抱える男と揺れる女

野山も草木も家屋も真っ白に冬化粧した南樺太の朝。私は久々の布団の心地よさに中々動けないでいた。遠くでガタガタと雨戸を開ける音がする。足音がゆっくりなので、きっとお爺さんだろう。格子窓と障子から光が部屋に降り注ぎ、目を瞑っていても微かに眩しい。

「…うー……出たくないなぁ…。」

障子越しに冷気が流れこんで来たため、余計に布団の暖かさから抜け出せないでいた。唸りながら隣を見ると、尾形が穏やかに寝息を立てながら眠っている。寝汗もないし、魘されてもない。どうやら熱は下がったようだ。安らかな寝顔に、頬を緩ませながら、私は尾形の枕元にある銃に手を伸ばした。

「…そろそろ学習しろ。」

「…っ!」

今回も駄目だった。スヤスヤと気持ち良さそうに寝ていて眠りも深そうだったのに、手を動かした瞬間に掴まれてしまった。切り替えが早すぎてちょっと怖い。起きた尾形はもう少し寝たかったと不機嫌そうに髪を掻き上げている。お爺さんに貸して貰った着物がはだけていて、なんだか艶っぽい。

「…着替えて茶の間に行きましょうか。」

私はさっきの事は無かったことのように流し、冬用の綿入りの小袖を着て、さらに半纏を羽織る。下にヒートテックも着ているのでとても暖かい。欠伸をする尾形をせかし、囲炉裏のある茶の間へと向かう。

「おはようさん。朝は昨日の鍋の残りさ食べれ。鱈の白子入れとるさ。儂は出掛けてくるべ、好きに過ごすといいんだべや。」

「…ああ。助かる。」

「え?あ、ありがとうございます…。お言葉に甘えさせて頂きます。」

お爺さんはニコッと笑って私達に挨拶だけすると、帽子を被って外に行ってしまった。怪しい私達を置いて行っても平気なのだろうか。こちらからしたら有難い話だけど。尾形はお爺さんに軽く手を振ると、どかっと床に座って鍋をかきこみ出した。私も隣に座って、椀に手をつける。

「……白子が濃厚で美味しいですね。ふう…朝から幸せ…。」

「……。」

尾形は何も言わずに黙々と食べている。この男に共感や談笑を期待すべきでは無かったようだ。ただ、この沈黙が気まずい訳じゃない。二人だけの食卓はとても静かで、どこか時が止まった世界にいるみたいだ。映画のワンシーンみたいだなと思いながら、ゆっくりと音を立てないように鍋を啜った。

「……せ…ーーん…すいま…ーーん…!」

静穏の中で食事を楽しんでいると、門口の方から声が聞こえてきた。人が訪ねて来たのだろう。私は囲炉裏端に食べかけの椀を置いて、立ち上がった。すると、何故か尾形に手首を引かれる。

「……あの、人が来てるので、行って来ますね。」

「………。」

一体、何だろう。声をかけるが、用件を言うわけでもないし、手も解いてくれない。

「あの!離して貰えないと、表にでれません。呼ばれてるので、対応して来ますね。すぐに戻ってきますから。」

大きい声を出しても聞かないので、尾形の頭をもう片方の手でポンと叩いて抗議する。そうして、やっと手を緩めてくれたが、尾形は考え込むように背中を丸めてしまった。また帰ってきてから話を聞こうと、とりあえずその場は門口の方へと急いだ。

「こちら、郵便です。あの、貴方は…?お爺さんはいらっしゃらないですか?」

「このお家でお世話になっているものです。お爺さんは街の方に出かけてますので、帰ってきたら私から渡しておきますね。」

訪ねてきた人は、郵便配達の人だった。お礼を言い、お爺さんへの封書だけ預かる。郵便の人はまだ話したそうに、天気の話や、お爺さんについて話を振ってきたが、尾形を待たせているので早めに話を切った。色々探られても面倒だし、こういった手合いは流すに限る。鍋の続きを食べようと、私はトコトコと茶の間に戻った。

