少女の俯瞰
蘭が部活中に手首を捻挫したというので、しばらく家事をコナンと小五郎が中心で行うことになった。
その日の夕飯作りはコナンと蘭が担当することになったらしく、台所には二人の背中が並んでいる。椅子にのぼったコナンがフライパンで炒めものをして、蘭はその様子を見守りながら簡単な和え物を作っている。
すると、二人の話題は自然と蘭が受診した病院のことになった。
「そういえば、今お父さんがお手伝いしてる事件の…扇屋ユヅルさん、私が行った病院に入院してたみたい。ちょっとお話したよ。コナンくんも確か会ってきたんだっけ?」
「え!? そ、そうなんだ……」
新一は蘭の交友関係に特別詳しくない。ただ、小学生のころ、二人が何かをきっかけに仲良くなり、そして中学生のころに何かがあって交流が無くなったことだけは知っている。
たまたま学校帰りに肩を並べて歩いているのを見かけたことがあるが、あのときの二人の横顔は楽しそうな笑顔だった。
コナンは意を決して蘭に質問した。
「ね、ねえ…蘭姉ちゃんとユヅルさんって昔は仲が良かったんだよね? おじさんから聞いたんだけど……」
「ええ? そうだけど…」
「ある時から仲が悪くなったのは、どうしてなの?」
「……うーん、悪くなったわけじゃないの。多分、あのときのユヅルちゃんが色々考えた結果なんだろうなって」
「…どういうこと?」
詳細を知りたがるコナンに対して、少し困った顔で「本当に聞きたい?」と何度か念押した結果、ようやく蘭は口を開いた。
中学2年生のとき、ユヅルは上級生の男子から告白されたことがきっかけで、その男子のことが好きな女子生徒を筆頭とする数名の上級生からいじめられていたらしい。
彼女たちは立場を利用して、ユヅルの同級生である部活の後輩たちに悪い噂を流して悪印象を植え付けた。そして無視されたり、なじられたりする状況を作り出した。
どんなときもサッカーとホームズに夢中だった新一は、自分の学年でいじめが起きているとは全く知らなかった。
ただ、今になって感じるのは、金持ちの子供によくそんな事ができるな……という無鉄砲な上級生たちへの呆れだ。
そんななか、蘭や園子はユヅルのことを思って上級生がいる教室に乗りこみ、教師たちがいる前で直接文句を言う計画を立てていたが、ある日を境にユヅルは蘭達への態度を急に変えてしまった。
その他大勢の同級生として接するようになり、今までの仲の良さを忘れてしまったかのように他人行儀になった。
小学生相手にディープな話をしている手前、慎重に言葉を選びながらゆっくり話す蘭に、コナンはその静かな横顔をじっと眺めていた。
いじめを受けている生徒が友人を巻き込まないよう、わざと突き放すという行動は並大抵の勇気がなければ出来ないことだろう。
「……それは、蘭姉ちゃん達が巻き込まれないようにするため?」
「本人は何も言ってくれなかったけど、ちょうどその時、私たちも同級生達との雰囲気がピリピリし始めてたから……、私達に標的が向かなくなったのは事実よ。ただ、園子は何も言わずに離れていった事にとにかく怒っちゃったし、私もショックで。『それじゃあお望み通りにしてあげるわよ!』って、そこから私も園子も交流が無くなっちゃったの」
自分たちを頼らず、勝手に距離をとった友人へ激怒するとは。たしかに義理堅く血気盛んな園子が言いそうなセリフだ。ただ、それを語る蘭の表情から読み取れるように、彼女はその事をずっと後悔しているようだ。
ユヅルの両親が亡くなったことは知っていたものの、その後資産家として有名な祖父が亡くなったことで一気に重責を背負うことになった。そしてつい先日起きてしまった誘拐事件に、ユヅルのことをずっと気にかけていた。
「本当はあのとき、無理やりにでも友達を続ければよかった……。今日ね、病院でユヅルちゃんに会ったときそれを謝ろうと思ったんだ。でも、ユヅルちゃんはもう忘れてしまっていたから、じゃあ改めて友達になろうってお願いしてきたの」
「そっか…。園子姉ちゃんもきっと同じことを考えているんじゃない?」
「……うん。園子ね、ずっと意地張ってて興味ないふりしてるんだけど、お父さんにしょっちゅう連絡して事件のことを急かしてるみたい」
「へ、へー……」
そうこう話しているうちに、コナンが作っている野菜炒めは随分くったりとして火が通ってきていた。
「ねえ、蘭姉ちゃん。野菜炒めってこれくらいで良い?」
「あ! そうね、じゃあ仕上げは私がやるから、コナン君はご飯をよそってくれる?」
「うん!」
夕飯の支度をして、毛利家と食卓を囲み、そこから後片付けや風呂を終えて。
その間、"中学生のころ、急に他人行儀になった扇屋ユヅル"のことがコナンの頭のすみに引っかかっていた。しかし間もなく、その違和感の正体は予想外の形で明かされる。
放課後、灰原哀に「耳に入れておいてほしい事があるの」と阿笠博士の自宅へ呼ばれたコナンはリビングのソファに腰掛けていた。
「で、その用事ってのは?」
「…この男について」
テーブルを挟んだ向かい側で厳しい表情を浮かべる灰原が、スッとコピー用紙をテーブルの上を滑らせる。
それに印刷されているのは英語で書かれたニュース記事だった。科学者らしき男の写真も載っている。大学内で発行された広報記事のようだ。
しばらく文章を目で追いかけたコナンは、その男の名字が扇屋であることに気づいた。
「これは……扇屋ユヅルの叔父?」
