六 明星の当て
最後に山奥へ入ったひさごは、完全に出遅れてしまったと後悔した。
彼女が抜き身の日輪刀を手にそこへたどり着くと、すでに食い散らかされた子供の"かけら"と服が散乱していた。そしてさほど遠くない場所に、巨大な背丈が小刻みに蠢き、生肉をぴちゃぴちゃと叩くような生々しい音が響いている。
もしかして、この服を着ていた子が先程悲鳴を上げた声の主だったのだろうか。ひさごは鼻筋をくしゃりと顰めた。もっと早く来ていれば助けられたかもしれないのに。
今やるべきなのは目の前にいる鬼を殺すことだ。こちらに背を向けてモチャモチャとなにかを咀嚼している巨大な背に狙いを定めると、ひさごは肺に大きく息を貯めて地面を蹴った。この鬼に隙はある。酒を飲まなくても倒せる。
「ん?」
口元を真っ赤に染めた鬼が人の気配に気づき、おかっぱの黒髪をさらりと靡かせて後ろを振り向く。誰もいない。既にひさごは高く跳躍し、首をめがけて大きく横へ刀を振りかぶっていた。大きな鉤爪を生やした腕を振るうにはもう遅い。
きょとんと目を丸くする鬼が上空の気配に気づき、ハッと目線を上げた視界に映ったのはすでに間近に迫った女の澱んだ双眸と黒い一閃。刃先の流れに沿って、乳白色の霞と目が眩むような七色の吹き流しが泳いでいった。そして遠く遠くに見えるぼやけた月が、ぐるりと回転して、頭がゴツンとなにかにぶつかる。
「…おっ、本当に首斬るだけでいいんだ」
女の嬉しそうな声が鬼の耳に届く頃には、既に首は地面へ転がり落ちていた。
鬼は呆然とした表情で目を動かし、自分の首を刎ねた人間を見上げた。そこにいるのはボロボロの着物を着て笠を被った女。ボサボサの茶色の髪。今までこの山に入ってきた子供達とは違う、大人の人間だった。
「大人……」
「そうだよ。おかげで目立って仕方ないよ」
ひさごは地面に落ちていた遺体の羽織と服を拾い上げ、自分の荷物を入れていた背嚢に詰め込んだ。最終日まで生き残っていれば、この服を彼の師匠のもとへ返せるかもしれない。
「じゃあね」
「…待っ……」
擦り切れた羽織をひるがえし、結びあげた一房の髪をなびかせてひさごが踵を返す。地面にぺたりと座り込んでいた鬼の体は無意識に彼女の背中に手を伸ばした。しかし当然無視される。段々背中が遠くなっていった。
体がゆっくりと崩れ落ちていくなかで、鬼は口の中に残った人肉の味を手持ち無沙汰気味に噛み締めた。…美味い。子供の肉は柔らかくて美味い。もっと食いたかった。あの女の肉も……。
違う。
「おー…おおい…待ってくれ……」
大口を開けた鬼の口からぼろりと唾液まみれの肉片がこぼれ落ちる。
死を間近に感じ取ったせいだろうか、人間だった頃の記憶がだんだんと戻ってきていた。
違う。違う。本当は、本当は人の肉ではなくて、米が食べたかった。生まれ落ちた瞬間から、最後の最後までひもじい思いをして死にかけていたのだ。山に捨て置かれて、最後まで親が迎えにくるのを待っていた。結局やってきたのはあの人で、おれは鬼になった。
あのひとが「鬼になれば腹いっぱい飯を食える」と言ったから、おれは鬼になった。
「……む…さま…」
鬼の瞼の裏には誰も映っていなかった。じんわりと目尻に浮かんだ涙が、灰に混じって溶け崩れていった。
- - -
選抜開始から数日が過ぎる頃には、ひさごが鬼を殺した数はもう指折りでは数え切れなくなっていた。
同時に参加者の子供達を助けられなかった回数もどんどん増えていき、まさに悲鳴を上げながら食われている瞬間に出くわしたこともあった。辛うじて助け出せた四肢の千切れた子を抱えてもう一度藤の花が咲き誇る広場に戻ったものの、そこには誰もおらず、応急処置をしながら助けを呼んでいるうちに結局その子は息絶えていた。
