顔の見えない同期1


 藤襲山での最終選抜が始まり、四日目の夕暮れのことだ。
 炭治郎が疲れの抜けきらない体を川辺で休め、顔を洗っていると、ふと線香の匂いが俯く彼の鼻を掠めた。
 鱗滝左近次の家でも時折こんな匂いを嗅ぐことがあった。まるで名家の人間が使うような、品の良い白檀の香りだ。どこから香ってくるのだろうと思いながら、次の香りを求めて無意識に深く息を吸い込みかけたところでハッと我に返った。

「(鬼の罠かもしれない!)」

 禰豆子を人間に戻すための手がかりを聞き出すため、鬼を探してこの山を駆け回ったが、一度もこんな匂いを嗅いだことはなかった。
 新手の鬼が人間をおびき寄せるために匂いを発しているかもしれない。
 濡れたままの顔から雫が滴るのも構わず、いつでも刀を抜ける態勢で立ち上がると、匂いの発信源はすぐ視界に入った。驚いたことに、真正面に立っていたのだ。
 炭治郎はぎょっと目を丸くし、思わず後退りした。
 川の向こう岸の砂利道に、山折りの編笠を顔を隠すように被った着物姿の少女がいる。
 背丈は炭治郎と同じぐらいだろうか。着物が女性物であることと、笠に隠れた頭から黒髪のおさげが胸元にかけて垂れていることでかろうじて性別の見分けがついた。
 あまりにも存在感が無いので、まるで突然現れたように見えた。

「き、君は…誰だろう? 最終選別の参加者かい?」

 そういえば、いつか同じような言葉を誰かに問いかけた気がする。
 炭治郎が戸惑いがちに聞くと、少女は笠のなかに白い手を差し込み、ぺたりと頬に触れた。

「私が鬼に見える?」
「……あっ、ごめん! そういう訳ではないんだけれど、初めて見たから驚いてしまって」
「……。私、影が薄いから気づかれることが少ないんだ。きっと驚かせたでしょう、ごめんね」

 影が薄いから気付かなかった?
 果たしてそうだろうか。こんなにも強い線香の香りを嗅ぎ逃すことが、よりによって炭治郎にありえるだろうか。
 しかし現に彼女は目の前に立っている。それも、しっかりと人間の匂いもする。
 彼は無理やりに自分を納得させた。きっと初日は藤が強く香っていたから、それに白檀の香りが隠れてしまっていたんだ。影が薄いというなら、その明らかに目立つ笠が視界に入らなかったのもそのせいだったのだろう。

 彼女の声は、年の近そうな禰豆子よりもまるで父を彷彿とさせる穏やかな声色だった。病床に伏せる生気のない父のか細い声に似ていた。
 川越しに名前を尋ねると、少女は榊シデと名乗った。

「シデ、こっちにおいでよ。さっき苔桃を沢山摘んだから、もしお腹が空いているなら一緒に食べよう」
「いいの?」
「もちろん!」
「……ありがとう」

 炭治郎が持ち前の親切を発揮すると、シデはかろうじて見える口元を綻ばせた。
 端切れを縫い合わせて作られた羽織をなびかせ、軽々と川を飛び越えると、背中に背負っていたらしい刀の背負紐をいそいそと整える。その動作が途端に人間くさく見えて、炭治郎は内心安堵した。

 鬼に見つからないように岩陰に隠れ、一緒に苔桃を食べる頃には、最初に感じた違和感は既に無くなっていた。
 浮世離れしたその姿と雰囲気に、彼は幽霊を見たかもしれないとさえ思ったのだ。
 苔桃が笠の中に吸い込まれていく様子を見つめていると、炭治郎はようやく思い出して「あっ」と声を上げた。

「どうかしたの」
「……なんでもない、この間会った友達のことを思い出したんだ」
「そっか」

 彼女は真菰と父に似ていた。