七 日陰の脈々
「アーッ!! クソがあ! なんでココに来てまで珠世さんの刀振ってんだ! なんでだ馬鹿野郎!」
「ウッフフフフ! たとえお前に何度頸を斬られたってなーんにも怖くない、あーあーあ! 可哀想な女だなあ!」
「こっちだってなんにも怖くねえよ! ばーか!」
「ああ!? 馬鹿って言った方が馬鹿なんだよ! クソバカ女ァ!」
「はあー!?」
曇天の下、藤襲山の山中に女のやや掠れ気味な絶叫と男の楽しそうな笑い声が響く。
……あれ、なんで私、鬼と低レベルな罵り合いしてるんだろう。しっかりしてよ22歳。
我に返ったひさごが目前に迫っていた手をハッと咄嗟に条件反射で切り落とすと、また次から次へと畳み掛けるように薄緑の巨大な手が異形の腕を伸ばして迫ってきた。
素早く横へ体を逸らして攻撃を避け、着物がはだけるのも構わずに背後にそびえる木をするすると駆け上がって枝の上に逃げ延びた。小枝や葉が笠に当たってガサガサと音を立てる。Uターンをして背後から襲いかかってくる腕もまたその場でひょいと跳んで避け、そこに生い茂る小枝ごと腕を切り落とした。
時間にしておよそ十秒にも満たない攻防だったが、ひさごにはまだ一切傷がついていない。
じっと枝の上にしゃがんで鬼の出方を待っていると、鬼は短い足をダンダンと踏み鳴らしてうめき声を上げた。どうやらひさごを捕まえられない事に随分と腹を立てているらしい。
「はーやーくーっ、死ねえ!」
鬼が駄々をこねる子供のように叫ぶ。巨体がぶくぶくと盛り上がり、いくつもの太い腕が皮膚を突き破って現れた。
攻撃が来る。
笠の下で澱んだ目を鋭く澄ましたひさごは浅く呼吸を整えて、枝から飛び降りた。周囲の木々を足場に飛び移りながら腕の追尾を振りきり、巨大な鬼の背後めがけて高く跳び、頭部めがけて刀を振りかぶる。
「っ!?」
慌てて振り返った鬼の目には、ひさごの振るう刀に乳白色の霞が纏わりつくようにぶわりと噴き出して見えた。それは剣士達が使う"呼吸"の合図だ。何人も剣士の候補達を相手取ってきた鬼には分かっていた。
しかも、ひさごの使う呼吸はあの鱗滝の使う呼吸と似ている。鬼はそれに"水の呼吸"と名が付いている事を知らない。けれども慶応の頃、自分を生け捕りにしたあの鱗滝左近次が水の流れを思わせるような剣術を扱っていたのは強烈に覚えていた。
掴むことのできない水のようにしなやかで、かと思えば突然水鉄砲のように鋭く襲いかかり、気付けばもう避けられないところまで追い詰められている。
既に酒を飲んでいるひさごの速度に鬼の腕はついていけない。素早い横一閃の斬撃に手に覆われた目元をぎゅっと細めた。だが、それに命の危険は感じない。何故ならひさごが今振るっている刀は日輪刀ではないからだ。もう既に何度も首を落とされている。
ザブッと水気を含んだ肉塊を切り落とす音が森一体に響き、頭部を覆っていた腕ごとゴトンと頭部が地面に落ちる。
ひさごは地面に着地すると再び地を蹴り、円を描くようにぐるりに鬼の周りを駆けた。頸の再生が始まる前に巨体を支える四本の短い足を全て切り落とし、ぐらりと傾く胴体を駆け上がって複数の腕を根元から落とす。柔らかく白濁した霞と共に、今度は極彩色の長い尾を持つ鳥が刃筋に沿ってするすると泳ぐように飛んでいった。
鬼はその幻覚の毒々しさと、動きを封じられた動揺に思わず目が眩んだ。
「な、あ…! だっ、でも、どうせすぐ再生してやるっ、フフ! どうせお前は……」
