえから装飾品と見えた。

高い天井、広い部屋に豪奢な調度品、高い位置の大きな窓からはレースカーテンにゆるめられた日差しが差し風が吹き込む。

「新しいお召し物ですね、大変似合っておいでです」
「……で?」

素っ気ない声音は幼いほどにあどけなく、冷たくも甘くもある。

「午前は私の授業、午後は一番に伯爵令嬢とのお茶会、その後は」
「またお勉強なんでしょう。わかってるわ」
「では、そろそろご準備を」

切り揃えられた黒髪のその男はまっすぐに主人たる少女を見上げ、少女は視線を感じながらも自らの指先を眺めた。
薄桃の爪、形よく整えられたそれは自慢の一つ。

男は少女とは逆に、冷静に聞こえる声を口にしながらもどこかやわらかな印象を与える顔立ちだ。
彼は眉尻を下げため息を吐くと立ち上がり、その手を取った。恭しく。

朝、昼と、時間にあわせ予定は滞りなく進んでいった。

退屈な毎日のオシゴト。生まれた時から続いていて、きっと死ぬまで続いていく。
貴族の、それも王家に近い公爵家に生れついた定めといえばそれまで。それでもそんなもの、外の子供たちが何も考えず遊び呆けているこんな年頃から理解したくはなかった。

「どちらに行かれるのです、姫様?」
「ちょっとその辺りを歩くだけよ」
「では少々お待ちください。すぐに用意して参りますので」

いつもそう。一人になれるのは自室のみ。ずっと誰かが、この男がいる……。

「まったく、窮屈ったらないわ」

男が昼食の片付けをしている隙に抜け出し、中庭を横切り辺りを歩く。
生まれ育った城の敷地内とはいえ、いつも誰かが「それはいけません」「あちらはダメです」ばかり言うものだから、まだ知らない場所も多い。

芝生は日光を浴びて緑鮮やか、鳥たちが飛び交い鳴き声やいななき、侍女や侍従の話し声が聞こえ、城の中と外では雰囲気がまるで違うことが不思議だった。

青い空は眩しく、流れる雲はゆるやかに、少々の下に色濃い影を作りゆく。
気持ちのいい日だった。全身で感じていた。穏やかな心持ちになれた。
 
「姫様っ、勝手に出歩かれては……!」
「やだもう来ちゃったの!?」

城から飛び出してきた情けない表情になっていると遠目にもわかる男のわずかに揺れた声に、身を隠そうと足早に歩を進める。
すぐに捕まるとしても、自由な時間は少しでも長い方がいい。

彼は口うるさいのだ。いつもいつも。少女は公爵家の令嬢で男は仕えるただの教育係であるというのに。
物心ついた頃にはそばにいたものだから、そんなことはすでに慣れすぎて意味をなさない記号のようになっているのだろうか。

駆け足ほどの歩調になり長い桃色の髪を背に揺らした少女は、

「姫!」

思うより近くで聞こえてきた声に驚く暇もなく、気づけば男の腕の中にいた。
耳元で風になど隠せないほど勢いよく音が鳴っている。
身体は動かない。当たり前だ、拘束されているようなものなのだ。

「……え?」

何が起きたのか理解不能。
思考が追いつかない。
すぐに解放された身体、なのにまだ動かない。動けない。
鼓動がうるさい。身体がうるさい。

男が少女を正面から、間近から、見つめた。臆することない光を孕んだその瞳。

「あなたは……」

肩を掴まれる。痛い。
視線が刺さる。痛い。

風に髪が舞って、男の黒髪も掻き乱れ、静止と躍動、視界に不可思議な感覚。

「本当に、目が離せない」

息を吐き出され、表情が一転し苦笑を浮かべられる。
少女から外された視線は風の吹いた先へと向いて、

「あ、あれ……?」
「申し訳ありません、閣下っ!」

前方には落ち着きつつある土煙。後方からは焦りに裏返った老人の声。徐々に理解が追いつく。轢かれかけたのだという事実。
男が老人へと振り返る。常にない冷めた顔つき。少女の初めて見る。

「気をつけろ。今回は無事だったからよかったが、」

老人の様相から動物の世話をしている者であろうと知れた。過ぎ去ったあの土の立ち上る様は、馬が駆け去ったためだったのだろう。どうやら世話をしていて逃げ出されたようだ。
男に睨まれ老人はただでさえ曲がった身体をさらに小さく縮こまる。

「次があれば首はないと思え」

ああ、きっとあの耳元で弾けたうるさい音は馬の蹄だったのだ。
少女は男の袖を引く。

「何事もなかったのだから、もう、」
「あなたもです。御身の大事をご自覚いただかなければ」

小さな棘が、生まれた気がした。
それはきっと気のせいで、それはおそらく気のせいではない。

「ひ、めさま……申し訳ございません……!」
「いいから早く捕獲しろ。行け」
「は、はいっ」

ようやく少女が主人たる令嬢だと気づいたのか青ざめた老人は、だが謝罪を重ねることも許されず追い立てられ、老いた足を引きずるように急いで指示に従った。

男の顔が、また少女を見下ろす。
思わずきゅっと目を瞑る。が、頭にあたたかな手のひらが置かれるだけ。

「さあ、早く戻りましょう。お茶会が間に合わなくなってしまいます」
「……わかってるわ」
「今日のお茶請けは花苺のプディングです」
「……そう」

どうしてこうなのだろう。気持ちをあっさり引き上げられてしまう。
少女と男は主従の関係で、それだけでいえば立場は少女が上であるはずだというのに。――揺り動かされてしまうのは、その真逆。

怯んでいた心がゆるむ。
そしてまた、時間は流れる。

「では行きましょう」






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