リゲルは足音を忍ばせて、薄暗い廊下を歩いていた。壁に一定の間隔で取り付けられた燭台のそばを通ると、炎がいまにも消えてしまいそうなほど大きく揺れる。
この頼りない炎を見るたびに、なぜか "これがお前の行く先だ" と嘲笑われているような気分になり、リゲルはここを通るのが以前から嫌いだった。恐らくそのような効果も含めて、シグナスお父さまはあえて私の部屋をこの廊下の突き当たりにしたに違いないといまになっては思う。ふと肌寒さを感じて、リゲルは歩く速度を速めた。
「――あたしにはお前の言うことなんか理解できないね」
数歩先の扉から漏れ聞こえた話し声に、リゲルは歩みを止めた。
「理解なんてしなくていい。俺は、俺のやりたいようにやるだけだ」
続いて聞こえた低い声に、リゲルは心臓を強く掴まれる。その声は間違いなくシリウスだった。
「なんとでもお言い。お前も、ここにいる限りは――」
「こんなところに、いつまでもいるつもりなんてないからな」
「……どういう意味だい?」
「俺はもうすぐ家を出るつもりだ」
「ふーん、じゃあシシーのことは……そこにいるのは誰だ!」
リゲルが取り落とした本を慌てて拾っていると、頭上から大きな影が差した。
「なんだリゲルか。あんた、そんなところで何してるの?」
ベラトリックスが腕を組んだまま顔を覗き込んできたが、リゲルはそれを無視して立ち上がり、シリウスに向き直った。
「シリウス」
リゲルにまっすぐ見据えられて、シリウスは僅かに顔を強張らせた。いままでにリゲルには向けたことのないような、警戒を含んだ表情だった。
「家を、ここを出るというのは本当なの?」
「……ああ、本当だ」
シリウスはリゲルから目をそらして、ポケットに手を突っ込んだ。リゲルはそれに少し傷付いたが、唇を噛み締めて「いつなの?」と気丈に尋ねた。
「それは――」
「おしゃべりはその辺にしときな。リゲル、あんたに用があるんだった」
突然、ベラトリックスがリゲルの腕を掴んで歩き出した。リゲルはたまらず後ろを振り返る――シリウスは視線を足元に落としていた。
ベラトリックスに連れて行かれたのは、足を踏み入れたことのない三階の奥にある部屋の前だった。リゲルが扉の中央辺りに描かれたブラック家の家紋を食い入るように見つめていると、それはブラック家の者以外を弾くためにあるとベラトリックスは説明した。
「入れ、と言われたら入るのだよ」
「え、でも……」
リゲルは戸惑った。扉のあるべき場所にドアノブがなかったのだ。
「ああ、ドアノブは中にいる者の意思で現れる。魔法を使う必要はない」
ベラトリックスは扉の家紋を愛おしむように撫でてから、リゲルを振り返った。なにもかも見透かすような漆黒の瞳がリゲルを捉える。
「リゲル、シグナスお父さまの言うことはなんでも聞くように。アンドロメダみたいになりたくなかったら」
リゲルがその言葉の意味を理解するより先に、扉に金色のドアノブが現れた。
部屋に入ってまず目に映ったのは、中央に置かれた長机だった。ブラック邸のどの部屋にもあるシャンデリアは見当たらず、その代わりにいくつかの燭台が宙に浮いており、ぼんやりと人の頭を照らしている。
「お前はそこに座りなさい」
リゲルには薄暗くてよく見えなかったが、一番奥に座っていたのはシグナスだった。指し示された空席につくと、リゲルは遠慮がちに部屋の中を見渡した。ブラック家の面々に加え、さらにマルフォイ家やレストレンジ家、ロジエール家の当主もいる。随分と仰々しい集まりだとリゲルは思った。シグナスお父さまが度々、このような集会を開いていることは知っていたけれど、いったい私と何の関係があるのだろう……
「今日は、私の末娘の婚約を発表するために集まって頂いた。リゲル・ブラックはレギュラス・ブラックと婚約する」
リゲルが小さく息を飲んだ。慌てて口を手で覆ったが、それは意味をなさなかった。天井が高く静まり返ったこの部屋の中では、どんな些細な音も不自然に響き渡ってしまうのだ。
「不満だと言うのか?」
すかさずオリオンが鋭くリゲルを見た。……なんとか言わなくては。リゲルは慌てて弁解を試みたが、乾ききった口ではまったく声を出すことができない。
「父上」
オリオンの隣に座っているレギュラスが、落ち着き払った調子で口を開いた。
「リゲルはこのことを知らなかったのでしょう? 驚くのは無理もありません。それに」
シリウスとよく似たグレーの瞳がリゲルのほうを向いた。
「残念なことに、僕とリゲルはまだあまり仲が良くありません」
「それは残念なことね」
ヴァルブルガがふん、と鼻で笑った。
「ええ、本当に残念よ。この子はシリウスとは、ホグワーツにいた頃からとても
親密だったそうなのに」
あなたも知っているでしょう? と問いかけられて、レギュラスはなんとも言えない表情を浮かべたまま軽く頷いた。
「もう、うんざりよ。シリウスみたいに出来損ないの――」
机の上に置かれたリゲルの手が小刻みに震え出した。
「違うわ!」
ヴァルブルガは口をつぐみ、部屋の中にいる全員がリゲルを見た。
「シリウスは出来損ないなんかじゃないわ」
「……あら。あなた、やっぱりシリウスのこと好きなのね」
びくりと肩を揺らしたリゲルをヴァルブルガが油断なく観察する。
「そうね……それなら考えがあるわ」