第2話
9月1日 / キングス・クロス駅
SEPTEMBER 1ST / KING'S CROSS STATION
出発の朝、アイリはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、庭の芝生には夜露が残っている。カーテンの隙間から差し込む光が、ベッド脇の銀色のペンダントを淡く照らしていた。
昨日、父に尋ねようとして、結局尋ねなかったこと。
兄と見た古い本に記されていた、謎めいた一文。
そして、ペンダントに刻まれた銀色の鳥の紋章。
どれも気にならないと言えば嘘になる。
けれど、今朝のアイリには、ひとまず優先すべきことがあった。
ホグワーツへ行くこと。
二年生として、新しい一年を始めること。
秘密の答えを探すのは、学校へ着いてからでも遅くはない。
アイリはペンダントを服の内側に収め、トランクの留め具を確かめた。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「アイリ、起きているか?」
「ええ、お兄様。入っていいわよ」
エイドリアンが顔を出した。
「荷物はまとまった?」
「もう確認したわ。教科書も、羽根ペンも、インクも全部入っている」
「それならいい。……父さんが、朝食のあとで少し話したいそうだ」
アイリは一瞬だけ手を止めた。
「昨日の手紙のこと?」
「それもあると思う。ただ、詳しい話は聞いていない」
エイドリアンは机の上に置かれたトランクを見て、わずかに笑った。
「今年も、君は何かを見つけてきそうだな」
「どういう意味?」
「昔からそうだろう。気になることがあると、納得するまで調べる」
「それは悪いこと?」
「いや。ただし、調べることと、危険に飛び込むことは別だ」
「わかっているわ」
「昨日もそう言ったな」
「アディ、しつこい」
アイリが睨むと、エイドリアンは声を立てずに笑った。
「帰ってくるまでに、少なくとも三回は同じことを言うと思う」
「じゃあ、私は三回とも聞き流すわ」
「父さんに似て、口が達者になったな」
そう言いながらも、エイドリアンの表情は優しかった。
アイリは兄の手を軽く握った。
「アディも、ちゃんと食事を取ってね。調べものに夢中になると忘れるでしょう?」
「……誰に似たんだか」
「親愛なるお兄様よ」
二人は顔を見合わせて笑った。
昨日までと変わらない、家族との朝。
その何気ない時間が、今のアイリにはいつもより大切に思えた。
朝食の席には、父と母、そしてルシアンがそろっていた。
ルシアンはアイリの姿を見るなり、椅子から身を乗り出した。
「お姉ちゃん、忘れ物ない?」
「ないわ」
「ドラゴンのお土産は?」
「まだ出発もしていないのに?」
「約束したもん!」
「動くドラゴンのおもちゃでしょう? 覚えているわよ」
「絶対だよ!」
「はいはい」
母が楽しそうに笑い、父も目元を和らげた。
食事が終わる頃、アレクサンダーがナプキンを置いた。
「アイリ。出発する前に、ひとつだけ伝えておきたい」
アイリは顔を上げた。
「はい、お父様」
「昨日の手紙については、こちらでも調べておく。君は学校で見聞きしたことを大切にしなさい。ただし、家名や紋章に関わる話を聞いたからといって、すぐに自分のペンダントと結びつけないこと」
「……わかりました」
「似ているものがあることと、同じものだということは違う。君なら、その区別はできるだろう」
「はい」
父はそこで一度言葉を切った。
「それから、もし何かが起きたら、隠さずに知らせなさい。小さなことでもいい」
アイリは少しだけ驚いた。
いつもは「何かあれば相談しなさい」と言う父が、今回はわざわざ「何かが起きたら」と口にしたからだ。
まるで、何かが起きる可能性を考えているようだった。
けれど、アイリは追及しなかった。
今日は出発の日だ。
家族を不安にさせたまま、駅へ向かいたくはなかった。
「約束します」
アレクサンダーはうなずいた。
「よし。では、行っておいで」
母がアイリを抱きしめた。
「体に気をつけてね。何かあったら、いつでも手紙を書いて」