「あ!? いつまでも付き合ってられるかクソボケ! 今日は試験最終日なんだよ! じゃあな手まみれマン! 来年死ね!」
まるで今現在どこかの山を駆けずり回っているであろう猪頭の少年のように口汚い罵倒を吐き捨て、ひさごは納刀するやいなや高笑いを上げてまっすぐに山を駆け下り始めた。被っている編笠が木の枝を突き破って藁が解れても構わない。飲酒と離人症状により気分がハイになっていた。
鬼はまだ気づいていないようだが、そろそろ日の出の頃だ。毎晩のように徹夜を重ねていると、もう時計や空の色を確認しなくてもだいたいの時刻を把握できるようになっていた。なるべく朝日の近い東側を迂回するように走る。
すると程なくして、再生を終えた鬼が楽しそうに大声を上げながらひさごの背を追いかけてきた。
「まだまだあ!もっと遊ぼうじゃないかぁ!」
肩のあたりが肉の芽のように膨らみ、ひさごに向かって長い腕が4本、勢いよく伸びる。そのうちの一本があともう少しでひさごの首筋を掠めそうだった。
「…! ぐっ」
そのとき、鬼の鼻が強烈な藤の匂いを嗅ぎ当て、本能から急に体が動かなくなった。もう麓まで来てしまったようだ。
だが、かろうじて鬼の手が届く方が速かった。ひさごの被っている笠を指先で摘み、力強く掴む。ひさごは笠の結び紐に首を引っ張られる感触にギョッとした表情を浮かべ、目線を後ろへやり、一度納めた日本刀を再び抜刀した。
鬼はひさごに向かって吠える。
「逃げるのか!? 卑怯者!」
「引きこもって食い漁ってるだけの百貫デブに言われたくねえ!」
珠世さんから貰った笠だが、仕方ない。笠をつまむ指から更に手が生える前に離れなければ。刀を縦に構え、鬼が掴む笠の端をザッと小気味いい音を立てて切り落とした。
藤に囲まれた広場はすぐそこだ。ひさごは藁をつまんだまま行き場をなくした腕を刀で撥ね飛ばし、遠くで悔しそうに睨みつけている鬼に刃先を突きつけてギッと睨み返した。
「もし私が使っているのが日輪刀だったらお前は何度も死んでる! せいぜいあと一年生きられることを幸運に思えよ!」
「…!」
鬼は、踵を返したひさごの背を、頭上から垂れる藤の花を掻き分けて奥へ奥へと走っていく姿を見送った。格好は悪かったが、まあ確かにそのとおりで、何も言い返せなかった。
あの女は刀を投げ捨てて逃げた子供を俺から庇い、持っていた日輪刀を渡して逃し、自分はただの刀を持って3日もぶっ通しで戦い続けた。濃い曇り空が続いたせいで、一度も陽の光が指さなかったのだ。
意味が分からない。並の人間があそこまで動ける意味が分からなかった。何故あそこまでの強さを持つ人間がこの最終選別に居たのだろうか。
「……あの女…」
それにさっき、切り落とした笠のつばの下からちらと見えた女の顔。どこかで見覚えがあった。たしかずっと昔、鱗滝に捕まる前、確かにあの顔を見た。……当時は今よりももっと無口だったうえ、笠が妙に濃い影を作っていたせいでよく顔が見えなかったから分からなかったのだが……。
「……まあいい」
どうせ、自分は何をしたってこの山から出ることはできない。あの藤の花は強烈で、香りをひとたび嗅げばもうその場から動けなくなってしまう。山から出られないのならば、来年こそは鱗滝左近次の弟子が入山してくるのをせめて楽しみにしていよう。あの女のように強い人間は今後現れないだろうから、もう頸は斬られまい。
なんたって俺はずっとここにいるのだから。ああ、鱗滝の弟子を食うのが楽しみだ。