「ええ。調べるうちに思い出したけれど、彼、おそらく組織の研究者よ」
「なにっ!?」
腕を組み、声をひそめる灰原に対して、目を大きく見開いたコナンが思わず声を上げる。
同級生の親族に組織の関係者がいた事に驚いた。
そして、扇屋ユヅルの誘拐事件が起きてからもう二週間近く経っているというのに、その間、かつて組織の内部にいた灰原がこの情報を知らなかった事実も更に驚きだ。
非難めいた視線を送るコナンに、灰原は肩をすくめた。
「なんで分からなかったの?って顔してるわね……。自分が参加しているプロジェクト以外の話はあまり聞かされないの。
それに彼のコードネームはレッドアイ、カクテルよ。それを聞けば、組織内の地位が高くないって理解できるんじゃないかしら」
コナンは、そういえば…と思い出す。
アポトキシンについて開発していた宮野志保はシェリーと呼ばれていた。組織の重要人物には酒の名前のコードネームが与えられることは彼も知っている事実だ。
たしかにそう考えると、宮野志保と扇屋の接点はあまり無かったのかもしれない。
レッドアイがどのようなカクテルだったか、コナンは脳内の知識を探し当てる。
「レッドアイ……、ビールとトマトジュースのカクテルか。何を研究していたかは覚えてるか?」
「名称までは知らないけれど、記憶喪失を誘発させる薬品の製造研究を担当していたわ。海外に拠点を移してからは成果が上がったみたいで、私も何度か評判を聞くことがあった」
「記憶喪失を誘発…」
コナンの脳裏にピン、と細い糸が張るような衝撃が走った。
記憶喪失を誘発させる薬品とはおそらく、組織に関わった人間の後始末をするために研究されているものだろう。
その薬品開発に携わる男の姪が誘拐事件に遭って記憶喪失になったというのは、いささか都合が良すぎる。
それをあらかじめ察していた灰原がそっと囁いた。
「彼女、自分の叔父に薬を飲まされて記憶喪失に…」
「いや、それだけじゃない」
コナンは、昨日蘭とかわした会話の中にも組織との関係性を見出していた。
「蘭に聞いたんだが、中学生のとき、友人だった蘭を彼女が急に無視する出来事があったらしい。
同級生たちのいじめに抵抗できるほど強くない彼女が、急に友人を強く突き放して自ら孤立無縁になる状況に違和感があった。薬の効果を実際に確かめるために、中学生の頃から利用されていたとしたら……」
「……それって今から3年前? だとしたら、そうね…彼がちょうど試作品の開発に成功した時期に当てはまる。でも、開発者が実験段階の薬を外部の人間に投与することは禁止されているのよ」
そのことが外部に漏れると、組織がどのような研究をしているかバレてしまうためだ。
そのため一定の検証段階まで進んだ試作品のみ、実行部隊の者が使っても良いとされる。アポトキシン4869を所持していたジンのように。
「なるほど、成果を上げることに焦った扇屋は組織の禁忌を破り、身内を実験台にした。そして今回、それを帳消しにするために誘拐事件を起こさせて、完全な記憶喪失を起こさせた……」
口元に手をあてて推理を整理するコナンに、何かを思いついた灰原は腕を抱きしめてぶるりと身を震わせた。よく見ると、額にうっすらと冷や汗が滲んでいる。
それに気づいたコナンはいったん思考を中断した。
「どうした、灰原? 顔色が悪いぞ」
「……この男が自分の身内に薬を投与していたこと、組織は最初から気づいていた筈よ。見逃すような奴らじゃないもの。たとえ記憶が消えたとしても、一定の成果を確認できたら…外に放たれたラットは殺処分に限るわね」
「何言ってんだ、おい…」
「彼女、このままだと始末されるかもね」
灰原は決して「この子を今すぐ助けに行ってあげて」とは言わない。そうすることで最悪の場合、江戸川コナンという存在が組織に狙われると知っているからだ。
ただ、ここで引き下がるような男ではないと理解している。ゆえに、どうする?と目を細めて言葉を促す。自分がこの男を引き止めて、聞き入れてもらえた事となど一度もないのだ。
予想した通り、コナンはテーブルの上で笑顔を浮かべている男の写真をトン、と指差して、険しい顔で灰原に指示を出した。
「灰原、この男が何処にいるか探ることってできるか? 数日前に面会に来ていたから、始末を企んでいるならまだ国内にいるはずだ。俺は彼女の靴に張っておいた発信機を追って、病院から出ないように見張っておく」
「……。分かったわ。けど、あまり期待しないで」
同時期、降谷零が指揮をとる公安部でも捜査員達が緊張した様子で慌ただしく捜査に動いていた。
先日の夜、扇屋ユヅルがトイレに籠って誰かに電話をかけていたことまでは分かっていたものの、その音声が小さくて解析に時間がかかっていた。しかし先程解析結果が出たのだ。
『私、ずっと辛いです。記憶が無くなっても、ずっと死にたくて。……私、……楽になりたいです。』
トイレに閉じこもった少女は、唯一頼れる相手と判断した叔父にそう懇願した。
記憶を操作する薬を服薬し、記憶喪失になった者が以前と同じ自殺願望を持っている。それはつまり、薬の欠陥が現れたということになる。
失敗作の人間に対してあの男や組織が何をしでかすのか、推察することは容易い。
「レッドアイ達が対象に接近する瞬間を狙い、確保する。国内に展開しているFBI捜査員達もチャンスを伺っているだろうが、決して横取りされないよう警戒しろよ」
「はい!」