「お爺さんにお手紙でした。」

尾形に報告をすると、「そうか」としか言わなかった。だけど、どこか安堵しているようにも見える。目を伏せる尾形の横に座り直して、私は彼に尋ねた。

「さっきは、何で止めたんですか?気になることでもありました?」

「……いや、大したことじゃない。」

気にするなという風に、顔を背けて淡々と箸を動かし始める尾形。こんな姿は珍しい。

「そうですか。大したことない事でも別に良いですよ。」

私は椀に鍋をよそいながら告げた。真剣に話を聞くわけではないから目は合わせない。喋りたいならお好きにどうぞ、という態度で再び食事を再開すると、尾形が口を開いた。

「第七師団に入る前、育ててくれた祖父母が失踪した。食べかけの茶碗を置いたまま…な。」

「…えっ……。」

思ったより大した話だった。普通に事件だよな、と聞いておいて焦る。だから、私が何処かに行くのを嫌がったのだろうか。彼の言葉に何と返したら良いか悩む。

「…それは…辛いですね…。」

「……。」

やっと絞り出た台詞は陳腐すぎて、彼を上手く慰める事が出来ない。尾形は慰めなど期待してないかもしれないけれど。人攫いなのか、何かに巻き込まれたのか、未解決だからこそいつまでも心に影を落とすのだろう。

「…母親は?」

その時、彼には他に支えあえる家族はいなかったのだろうか。そう疑問に思った私は、深い意味もなく尾形に聞いてしまった。

「…殺鼠剤を盛って殺した。」

「……はっ?」

サラッと聞き流すには余りにも衝撃的な事実にたじろいでしまう。母親と自分を捨てた父である花沢中将を殺したのは分かる。いや、普通は分かりたくないが、感情的に理解は出来る。

「理由とか、聞いてもいいですか?」

「花沢幸次郎に会いたがっていたからだ。死んだら葬式ぐらい来るだろうと思いきや、手紙すら寄越さなかったがな。」

あまりに怖すぎる回答に絶句する。まるでサイコパスとでも話しているようだ。私の全身の鳥肌という鳥肌が立った。

「…幼少期の話だ。あの男に捨てられ、狂ってしまったおっ母が疎ましかったのもある。」

ドン引きする私に気付き、尾形が付け加える様に言った。子供の頃に実の母親を手にかけるなんて、どんな家庭環境ならそんな事になるんだ。

「…弟の…花沢勇作さんは?」

「…鯉登少尉にでも聞いたか。…まあ、勇作も殺したぞ。日露戦争時、旗手として前を走るアイツの頭を後ろから撃った。」

飄々と答えているのがまた恐ろしい。身内がいないのではなく、自分の手で身内を殺めている男だった。

「日露戦争って…3年前ですよね。弟さんも疎ましかったんですか?それとも善意ですか?」

「『人を殺して何も感じない人はいない』と言われたから、殺してみただけだ。嫡男である勇作殿が死ねば、今度は俺が父から愛されるのかと、欠けた人間では無くなる道もあるのかと思って、引き金を引いた。案の定、俺は欠けた人間のままで父親からは呪われたがな。」

これもまたぶっ飛んだ言い分である。そんな理由で殺された花沢勇作が不憫でならない。ただ、全てを正当化するわけでもなく、自分自身が欠けた人間の自覚はあるようだ。

「…そうですか。…正直、今後一切関わりたく無いぐらい引いてます。」

「聞いておいて酷いやつだな?お前も手を汚した時点で同類だろうよ。」

空になったお椀を重ねる音がカランとなる。一緒にはしてほしくないが、人殺しに上も下もないのはごもっともだ。尾形には尾形の道理があって、私には私の道理が、杉元には杉元の道理がある。尾形の道理には共感出来ないというだけで。

「……アシリパさんを殺そうとしたのは愛してくれなかったからですか?」

「ふざけた事を抜かすな。自分だけが高潔であろうとする奴が嫌いなだけだ。」

こちらを蔑みながら否定する尾形。でも、目の前の男は好悪だけで人を殺めるほど理性が無い男じゃないだろう。きっと、何か、地雷があるはずだ。

『弟の花沢勇作殿は高潔で立派な方だった。』

山猫を見た時の鯉登の言葉が頭に浮かんだ。もしかして、アシリパを手にかけた花沢勇作と重ね合わせているのか。だから、アシリパに自分を殺させようとするし、殺さない事を選んだアシリパを撃とうとしたのだ。欠けている自覚があるから、欠けていない人間の存在が許せないなど歪みすぎている。自分の存在が否定されている様にでも感じるのだろうか。

「……理解出来ないし、理解したいとも思えませんね。」

「…親殺しも出来なさそうなお前に、期待なんぞしとらん。」

率直に言ってしまった。逆鱗に触れて首でも締められるかと覚悟したが、冷めた目で返されただけだった。食べ終わったお椀を重ねて、洗い場まで持っていく。いて刺すように、水が冷たかった。

ーーーー

お爺さんの家に滞在して3日が経った。冬は陽が落ちるのが早いので、夜がとても長い。昨晩は夜遅くまでお爺さんと話をしていたが、炭も油も勿体無いと言う事で、今夜は早めに布団に入った。外は雪がしんしんと降っている。

