第1話
夏の終わり / エヴァーモント邸
THE END OF SUMMER / EVERMONT MANOR
その手紙が届いたのは、ホグワーツへの出発を一週間後に控えた、八月最後の日曜日だった。
窓の外では、庭に植えられた白い薔薇が、夏の終わりの風に揺れていた。
エヴァーモント家の屋敷は、古い魔法使いの家系らしい重厚さを持ちながらも、不思議と冷たい印象はなかった。磨き上げられた木の床。壁に並ぶ先祖の肖像画。暖炉の上に飾られた銀細工の鳥。
そして、廊下の奥から聞こえてくる、弟の笑い声。
「アイリー! どこにいるの?」
「ここよ、ルシィ」
二階の書斎から顔を出すと、階段の下に小さな少年が立っていた。
ルシアン・エヴァーモント。アイリより四歳年下の弟は、片手に木製の魔法使いの人形を持ち、もう片方の手で手すりをつかんでいる。
「ねえ、ホグワーツに行ったら、また一年も帰ってこないの?」
「一年の間、ずっと帰れないわけじゃないわ。休暇には帰ってくるでしょう?」
「でも、長いよ」
ルシアンはあからさまに口を尖らせた。
アイリは小さく笑い、階段を下りて弟の前にしゃがんだ。
「そんな顔をしないのルシィ。お土産を買ってきてあげる」
「ほんとう?」
「ええ。何がいい?」
「ドラゴン!」
「……生きているドラゴンは無理よ」
「じゃあ、動くドラゴン!」
「それなら考えておくわ」
ルシアンは満足したらしく、アイリの首に腕を回した。
その小さな体を抱きしめながら、アイリはふと、自分の胸元にあるペンダントに触れた。
銀色の楕円形のペンダント。
中央には、翼を広げた鳥にも、炎のような模様にも見える意匠が刻まれている。裏面には、普通の魔法使いが使うルーン文字とは少し違う、細かな古い文字が彫られていた。
生まれたときから、ずっと身につけているもの。
父から渡された、エヴァーモント家に伝わる大切な品。
そして、父はこのペンダントについて、いつも決まったことしか話さなかった。
――決して失くしてはいけない。
――むやみに人に見せてはいけない。
――何か気になることがあれば、必ず父に相談すること。
理由を尋ねても、父は穏やかに微笑むだけだった。
『いつか、きちんと話す』
その言葉を、アイリは何度聞いただろう。
「お姉ちゃん?」
「なに?」
「またペンダント見てる」
ルシアンの指が、アイリの胸元を指した。
「これ、そんなに大事なの?」
「ええ。とても大事よ」
「ぼくも大きくなったら、もらえる?」
アイリは一瞬、言葉に詰まった。
ペンダントは家族の誰かが自由に譲り渡すような品ではない。
少なくとも、父はそう言っていた。
「これは、私が預かっているものなの」
「ふうん」
ルシアンはそれ以上尋ねず、再びアイリに抱きついた。
子供らしい無邪気さに救われた気がして、アイリは弟の髪を優しく撫でた。
そのときだった。
「アイリ。少し、いいかな」
階段の上から声がした。
兄のエイドリアンだった。
五年生になるエイドリアンは、父に似た落ち着いた顔立ちをしている。
普段は穏やかで面倒見がいいが、何かを考え込んでいるときだけ、ひどく大人びて見えた。
「お父様が書斎に来てほしいそうだ」
「今?」
「ああ。君宛ての手紙が届いたらしい」
「手紙?」
アイリは眉をひそめた。
ホグワーツからの手紙なら、入学許可証はすでに受け取っている。友人からの手紙も、昨日すべて確認したばかりだった。
「誰から?」
「それは聞いていない。ただ、父さんが直接渡したいそうだ」
エイドリアンの表情が、ほんのわずかに曇った。
アイリはその変化を見逃さなかった。
「……何か知っているの?」
「いや」
返事が早すぎた。
エイドリアン自身もそれに気づいたのか、少しだけ視線をそらす。
「父さんに聞けばわかる。行こう」
彼はそう言うと、先に階段を上っていった。
アイリはルシアンに別れを告げ、兄の後を追った。
胸元の銀色のペンダントが、歩くたびに小さく揺れていた。
エヴァーモント家の書斎は、屋敷の中でも特に古い部屋だった。
壁一面を埋め尽くす本棚には、古代魔法や魔法史、魔法生物に関する書物が並んでいる。窓際には父の机があり、その上には開かれた分厚い本と、いくつかの羊皮紙が置かれていた。
アレクサンダー・エヴァーモントは、娘が入ってくると手を止めた。
「来たか、アイリ」
「お呼びですか、お父様」
「ああ。座りなさい」
父の向かいには、母のエレノアも座っていた。
母はいつもどおり優しく微笑んでいたが、その膝の上には、一通の手紙が置かれている。
封筒は古い羊皮紙でできていた。
差出人の名前はない。
封蝋は、黒ではなく、鈍い銀色だった。
そして中央には――見覚えのある鳥の紋章が刻まれていた。
アイリは思わず息を止めた。
自分のペンダントと、よく似ている。
いや、似ているというより、同じ意匠をもとに作られたものに見えた。
