The Moonlit Grimoire


第3話



9月1日 / ホグワーツ特急からホグワーツへ

SEPTEMBER 1ST / From the Hogwarts Express to Hogwarts




列車の速度が、少しずつ落ち始めた。

窓の外を流れていた緑の丘は、いつの間にか深い森へと変わっている。夕暮れの空には紫色が混じり、遠くの山々の向こうに、最初の星が浮かび始めていた。


「もう着くのか?」

ジェームズが窓に張りつく。

「さっき車掌さんが、そろそろ着くって言っていたよ」

リーマスが答えた。

「ということは、もうすぐホグワーツだ!」
「ジェームズ、窓を開けようとしないで。まだ動いているんだから」

アイリが釘を刺すと、ジェームズは不満そうに振り返った。

「開けようとしてないよ!」
「今、手をかけていたでしょう」
「……景色をよく見ようと思っただけだ」
「はいはい」


向かいの席で、シリウスが声を押し殺して笑った。


「君たち、もう息が合ってるな」
「誰のせいだと思っているの?」
「ジェームズのせいだろ」
「シリウス!」


ジェームズが抗議し、リーマスが苦笑する。ピーターもつられて笑った。



アイリは、四人のやり取りを眺めながら、自分の荷物を確認した。
杖、教科書、羽根ペン、インク。それから、家族から持たされた小さな包み。
忘れ物はない。
胸元のペンダントにも、特に変化はなかった。
先ほど、ほんの一瞬だけ温かくなったように感じた気がする。けれど、今はいつもどおりの冷たい銀の感触しかなかった。
気のせいだったのかもしれない。
そう考えて、アイリはそれ以上気にしないことにした。



列車が大きく揺れ、ゆっくりと停車する。


「到着だ!」

ジェームズが勢いよく立ち上がった。

「だから、押さないでってば!」

アイリは笑いながら、四人と一緒に通路へ出た。
その先には、これから始まる一年が待っていた。




駅のホームに降り立った瞬間、冷たい夜風が頬を撫でた。

汽車の蒸気が白く立ち上り、ランタンの明かりが人々の姿をぼんやりと照らしている。


「一年生はこっちだ! 一年生、集まって!」


遠くから、聞き覚えのある大きな声が響いた。
アイリは声の主を見つけ、思わず笑みを浮かべた。

大柄な男が、ランタンを掲げて一年生たちを誘導している。ホグワーツの生徒なら誰もが知っている、ルビウス・ハグリッドだった。


「一年生はあちらね。私は馬車のほうへ向かうから、ここでお別れよ」

アイリが言うと、ジェームズは露骨に残念そうな顔をした。

「えっ、もう?」
「あなたたちは一年生でしょう。入学式は一年生だけで行くのよ」
「でも、城の案内は?」
「明日以降。約束したでしょう?」
「そうだった!」


ジェームズはすぐに納得したが、シリウスは少しだけアイリを見つめていた。


「アイリ」
「なに?」
「案内、忘れないでよ」
「忘れないわ。あなたたちが迷子にならなければね」
「僕たちは迷子になんかならない」
「さっき列車の中で、ジェームズがトイレの場所を間違えたって言っていたけど?」
「シリウス!」


ジェームズが叫び、ピーターが笑いをこらえる。
シリウスも笑っていた。
アイリはその様子を見てから、四人に手を振った。



「それじゃあ、また後で。入学式、楽しんでね」
「また後で!」



ジェームズが大きく手を振り返す。
リーマスとピーターも続いた。
シリウスは少し遅れて、片手を上げた。


「またな、アイリ」


その声を聞いてから、アイリは馬車の待機場所へと歩き出した。

振り返ると、四人はほかの一年生たちに混じって、ハグリッドのもとへ向かっていた。
彼らの姿が人混みに紛れるまで、アイリは一度だけ足を止めた。

シリウスがホグワーツでどんな一年を過ごすのか、今の彼女にはわからない。
ただ、列車の中で見せた笑顔が、これからも続けばいいと思った。
それだけだった。




城へ向かう馬車の列は、夜の湖畔をゆっくりと進んでいった。
アイリは窓の外を眺めていた。
黒々とした湖面に、ホグワーツの灯りが映っている。


何度見ても、美しい光景だった。
だが、城の正面へ続く道に差しかかったとき、馬車の窓から見えたものに、アイリは目を留めた。



湖畔に立つ石柱。
その表面には、古い紋章が刻まれていた。
馬車が通り過ぎる一瞬、ランタンの光が石の表面を照らす。



翼を広げた鳥。




その形は、エヴァーモント家のペンダントに刻まれたものと、よく似ていた。
アイリは思わず窓に近づいた。




「……今の」
「どうしたの、アイリ?」



隣に座っていた同級生が不思議そうに尋ねた。



「今、あの石柱に紋章があったでしょう?」
「石柱? ああ、あれね。昔からあるものよ。私も詳しくは知らないけれど」
「どんな紋章か、見たことはある?」
「さあ……。暗かったから、よくわからなかったわ」