「……睫毛長い…。」

部屋の暗さに目が慣れてきた私は、隣で眠る尾形を見つめた。凶悪な尊属殺人犯だというのに、何故こんなにも私の心は落ち着いているのだろう。普通は、裸足で逃げ出してもおかしくない。

「…穴のあくほど見つめてどうする気だ?誘ってるのか?」

「…そんなわけないでしょう。馬鹿を言わないで下さい。」

どこからそんな自信が来るのか不思議だ。朝のやり取りを忘れたんだろうか。理解できないし関わりたく無いと言ったばかりなんだが。私が呆れながら背を向けようと寝返りをすると、左手を掴まれた。強制的にまた向かい合わせにさせられる。

「ふん、小指詰めなんて悲惨だな。嫁入りはもちろん、まともな仕事にもつけんだろ。お前が約束を守らんからだぞ。」

指切りげんまんをするように尾形が小指を出した。私の左小指は落としてしまったので、もう結ぶ事は出来ない。相変わらず嫌味ったらしい男だ。

「賭けの約束をいつまでもネチネチ引き摺らないで下さい。私は第七師団に保護してもらう約束もあるから平気です。」

「はんっ…鶴見中尉と組んで樺太まで来たようだが、アシリパがそれを受け入れると思ってたのか?アイヌの未来を考えるアシリパが手を取るわけがないだろう。」

鯉登との約束を口にすると、尾形から思い切り馬鹿にされた。俺の方がアシリパを知ってるとでも言いたげだ。

「……でもそれはアチャであるウイルクやキロランケの希望であって、アシリパさんがやらなくても良い事です。コタンに帰って普通の暮らしに戻ったほうがいいじゃないですか。」

「託されたものを無視できる人間か?普通のアイヌの女のように刺繍をしながら家を守る人間に見えるんならお前の目は節穴だな。」

ほっぺをむぎゅっと摘まれる。悔しいけれど核心を突かれてしまった。うぐっと、言葉を飲み込んだ。

『わたしは新しい時代のアイヌの女なんだ!』

アシリパと出会った時のことが思い浮かぶ。確かに家で大人しくしているタイプではない。釧路でも、北見でも帰るチャンスは幾らでもあったが、アシリパは真実を知ろうと進み続けた。

「……じゃあ、アシリパさんと杉元さんと白石さんはどこかで離脱すると?」

「ああ…。鶴見中尉は金塊の為ならアシリパの監禁だってするだろうよ。その前にきっと逃げるはずだぜ?」

「…本当にそうなったら、私が第七師団に助けを求めるのはよくない結果になりそうですね。」

尾形から逃げ出す為にも第七師団を当てにしていたのに困った。どうやって杉元達に合流したら良いだろう。私がうーんと考え込むと、尾形がいつものように髪を撫で付けながら言った。

「ひとまずはアシリパを狙ってる俺に着いて来るのが安牌だ。大人しくついて来い。」

「いや、何が安牌なんですが。危険牌過ぎるでしょう。アシリパさんを撃とうとして、しかも私を攫ったのは尾形さんなのにドヤ顔しないで下さい。」

「うるせぇ、黙れ。」

「理不尽すぎる…。」

顎を掴まれ、ぐいっと顔の向きを反対に向けさせられる。乱暴な発言にこの扱いはさながら暴君だ。溜め息をついて背を向けると、私は眠りについた。「寝たふりするな」と背中を蹴られたが、それでも無視を決め込む。そうしているうちにいつの間にか本当に寝てしまっていた。

ーーーー

半田での滞在4日目。熱は下がった尾形だが本調子ではないため、出発はせずにゆっくりする事にした。家の中で、朝から爪籠作りをしている。雪道用のわらじみたいなものだ。山子と呼ばれる樺太を開拓している木こりに売るらしい。

「……あーっ!!また間違えたっ!!」

「あまりに下手すぎるぞ。藁を無駄にするな。」

わらじすら作った事のない私にはハードルが高すぎた。足の指に藁を引っ掛けて編んでいくのだが、三つ編みすら苦手な私にはもう数段編み込むだけで精一杯である。何処に通したらいいのか、結べばいいのかが段数が増すごとにこんがらがって、見るも無惨な状況だ。それに比べて尾形はとても器用に編み上げている。