「はい、お母様」
「それから、食事を抜かないこと」
「お兄様にも同じことを言ってあげて」
「アディには、もう何度も言っているわ」
「母さん、聞こえているよ」
家族の笑い声が、食堂に広がった。
アイリはその声を胸に刻むように、屋敷をあとにした。
まだ何も解決していない。
けれど、自分には帰る場所がある。
それを忘れなければ、きっと大丈夫だと思えた。
キングス・クロス駅は、朝から大勢の人で賑わっていた。
マグルの乗客たちが行き交う中、魔法使いの家族は、それぞれの荷物を抱えて九と四分の三番線へ向かっていく。
アイリは壁を通り抜けた先に広がる光景を見て、少しだけ懐かしい気持ちになった。
赤い蒸気機関車。
窓から身を乗り出して友達を探す生徒たち。
別れを惜しむ親たちの声。
今年も、ホグワーツの一年が始まる。
「アイリ、トランクを」
父が荷物を持ち上げようとしたが、アイリは杖を取り出した。
「大丈夫です。自分で運べます」
「そうだったな」
彼女が呪文を唱えると、トランクが床からふわりと浮かんだ。
二年生になって、浮遊呪文もだいぶ安定してきた。
もっとも、まだ授業で練習を重ねる必要はある。父からは、簡単な呪文ほど雑に扱わないようにと言われていた。
「お姉ちゃん!」
ルシアンが駆け寄ってきた。
「手紙書いてね!」
「もちろん」
「いっぱい!」
「毎日?」
「毎日!」
「それは大変ね」
アイリが笑うと、ルシアンは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、三日に一回!」
「交渉が上手になったわね」
「アディお兄ちゃんに教えてもらった!」
「余計なことを教えたな、エイドリアン」
父が呆れたように言い、兄は肩をすくめた。
別れの挨拶を済ませたあと、アイリは家族に手を振り、列車へ向かった。
母は最後まで微笑んでいた。
父は落ち着いた表情を崩さなかった。
ただ、アイリが列車に乗り込む直前、父の視線が一瞬だけ彼女の胸元に向いたことには気づかなかった。
アレクサンダーは、娘の姿が車内に消えてからも、しばらくその場に立っていた。
「あなた」
エレノアがそっと声をかけた。
「大丈夫なの?」
「……まだ、何とも言えない」
「アイリには、いつ話すの?」
アレクサンダーは、走り出す前の赤い列車を見つめた。
「彼女自身が知るべきことを、彼女自身の目で確かめられるようになってからだ」
その答えに、エレノアは何も言わなかった。
ただ、夫の手にそっと自分の手を重ねた。
列車の汽笛が鳴った。
二年生の少女を乗せたホグワーツ特急が、ゆっくりと動き始めた。
車内を歩きながら、アイリは空いているコンパートメントを探していた。
去年からの友人と約束をしているわけではない。知り合いがいれば挨拶をするつもりだったが、まずは荷物を落ち着かせたかった。
そのとき、通路の向こうから、少し大きな声が聞こえてきた。
「だから、家の名前を言ってみろよ」
「言う必要はないだろ」
低い声が返す。
「ずいぶん偉そうだな。ブラック家の坊ちゃんは、ずいぶんとご立派らしい」
アイリは足を止めた。
コンパートメントの扉は半分開いていた。
中には、黒い髪の少年が一人座っている。年齢は十一歳か十二歳ほどだろう。整った顔立ちをしているが、その表情には苛立ちが浮かんでいた。
彼の前には、少し年上に見える生徒が立っている。
「家族に逆らっているんだって? 純血の家に生まれておきながら、ずいぶん変わったことをするんだな」
「君には関係ない」
「関係ない? ブラック家の人間がグリフィンドールに入るつもりだなんて話、面白くないわけがないだろ」
少年の指が、膝の上で強く握られた。
アイリはその手を見てから、相手の生徒へ視線を移した。
「そのくらいにしたらどうですか」
二人が同時に振り返った。
アイリは扉の前に立ち、落ち着いた声で続けた。
「本人が話したくないと言っているのに、家族のことを無理に聞き出す必要はないでしょう」
「君には関係ない」
「ええ。あなたと彼の家族のことには関係ありません」