馬車はそのまま進み、石柱は木々の向こうに消えていった。

アイリは窓から身を離した。
見間違いかもしれない。


鳥の紋章など、魔法使いの家系では珍しくない。
父からも、似たものがあるだけで同じだと決めつけないように言われていた。


それでも、気になった。

あの石柱は、なぜあの場所にあるのだろう。
ホグワーツの敷地に、エヴァーモント家と関係するものが残されているのだろうか。


アイリは、確かめたいことをひとつ、心の中に加えた。
今はまだ、何も決めつけない。
ただ、忘れないようにしておこう。





大広間に入ると、天井には夜空が広がっていた。
無数の星が瞬き、長いテーブルには食事の準備が整えられている。
二年生以上の生徒たちのざわめきが、大広間を満たしていた。


アイリはグリフィンドールのテーブルに向かい、空いている席に腰を下ろした。



すぐに、隣の生徒が話しかけてきた。


「今年の一年生、ずいぶん賑やかそうね」
「そうなの?」
「駅から来るときに見たの。黒髪の子が、もう大声で何か話していたわ」



アイリは思わず笑った。




「たぶん、ジェームズね」
「知っているの?」
「列車で一緒だったの。シリウスと、リーマスと、ピーターも」
「もう友達になったの?」
「友達というか……知り合ったばかりよ」




そう答えながら、アイリは一年生たちが入場してくる扉を見た。



やがて、マクゴナガル先生が一年生たちを率いて大広間に入ってきた。

ジェームズは周囲をきょろきょろと見回し、シリウスに何か話しかけている。リーマスは落ち着いていたが、初めて見る大広間に目を奪われているようだった。ピーターは少し緊張した面持ちで、前を歩いていた。


アイリは小さく手を振った。
ジェームズがすぐに気づき、嬉しそうに振り返す。
シリウスもこちらを見つけた。
その瞬間、彼の表情が少し和らいだ。
アイリは、それを見て安心した。



やがて組分けが始まった。
名前が呼ばれ、一人ずつ組分け帽子をかぶっていく。






そして――。
「ブラック、シリウス!」
大広間の空気が、ほんの少し変わった。
古い純血の家系であるブラック家の名前は、魔法界で知られている。周囲の視線が集まるのも無理はなかった。
シリウスは一瞬だけ顔を上げた。
それから、まっすぐに椅子へ向かい、帽子をかぶった。




アイリは黙って見守った。

数秒の沈黙のあと。






「グリフィンドール!」







歓声が上がった。
ジェームズが誰よりも大きく拍手をし、シリウスは帽子を脱いで立ち上がった。


その顔には、驚きと、隠しきれない喜びが浮かんでいた。


彼はグリフィンドールのテーブルへ向かい、アイリの姿を見つけると、ほんの少しだけ口元を上げた。


アイリは、彼に聞こえるように小さく言った。

「グリフィンドールへようこそ」

シリウスは一瞬、何か言おうとして、やめた。
代わりに、短く答えた。

「……ありがとう」

その声は、いつもの軽口よりもずっと静かだった。
彼が席に着くと、ジェームズが隣に飛び込んできた。



「やったな、シリウス!」
「うるさい、ジェームズ」
「だってグリフィンドールだぞ!」
「聞こえてるよ」



リーマスもグリフィンドールに組分けされ、ピーターも続いた。
四人が同じテーブルに並んだのを見て、アイリは微笑んだ。


少なくとも今夜は、彼らが望んでいた場所にたどり着けたのだ。







夕食が始まると、大広間は一気に賑やかになった。
ジェームズは目の前に並んだ料理を見て、感嘆の声を上げている。


「これ、全部食べていいのか?」
「もちろんよ」


アイリが答えると、ピーターが少し遠慮がちに皿を取った。


「こんなにたくさんあるんだね……」
「ホグワーツの食事はおいしいわよ。授業が始まると、楽しみのひとつになると思う」



リーマスはスープを口に運びながら、周囲を観察していた。
「寮ごとにテーブルが分かれているんだね。先生たちはあそこか」
「そう。あちらが教授席よ」


アイリは簡単に説明した。

その間も、シリウスは何度か大広間の扉へ視線を向けていた。
アイリは気づいたが、尋ねなかった。


新しい環境に慣れないのは、誰にでもあることだ。
それに、彼には彼の事情があるのだろう。
夕食の終わりが近づいた頃、ダンブルドア校長が立ち上がり、新学期の挨拶を始めた。