「それは……?」
父は封筒を手に取り、しばらく眺めてから答えた。
「今朝、届いた。差出人は記されていないが、封蝋から見て、古い魔法使いの家系に関係するものだろう」
「エヴァーモント家に?」
「そうだ」
「どうして私を呼んだのですか?」
アレクサンダーはすぐには答えなかった。
机の上の羊皮紙を一枚裏返し、ようやく娘を見た。
「この手紙には、君の名前が書かれている」
アイリは目を見開いた。
「私の?」
「ああ」
「誰が、私の名前を……?」
「それを確かめる必要がある」
父は封筒を娘に渡さなかった。
代わりに、机の上に置いて、封蝋を指で示した。
「アイリ。ひとつ約束してほしい」
その声は、普段よりも少しだけ低かった。
「ホグワーツに戻ってからも、そのペンダントを肌身離さず持っていなさい。そして、これについて誰かに尋ねられても、すぐには答えないこと」
「……誰かに尋ねられるようなものなのですか?」
「可能性の話だ」
「お父様」
アイリは父をまっすぐ見つめた。
「私は、もう二年生になります。自分のことくらい、自分で考えられます」
「わかっている」
「それなら、どうして何も教えてくださらないのですか?」
母が静かに顔を上げた。
エイドリアンも、壁際で腕を組んだまま、父の返事を待っている。
アレクサンダーは娘を責めなかった。
むしろ、少し困ったように微笑んだ。
「君が自分で考えることを、父さんは止めたいわけではない。ただ、知ることで君が危険にさらされる可能性があるのなら、話す順序を考えたいんだ」
「その危険が何なのかも、教えていただけないのですね」
沈黙が落ちた。
アイリは、父が自分を大切に思っていることを知っていた。
無理に魔法を使わせたことも、家名を理由に何かを強制したこともない。失敗したときには叱られたが、理由を説明すれば最後まで話を聞いてくれた。
だからこそ、今回の態度が理解できなかった。
守りたいと思ってくれていることと、何も教えてくれないことは、同じではないはずだ。
「……わかりました」
アイリは一度、息を整えた。
「今は、無理に聞き出しません。でも、いつか必ず教えてください。私に関係することなら、私も知っておきたいです」
父はしばらく娘を見つめていた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「約束しよう」
その返事に、アイリは少しだけ肩の力を抜いた。
だが、父が次に口にした言葉で、再び緊張が走った。
「それから、もうひとつ。ホグワーツではブラック家の者と接する機会があるだろう」
アイリは首をかしげた。
「ブラック家……?」
魔法界でも名の知れた、古い純血の魔法使いの家系。
血統と伝統を重んじる一族として知られている。
アイリは名前を知っていたが、個人的な関わりはなかった。
「ブラック家に、何か問題があるのですか?」
「問題があると決まったわけではない」
父は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、彼らは古い魔法の記録を大切にしている。エヴァーモント家に伝わるものについて、興味を持つ者がいても不思議ではない」
「それは、家の歴史に興味があるということですか?」
「そういう場合もあるだろう」
また、曖昧な返事だった。
アイリは納得できなかったが、今はそれ以上問い詰めても答えは得られないと判断した。
「承知しました」
父はうなずき、母はそっと娘の手を握った。
「アイリ。お父様も私も、あなたを信じていないわけじゃないのよ」
「わかっています、お母様」
「なら、これだけは覚えておいて。あなたが何を受け継いでいたとしても、それであなた自身が決まるわけではないの」
母の手は温かかった。
「あなたがどんな人になるかは、あなたが何を選ぶかで決まるのよ」
アイリは微笑んだ。
「はい」
その言葉は、いつか自分が迷ったときにも、きっと支えになるだろう。
そう思った。
しかし、その時のアイリはまだ知らなかった。
この家族の会話が、やがて自分の人生を大きく変える謎の、ほんの入り口にすぎなかったことを。
その夜。
アイリが自室でホグワーツに持っていく荷物を整理していると、扉が二度ノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのはエイドリアンだった。
彼は手に一冊の古い本を持っていた。
「まだ起きていたのか」
「荷造りが終わっていないの。お兄様こそ、どうしたの?」
「少し、話がある」
エイドリアンは扉を閉めると、机の上に本を置いた。
表紙には題名がなく、角は擦り切れ、背表紙には古い銀糸が残っている。
「これ、何の本?」
「父さんの書斎で見つけた。正確には、父さんが昔から持っている本だ」
「勝手に持ってきたの?」