「もっと早くそこに駆けつけていれば助けられたのに」という後悔と、「子供を食う前に会敵していればもっと楽に鬼を殺せたのに」という痛惜。ひさごの心は少し荒んでいた。
「デッド・オア・アライブな最終選抜ってなんなん…? あんな中学生ぐらいの子供達が……厳しすぎない…? せめてドロップアウトくらいさせてやって欲しい……かわいそう……ハンター試験みたいに隠れて見守るとかさあ…」
大正時代に来てからというもの、会話で横文字が通じたことが無い。自然と独り言のときだけはカタカナの外来語が頻繁に出てくるようになった。そもそもハンター試験なんて大正時代では通じないに決まっている。あの漫画家もさすがに100年以上も休載はしていない。
ぶちぶちと愚痴を零しながら採取した木の実を川辺で齧っていると、少し離れた場所に人の気配を感じた。いつでも刀を抜けるよう膝をたて、慌てて苔桃っぽい果物を口いっぱいに頬張って待ち構える。
すると、対岸から息を切らした黒髪の少年がこちらへ走ってくるのが見えた。首に巻かれた紐がすぐ目に留まる。
「(あー、あの時ぶつかってきた子……)」
向こうもひさごの存在に気づき、もぐもぐと口を動かしている彼女を見つけると一瞬だけほっとしたような顔を浮かべた。しかし、やはりどこか尖った性格が邪魔をするようで、再びひさごに向かって悪態をつきはじめた。息を切らしているため全く凄みは無かった。
「はーっ……お前かよ……まだ生きて…はあ…やがったのか……くそ…」
「君のこと、つくづく初日からクソガキだと思ってるけど、そうやって他人に強く当たるのやめたほうがいいよ。なあに? 向こうに強い鬼がいたの?」
「誰がクソガキだババア! ……、…別にあんな鬼、強いわけじゃ…俺なら楽勝……っまあ、"餌"がいるからこっちにゃ来ねえだろうがな、ハ!」
少年はニタリと悪どい笑顔を浮かべた。「餌」が指し示すものが何なのかは、流石に嫌でも理解できる。
ひさごは顔を顰めて即座に立ち上がると、川を跳躍で飛び越え、少年が走ってきた方角へ走り出した。しかし少年がすれ違いざまにそれを「おい!」と制止する。
「お前、初日っからずっと他のガキ共助けてばっかだよな。んな意味がねー事やって何になる? 結局誰も助けられてねえだろうが」
「は? 知ってたならなんで助けなかったの?」
どうやらこの少年はひさごの行動を隠れて見ていたらしい。
まさか自分が監視されていたとは思わず、先程の独り言で零した「ハンター試験」のくだりを思わず思い出した。
少年が不快そうに怒鳴る。
「どうせ弱え奴は何回助けても勝手にくたばるだろうが。気にするだけ無駄なんだよ! ここじゃ強え奴しか生き残れねーんだから!」
こうやって会話している間にも、この少年の言う"餌"はどこかで殺されているかもしれない。それを放っておけるはずがないし、わざわざ放っておけばいいと言う人間には良い感情が浮かばない。
少しばかり気が立っていたせいか、咄嗟にひさごの言葉は少し刺々しい響きになった。
「……いや、今4日目だし、ここで助かればなんとか生き延びられるかも……っていうか、そんなの君に関係ないじゃん。そうやって自分のことだけ考えてれば? 君は強いからどうせ生き残れるよ」
「!? は……」
「じゃあ、また7日目に会えたらいいね!」
少年はその言葉にショックを受けたようで一瞬言葉を失ったが、怒りで顔を赤くして「バカにしてんのか!」と声を荒げた時には、既にひさごの姿は無かった。
微かに酒精のつんとした残り香が、少年、獪岳の鼻を掠めた。
「……なんで酒の匂い……」