アイリは静かに話を聞いていた。
けれど、校長が今年の学校生活について語ったあと、ふと続けた一言に、彼女は顔を上げた。



「なお、城内の一部には、現在調査中の古い魔法の設備があります。生徒の皆さんは、立ち入りを制限されている場所には決して近づかないように」


大広間が少しざわついた。



ジェームズが小声で言った。

「古い魔法の設備だってさ」
「聞こえていたよ」

リーマスが答える。

「でも、調査中なら近づかないほうがいい」
「もちろん、勝手には行かないさ」

ジェームズはそう言ったが、目がきらきらしていた。
アイリは思わず釘を刺した。

「ジェームズ。今の話、聞いていたわよね?」
「聞いていたよ!」
「なら、余計なことはしないこと」
「まだ何もしてないだろ!」
「これから何かするつもりの顔をしていたからよ」

シリウスが吹き出した。

「アイリ、君はジェームズの扱いがうまいな」
「あなたも同じことをしそうだから、先に言っておくわ」
「僕はジェームズほど無鉄砲じゃない」
「そうかしら?」

シリウスは口を開きかけ、結局笑ってごまかした。
アイリも笑ったが、校長の言葉は気になっていた。



古い魔法の設備。
調査中。
そして、湖畔の石柱に刻まれた、あの銀の鳥の紋章。

関係があるとは限らない。


けれど、もし関係があるのなら――。




アイリは、今度こそ確かめる価値があると思った。







夕食後、グリフィンドールの生徒たちは寮へ向かい始めた。

一年生たちは監督生に案内され、上級生たちもそれぞれの部屋へ戻っていく。


アイリは四人と別れる前に、明日の予定を簡単に伝えた。



「朝食のあと、時間があれば城の中を案内するわ。授業が始まる前に、よく使う場所を覚えておくといいから」
「約束だぞ!」

ジェームズが念を押す。

「はいはい。忘れないわ」
リーマスが微笑んだ。
「ありがとう、アイリ。助かるよ」


ピーターも小さく頷いた。
シリウスは、少しだけ言葉を探すようにしてから口を開いた。


「……今日、会えてよかった」

アイリは意外そうに彼を見た。

「私もよ。列車で一人でいるより、ずっと楽しかったわ」
「そっか」


シリウスは視線をそらした。



「じゃあ、また明日」
「ええ。また明日」



アイリは四人に手を振り、女子寮へ向かった。



部屋に戻ると、トランクを開けて制服や教科書を整理した。


それから、窓際に座って、胸元のペンダントを取り出した。
銀色の鳥は、静かに月明かりを反射している。

アイリは、今日見たものを思い返した。




湖畔の石柱。
校長の言葉。
そして、父が見せてくれた古い本の一文。



――守る力は、血によって受け継がれる。しかし、その目覚めを決めるのは血だけではない。



偶然が重なっているだけかもしれない。
それでも、明日からは注意して見ておこう。

学校の中に、家の紋章と似たものが残されているのなら、何か記録が見つかる可能性もある。

アイリはペンダントを服の内側に戻した。



そのとき、廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえた。

続いて、扉を叩く音。


「エヴァーモント? 起きていますか?」



アディの声ではない。
聞き覚えのない、落ち着いた女性の声だった。



「……はい?」
「マクゴナガルです。少し話があります。扉を開けてもらえるかしら」


アイリは驚いて立ち上がった。
マクゴナガル先生が、なぜこの時間に自分を訪ねてくるのだろう。

扉を開けると、教授はいつもどおり厳格な表情で立っていた。


「突然ごめんなさいね、エヴァーモント。あなたに確認したいことがあるの」
「私に、ですか?」
「ええ。今日、湖畔の石柱を見たかしら?」



アイリは息をのんだ。





「……はい」



教授の表情が、ほんのわずかに変わった。



「やはり、気づいたのね」
「先生、あの紋章は……」
「今はまだ、私から詳しく話すことはできないわ。ただ、ひとつだけ覚えておいてちょうだい」




マクゴナガル教授は、アイリの目をまっすぐ見た。



「もし、城の中であなたの家の紋章とよく似たものを見つけても、ひとりで調べに行かないこと。必ず、私か校長に知らせなさい」


アイリの胸が、どくんと鳴った。


先生は、あの紋章がエヴァーモント家と関係している可能性を知っている。
それも、ただの偶然として片づけてはいない。


「……わかりました」


アイリは答えた。


「ありがとうございます、先生」


マクゴナガルは短く頷いた。



「明日から授業が始まります。今夜はもう休みなさい」



そう言って、教授は廊下を歩き去っていった。
扉を閉めたあと、アイリはしばらくその場に立ち尽くしていた。


今日一日で、疑問が増えた。
けれど、初めて、疑問の向こう側に誰かの知識があるとわかった。



父だけではない。
ホグワーツにも、この紋章を知っている人がいる。
アイリは窓辺へ戻り、月明かりの中でペンダントを見つめた。



今度こそ、見間違いではない。
この城には、エヴァーモント家の秘密につながる何かが残されている。
そして、それを知っている人たちは、まだすべてを語ろうとはしていなかった。


アイリはペンダントを握りしめた。
怖くないと言えば嘘になる。




けれど、何も知らないままでいるつもりもなかった。







自分に関わることなら、自分の目で確かめたい。
その決意だけは、揺らがなかった。

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