「…そもそも何でそんなに編むのが上手なんですか!髪結といい手先が器用すぎませんか?」

「ガキの頃から自分のわらじは自分で作らされるからだ。冬や雨の定番の手仕事だぞ。作った事ないなんて、どこのお嬢だよ。」

「未来ではわらじ履く人いませんからね…。」

縫い物も、編み物も、ワラ細工も出来ない私は細かい手仕事は諦めて、薪割りに精を出す事にした。そんな私を縁側から眺めながら爪籠を作る尾形。お爺さんに旦那と嫁の役割が反対な夫婦だと笑われた。

「……ふーっ…はっ!……はっ!」

パキン、パキンと薪の割れる小気味のいい音が家に響く。身体が温まるし、筋肉も鍛えられるし、私にはこういった事の方がやっぱり向いている。無心で薪割りに励んでいるとぐぅーと腹の虫が鳴った。

「…はぁ……お腹すいてきた……。」

ご飯は料理好きなお爺さんが作ってくれている。さっき台所に向かったばかりだから、出来るのは半刻後だろう。

「今晩は樺太シシャモらしいですよ。楽しみですね。」

「…ああ。」

流れる汗を拭きながら尾形に話しかけた。無愛想だが、一応返事はしてくれる。手を休める為に一度斧を置いて、尾形の隣に座った。
 
「尾形さんは何の食べ物が一番好きですか?」

「…あんこう鍋。」

「へー。それは何で?」

火照った顔に冷たい風を当てながら尾形に尋ねる。彼の手が一度止まったが、またすぐに動かしながら答えた。

「…冬になると母親が狂ったように毎日作っていた。鴨を獲ってきても、必ずあんこう鍋を作るのさ。花沢幸次郎が好きだと言った料理だから。」

「………。」

皮肉で言っているんだろうか。普通そんなことされたらどんや好きな食べ物でも嫌いになる。どう返事をしたものかと口を噤むと、尾形が続けて口を開く。

「哀れな人だったよ。これ以上子供が産まれたら困るからと『トメ』と名付けられ、金がないから芸者になるしかなかった。そこで出会った将校とやっと幸せになれると思ったら捨てられて、狂ってしまったんだからな。」

珍しく饒舌だ。自分で殺した母親なのに。何でそんな虚な目をしているんだろう。幼さ故に本当に良かれと思って殺したなんて信じたくない。尾形が父から、母から、愛されたかっただけの人間なんて思いたくない。同情を抱いてしまうじゃないか。もっと卑劣で、残酷で、救いようのない人間でいてくれないと困る。

「…なんでそんなに泣きそうな顔をしてる?なんの関係もないお前が。」

「…は?…してませんが?」

必死に強がるが、私の鼻はツーンとし始めている。母を殺してしまったのに、父が来なかった気持ちは想像するだけで辛い。やってしまった事の大きさを受け止めきれず、自分を正当化してしまってもおかしくない。だからさらに罪を重ねてしまう。罪悪感と向き合うと心が壊れてしまうから。

(哀れなのは尾形さんじゃないですか…。)
 
最低最悪の殺人鬼と断言したいのに、夕張から網走までの尾形が頭に浮かぶ。性根は意地悪だが私が本気で嫌がることは一切しなかったし、戦闘でもそれ以外でも何度も助けられていた。優しいと思ったことすらあった。それが本質だとしたら…だとしたら何だ。頭の中を思考が行ったり来たりしていて、混乱を極めていた。そんな私を見た尾形が私の胸元を掴んで引き寄せる。驚く暇もなく、尾形が私の左手首を強く握りしめて顔の前に持ってきた。無くなった小指を強調するように揺らす。

「俺を庇った理由はなんだ?アシリパを殺そうとした男だぞ?」

「……そんなの…私が知りたいです…。」

咄嗟に身体が動いてしまっただけだ。尾形を殺さないと選択したアシリパを人殺しにさせたくなかったのもあるが、一々考えて庇ったりはしない。私が困ってそう吐き出すと、尾形が嬉しそうに鼻で笑った。イラッとするのでやめて欲しい。聞きたい事なら私の方が山程あるのに。

「じゃあ、尾形さんはなんで網走で私を殺さなかったんですか?…私の頭を狙えましたよね?」

感情的になった私の声はだんだん大きくなっていく。

「今も私を殺さない理由は?邪魔になるのが分かってて連れて行く理由は…?」

心に溜まっていたものが止まらない。必死に訴える私の手を止めて、耳元で彼がそっと囁いた。

「……本当に知りたいか?」

「……ッ!」

返事をする前に、口を塞がれた。網走の新月の日の様に、深く、深く。甘く、苦い味がした。


PREV | TOP | NEXT.
HOME

コメント
前はありません次はありません