「借りただけだ。父さんには許可を取ってある」
エイドリアンは本を開いた。
中には、古い魔法使いの家系を示す図や、紋章の写しが記されていた。ところどころ、文字が薄れている。
そして、数ページ進んだところで、アイリの目が止まった。
銀色の翼を広げた鳥。
自分のペンダントと、よく似た紋章だった。
その下には、かすれた文字が記されている。
「守る力は、血によって受け継がれる。しかし、その目覚めを決めるのは血だけではない」
アイリは何度も、その一文を読み返した。
「……目覚め?」
「僕も、そこが気になっている」
エイドリアンは本を覗き込んだ。
「この紋章がエヴァーモント家のものだとすれば、僕たちの家には、普通の防御魔法とは違う何かが伝わっている可能性がある」
「お父様は、そのことを知っているの?」
「知っていると思う。ただ、どこまで知っているかはわからない」
「お兄様も?」
「僕も全部は知らない」
エイドリアンは珍しく、悔しそうな顔をした。
「父さんは僕にも、必要なことしか話してくれないんだ」
アイリは兄を見つめた。
自分だけが何かを隠されているのだと思っていた。
けれど、どうやらそうではないらしい。
「……アディも、調べているのね」
「ああ。だから、君がホグワーツで何か気づいたら教えてほしい。僕が調べていることも、わかった範囲で君に伝える」
「ありがとう」
「ただし、危険なことはするなよ」
「わかっているわ」
「本当に?」
「……努力するわ」
「アイリ」
「わかった。約束する」
エイドリアンはようやく笑った。
「それでいい」
彼が本を閉じようとしたとき、アイリはもう一度、紋章を見た。
銀の鳥。
守護。
血。
目覚め。
断片的な言葉が、頭の中でつながりかけている。
けれど、まだ何もわからない。
アイリはペンダントを手に取り、裏面の文字を確かめた。
いつもと変わらない、冷たい銀の感触。
光ることも、温かくなることもなかった。
それなのに。
ほんの一瞬、ペンダントの表面に刻まれた鳥の翼が、月明かりを受けて淡く白く輝いたように見えた。
アイリは顔を上げた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
「……気のせい?」
「何か言ったか?」
「ううん。何でもない」
その場では、アイリは兄に何も告げなかった。
まだ確信がなかったからだ。
ただ、ひとつだけ、はっきりしたことがある。
このペンダントは、単なる家宝ではない。
そして、父があれほど慎重になる理由も、きっとどこかにある。
同じ頃。
ロンドンのグリモールド・プレイスにあるブラック家の屋敷では、一人の少年が自室の窓辺に立っていた。
シリウス・ブラック。
間もなくホグワーツに入学する、ブラック家の長男だった。
机の上には、新学期のために用意された教科書と、家族から渡された書類が整然と並んでいる。
その中に、一通の手紙があった。
封筒には、ブラック家の紋章。
差出人は母、ウォルブルガ・ブラック。
シリウスは、開封した手紙をもう一度読み返した。
シリウス。
ホグワーツではブラック家の名に恥じない振る舞いをすること。
交友関係には十分注意しなさい。
とりわけ、古い家系との関係を軽んじてはなりません。
エヴァーモント家についても、忘れないように。
最後の一文で、シリウスの眉が動いた。
エヴァーモント家。
聞いたことのある名前だった。
だが、母が自分にその家のことをわざわざ書いてきた理由はわからない。
「……誰なんだよ、エヴァーモントって」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
手紙を机に置いたシリウスは、窓の外を見た。
ホグワーツに行けば、少なくとも家の人間の目から離れられる。
そう信じたかった。
誰と友達になるか。
何を学ぶか。
自分がどんな人間になるか。
それくらいは、自分で決めたい。
母の手紙に従うつもりはなかった。
けれど、エヴァーモント家という名前だけは、妙に引っかかった。
なぜ母は、数ある古い家系の中から、その名前を挙げたのだろう。
シリウスには、まだわからない。
そして彼は、まだ知らない。
その家の少女と、まもなくホグワーツ特急で出会うことを。
その出会いが、彼自身の選択だけでなく、二つの古い家系に隠された秘密にもつながっていくことを。
窓の外で、夜風がカーテンを揺らした。
遠く離れた二つの屋敷で、二人の子供が、それぞれの家族から渡された言葉について考えていた。
一人は、何も知らされないことに疑問を抱きながら。
もう一人は、家族に決められる未来を拒もうとしながら。
そして二人を結びつける銀の光は、まだ誰にも、その本当の意味を明かしていなかった。
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