アイリは一歩も引かなかった。
「でも、ここは列車の中です。ほかの生徒もいます。相手が嫌がっているのに続けるのは、あなたの自由ではないわ」
相手の生徒は顔をしかめた。
「何だよ、君。エヴァーモント家の――」
そこまで言いかけて、彼は口をつぐんだ。
アイリの眉がわずかに動いた。
今、なぜ自分の家の名前が出たのだろう。
けれど、相手はそれ以上何も言わず、舌打ちして通路へ出ていった。
「覚えてろよ、ブラック」
捨て台詞を残し、足音が遠ざかる。
コンパートメントに静けさが戻った。
アイリは少年に向き直った。
「大丈夫?」
少年はすぐには答えなかった。
黒い髪が額にかかり、灰色の瞳が、警戒するようにアイリを見ている。
やがて彼は、少し皮肉っぽく口元を上げた。
「助けてくれなんて頼んでないけど」
「そうね。頼まれてはいないわ」
アイリはあっさりと答えた。
「でも、あの人のやっていることが間違っていたから止めただけよ。あなたが誰かは関係ない」
少年の表情が、ほんのわずかに変わった。
彼は、アイリの胸元に視線を向けた。
服の襟元から、銀色のチェーンがほんの少しだけ覗いていた。
「……エヴァーモント?」
アイリは目を細めた。
「私の名前を知っているの?」
少年は答える代わりに、少し考え込むような顔をした。
「いや。今、あいつが言いかけたから」
「そう」
アイリはそれ以上追及しなかった。
少年の手元には、まだ開かれていないチョコレートの箱が置かれていた。
「それ、食べないの?」
「……何?」
「チョコレート。せっかく買ったんでしょう?」
少年は箱を見下ろした。
それから、少しだけ笑った。
「食べるつもりだったんだけどね。邪魔が入ったから」
「なら、食べればいいわ」
「君は?」
「私は、これから座る場所を探すところ」
「だったら、ここに座れば?」
彼は窓側の席を指した。
「どうせ、さっきの奴が戻ってくるとも思えないし」
アイリは少し迷ったあと、頷いた。
「ありがとう。じゃあ、お邪魔するわ」
トランクを荷物棚に置き、向かい側の席に腰を下ろす。
二人の間には、まだぎこちない沈黙があった。
先に口を開いたのは、少年だった。
「シリウス・ブラック」
「え?」
「僕の名前。さっき、あいつが何度も呼んでいたけど、ちゃんと名乗っていなかったから」
彼は少しだけ肩をすくめた。
「シリウス・ブラック。君は?」
「アイリ・エヴァーモントよ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「いや、何でもない」
シリウスはチョコレートの箱を開けた。
その動きは何気ないものだったが、アイリは彼が先ほどまで握りしめていた手を、もう膝の上に置いていないことに気づいた。
少しだけ、緊張が解けたのかもしれない。
「ブラック家って、そんなに有名なの?」
アイリが尋ねると、シリウスは乾いた笑いを漏らした。
「魔法界じゃね。いい意味で有名かどうかは、別だけど」
その言い方には、単なる冗談では片づけられない何かがあった。
アイリはそれ以上、家族のことを聞かなかった。
代わりに、窓の外へ目を向けた。
「ホグワーツは楽しいところよ。少なくとも、私は好き」
「君は二年生?」
「ええ」
「じゃあ、いろいろ知っているんだ」
「一年分だけね。私だって、知らないことはたくさんあるわ」
「それでも、僕よりは知っているだろ」
シリウスは少し考えてから、付け加えた。
「もしよかったら、着いたら城の中を案内してくれない?」
アイリは彼を見た。
先ほどまでの挑発的な表情とは違う。少しだけ期待しているような、それを悟られたくないような顔だった。
「いいわ。ただし、校則を破るような案内はしないから」
「そんなこと頼んでないだろ」
「あなたの顔に書いてあるわ」
「ひどいな」
シリウスが笑った。
今度の笑い方は、さっきよりもずっと自然だった。
アイリも小さく笑い返した。
その瞬間、彼女は気づかなかった。
シリウスが、服の内側から一瞬だけ黒い封筒を取り出しかけ、すぐにしまったことに。
