賽を振る



 病院食を食べるようになって、点滴をしなくなった。
 青白い腕に残っている内出血の跡はまるで薬物中毒者のそれに見える。

 静かな深夜、病室のなかのトイレに鍵をかけて、蓋を閉じた便座に腰掛ける。無機質なタイル張りの壁に囲まれ、冷たい蛍光灯の光に照らされた自らの腕を見下ろして思った。
 ██ ██は、生まれてから一度も点滴をしたことがなかった。病院に長期間入院するのも初めてだったし、医者と一対一で丁寧な問診をするのも人生で数えるほどしか経験がなかった。それは頑丈な体を持っていたからではなく、十分な医療サービスを受けることができない家庭に育ったからだ。
 血管が細い人が点滴をすると、血管に針を刺すことが難しくて何度も腕に針を刺す羽目になり、患部に内出血が起きる。
 そんな知識は、この扇屋ユヅルの体に憑依(と仮定しておく)しなければ得られなかった。
 この体になって新鮮な経験をすることは多い。顔も知らぬ親戚たちが親身な態度でお見舞いに訪れることだって、██にとっては非常に恵まれている環境に思えた。
 この体の持ち主である扇屋ユヅルは、そんな恵まれた環境に身を置いていても死にたいと思っていた。
 先日、ユヅルの叔父がそう言っていたが、たしかにユヅルの体に残された記憶にもそれらしき感情が染み付いていた。

 冷たい表情でじっと床を見つめていた少女は何度か大きく深呼吸をして、パジャマのポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。
 そして画面を操作し、おもむろに端末を耳元に当てた。低く、ボソボソとした憂鬱そうな声色がタイル張りのトイレに響く。

「……もしもし。こんな時間にすみません、今大丈夫ですか。……こんな事を急に伝えたら、ご迷惑だとは思うんですが、あの……私、ずっと辛いです。記憶が無くなっても、ずっと死にたくて。……私、……楽になりたいです。叔父さん、助けになれるとこの前仰ってたので……。……。…わかりました、お願いします。いつでもいいです。はい、ありがとうございます。じゃあ、よろしくお願いします。……」

 通話が切れたことを確認して、スマホを再びポケットに戻す。
 ひとつの賭けに出たユヅルはようやく俯いていた顔を上げ、よろよろと立ち上がってトイレから出ていった。
 誰も居ないトイレの照明がバチン、と落とされた。


 自分の気持ちを素直に吐き出すと、少しだけ気持ちが晴れやかになる。
 翌朝、少しだけ顔色が良くなったユヅルが病院の売店で買い物をしていると、突然その背中に近づく人影があった。

「あの……もしかして、扇屋さんだよね?」
「……はい?」

 振り返ると、そこには青みの強い灰色のブレザーを着た女子高生が立っていた。
 左手の甲には白い包帯が巻かれていて、どうやら怪我をして病院を受診していることが分かる。すらりとした細身で、背中まで伸びた黒髪もツヤを持って輝いていた。

「……ああ、ええと…、私の名前は扇屋ユヅルなので、もしかしたら合っているかもしれませんが……」
「あ、そ、そっか……。わたし、毛利蘭っていいます。昔扇屋さんと同級生で、今は違うクラスなんですけど…」
「……?」

 毛利蘭とは、これまた聞いたことのある名前が出てきた。
 毛利蘭が、昔扇屋ユヅルと同級生で、今は同じクラス…とは…?
 頭の上にハテナを浮かべまくるユヅルを察したのか、毛利蘭を名乗る少女は慌てて「あ!私達、同じ高校に通っているんです」と付け加えた。
 ユヅルはあからさまに衝撃を受けた。

「同じ高校……」
「帝丹高校っていう学校です」
「帝丹高校っていう学校に、私と毛利さんが……通っているんですか…」
「そ、そうです」
「へえ……。ああ、同級生に初めて会いました」

 扇屋ユヅルが、名探偵コナンの世界に溶け込んでいる人間だという事実をだんだん実感することが増えた。
 高校に入学して1年以上経っているのだから「同級生に初めて会う」なんて事はあり得ないのだが、へえー、と感心した様子でしきりに納得するユヅルに、毛利蘭は内心「この子、本当に記憶が無いんだ」と心を痛めた。

「扇屋さん。わたし父が探偵をやっていて、それであなたが今入院していることを聞いたんです」
「ああ……」
「それで…わたし、実は昔扇屋さんと友達で、仲が良かったときがあって。これからも扇屋さんと仲良くしたいなって思ってるんです。もし、よかったら、あの…また学校に戻ってくるときがあったら、たくさん頼ってください……、また遊びに行ったりとか、勉強のこととか、昔みたいに、」

 慎重に言葉を選びながら、それでも言葉を止められない蘭の様子に、ユヅルは見てはいけないものを目撃した気持ちになった。
 そしてレジに持っていこうと手に持っていた品物たちを商品棚に乱雑に戻し、急いで蘭のもとへ歩み寄って、オーバーサイズ気味のパジャマの袖をぐいと伸ばして、蘭の目元からほたほたと落ちる涙をはしっと抑えつけるように拭った。

 泣きたいのはこっちの方だ、と思う。
 あり得ないほどの好意を予想しない方向からこんなにもストレートにぶつけられて、混乱しない人間は居ないだろう。
 どうにかして蘭に返事をしたいのだが、他人との触れ合いが絶望的に少なかった██にはそんな語彙など無い。

 毛利蘭は「仲が良かったときがあった」と言った。ということは、何かがあってその関係性が失われたのか。
 それでも毛利蘭は、記憶喪失になったかつての友人にさえ心を痛めて、失われた友情をもう一度つなぎ直そうとしている。彼らの間に何があったのか、心の中のどこかにいる扇屋ユヅルに投げかけてみたが、何も返ってこなかった。
 意を決して、ユヅルは口を開く。

「……昔みたいにはなれない。記憶、もう無いので」
「そんな……」
「…でも、毛利さんがこれから仲良くしてくれるというなら、またイチから……始めませんか。ただ、私、毛利さんが思ってるような人間ではないので、嫌な人間だと思ったらすぐ離れてください」
「……うん。でも、わたし、また仲良くなりたいから。それは譲れない」
「…わかりました」

 すん、すんと鼻をすすりながら、少し恥ずかしそうに「鼻水出ちゃった」と微笑む蘭を見て、ユヅルは申し訳無さそうに視線を反らした。べつに鼻水を目撃したことに後ろめたさを感じたわけではない。
 毛利蘭のこの友情と温かい視線は、私が受け取るべきものではないと分かっている。██には身に余りすぎている。
 それなのに毛利蘭は、扇屋ユヅルが目を合わせて返事をしたことを喜んでいる。その姿が██に罪悪感を掻き立てた。

 この体の持ち主である扇屋ユヅルは、こんな恵まれた環境に身を置いていても死にたいと思っていたのか?

 ため息をつきたくなった。



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