まだまだ冷えた空気が触れる肌に心地よい空の下、和羅彦命(かずらひこのみこと)は足早に道を抜けていく。
近隣で最大の勢力を誇る大和の国の都である、前後左右、行く人はせわしなく、それでも笑み絶えずにぎわいを見せている。
中心部からは幾分離れた土地に住まいがあるため、久方ぶりに訪れる宮殿であった。
生まれはこことはいえ呼び出しに応える際は毎度緊張する。国にとって重要な用件でもないと言葉を交わす機会すらない父親と顔を合わせるためであろう。
門番は目が合えば頭を下げて退き、下仕えの者たちは伏して道を開ける。
屋内は日が差し込んでいるのだが時節柄だろう光は強くない。明るいとも暗いともつかない中、ひときわ大きな扉をゆっくりと叩いた。
「和羅彦、参りました」
足を踏み出せば、正面に座するは帝。大和の国の頂点に君臨して長い男である。
和羅彦命は膝をつき頭を垂れた。
――この時、この瞬間、其の人生の先が定まったとも知らず。彼は疑うことなくただ下される命令を拝するのであった。
*
「隣国とはいえ緑豊かで気持ちのよいところではないか」
和羅彦命は帝からの命を受け、早速馬を飛ばし任地へと赴いた。供はない、一人先駆けだ。
馬上から見る景色は目を見張るほどに鮮やかである。空と木々、大地、その色合いのなんと濃いことか。
大和の国との距離は大差ない、気候は変わらないはず。それでも和羅彦命はこんなにも眩しい世界を見たことがなかった。
「この辺りはずいぶんと昔から変わらずのようですよ」
天に届くかと思われるほどの大木を見上げていると、下方から穏やかな声をかけられた。
「そちらは嵯那の者か?」
「ええ、わたしももとは余所者ですがね」
言って笑う男は草地の岩に腰を下ろして木枝を削り整えている。和羅彦命は愛馬の背から降り立った。
男の前に立って気づく、なかなかに大柄で精悍な顔立ちをしている。見える手元も傷が目立ち、口調とは異なり様子はたくましい。
「嵯那で暮らして十年ほどになりますか。最初はやはり自然の豊さに驚いたものです」
男が顔を上げた。初めて目が合う。黒目がちの、くっきりとした眼は、しかし左方が傷を負い塞がっているのが垂れた髪の間から見て取れた。
「美しい国だな、ここは」
「そう思います」
醸し出される雰囲気に人生を感じた。何者かは知らぬ。ただその後の会話にて男は砥蕗(しろ)と名乗った。
砥蕗はこの阿祇の国、嵯那の里にて何らかの職人をしているようであった。
和羅彦命よりいかほどか年を重ねているようであり、何処か知れぬ遠い地から流れ着いたようで、交わす言葉の端々に聞き取れぬ響きやちょっとした訛りがあった。穏やかに聞こえるのは、そういったものを排しようと意識的にゆっくりと話す結果なのかもしれない。
出会いついでに情報収集でもと思ったのだが、得たものは細かなものばかり。
砥蕗の周囲では大きな出来事や事件などはないということ、日々暮らすことに精一杯ながら人々は手を取り合い仕事に励んでいること。そして里には宿屋など気の利いたものはないらしい。
宿がないということで、和羅彦命は砥蕗と別れてから事前に調べておいた豪商のもとへと向かった。
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