封筒には、ブラック家の紋章が刻まれていた。
そして、その端には――
誰かが後から書き加えたような、銀色の小さな印があった。
アイリのペンダントと同じ鳥の形をした印が。
列車が走り続けるあいだに、二人の会話は少しずつ増えていった。
シリウスは、ホグワーツのことをいくつも尋ねた。
寮のこと。授業のこと。魔法のこと。
アイリは知っている範囲で答え、知らないことについては素直に「わからない」と言った。
「何でも知っているわけじゃないんだな」
「当たり前でしょう」
「いや、なんとなく、君は何でもできそうに見えたから」
「それは買いかぶりすぎよ」
「そうかな」
シリウスはチョコレートを一つ口に入れた。
「少なくとも、さっきの奴よりはずっと話しやすい」
「それはよかったわ」
アイリが笑うと、シリウスも笑った。
そのとき、通路から二人の少年が顔を出した。
一人は、くしゃくしゃの黒髪をした、いかにも落ち着きのなさそうな少年。
もう一人は、少し柔らかい表情をした、痩せた少年だった。
「シリウス! こんなところにいたのか!」
黒髪の少年が勢いよく入ってきた。
「ジェームズ、声が大きい」
もう一人が苦笑する。
「ごめんごめん。あ、誰?」
ジェームズと呼ばれた少年が、アイリを見た。
「アイリ・エヴァーモントよ。二年生なの」
「僕はジェームズ・ポッター!」
彼は胸を張った。
「こっちはリーマス・ルーピン。僕たち、ホグワーツに入学するんだ!」
「よろしく、アイリ」
リーマスが穏やかに微笑んだ。
「よろしく。あなたたちもグリフィンドールを希望しているの?」
「もちろん!」
ジェームズが即答する。
「僕とシリウスは絶対グリフィンドールだね。リーマスもそうだろ?」
「組分けされる前から決めつけるのはどうかと思うけど」
リーマスは呆れたように言った。
そのやり取りを聞きながら、アイリは思わず笑った。
シリウスも、先ほどまでの緊張が嘘のように、ジェームズの言葉に言い返している。
やがて、もう一人の少年、ピーター・ペティグリューも合流した。
少し遠慮がちだったピーターにも、アイリは気さくに話しかけた。
四人はそれぞれ違う性格をしていた。
ジェームズは自信家で、思いついたことをすぐ口にする。
リーマスは落ち着いていて、人の話をよく聞く。
ピーターは控えめだが、友達の言葉に一生懸命ついていこうとしている。
そしてシリウスは、冗談を言うのが好きなように見えたが、家族の話になると、ときどき表情を曇らせた。
アイリは、その変化に気づいても尋ねなかった。
まだ、出会ったばかりなのだから。
親しくなるには、時間が必要だ。
「ところで、アイリ」
ジェームズが身を乗り出した。
「ホグワーツって、秘密の通路とかあるの?」
「あるかもしれないわね」
「あるんだ!」
「そうとは言っていないでしょう」
「今、あるかもしれないって言った!」
「可能性の話よ」
リーマスが吹き出した。
「ジェームズ、もう少し落ち着いたら?」
「無理だよ。だって、ホグワーツだぞ!」
シリウスも笑っている。
アイリは呆れたように首を振ったが、その表情は柔らかかった。
さっきまで一人だった少年が、今は友達と笑っている。
それを見ると、少しだけ安心した。
やがて、窓の外の景色が変わり始めた。
街並みは遠ざかり、緑の丘と広い草原が続いていく。
ホグワーツへ向かう列車の中で、四人の少年と一人の少女は、初めて同じ時間を過ごしていた。
その出会いが、やがて大きな意味を持つことになるとは、まだ誰も知らない。
けれど、アイリの胸元では、服に隠れた銀色のペンダントが、ほんの一瞬だけ温かくなっていた。
彼女は気づかなかった。
シリウスも、気づかなかった。
ただ、彼の鞄の内側にしまわれた黒い封筒の銀色の印が、列車の揺れに合わせて、かすかに光を反射した。
二つの家に残された秘密は、まだ何も語らない。
けれど、それらは確かに、同じ場所へ向かい始めていた。
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