ロシアよ左様なら

ズキズキと頭が痛む。吐き気が胃から込み上げてくる。寒いし、身体の節々が硬い。意識と共に感覚が戻ってきたのか、急激なストレスが全身を襲った。フワフワと身体が揺れているのは、殴られた衝撃だろうか。早く起き上がらねばと、重い瞼をゆっくり開ける。しかし、白い布に包まれて何も見えない。顔を上げてみじろぎをしようとすると、布の上から何かに押さえつけられた。

「…馬の上だ。変に動くと落ちるぞ。」

降ってきたのは独特な低音の尾形の声。特徴的ですぐに分かるのに、何故ロシア語で話してのには気づかなかったのだろう。私は診療所ですぐに反応できなかった事に後悔した。

それにしても、今更、馬で逃げるなど許せない。もう一度捕らえようと、押さえつけられた手を押し返し、布を剥ぐ。横にだらんと力が抜けた状態で馬に乗せられていた私は、視界が開け起き上がった途端、バランスを崩してしまった。

「あっ…!」

ガクっと、足元に異変を感じた時にはもう遅い。馬から滑り落ちながら、死んだ、とそう思った。このまま地面に放り出されて、馬に蹴られて死ぬ、そう覚悟して目をつぶる。しかし、地面に叩きつけられる事も、馬に蹴られたり引き摺られる事もなかった。

「あれ…?」

「…ッ!だから言っただろうが、話を聞け!この阿呆!」

尾形が私の服の腰を掴み、すんでのところで助けてくれた様だった。馬からずり落ちる私を引き上げながら、尾形が怒鳴る。ビクッと大人しくなった私の体勢を整え、尾形の前に座らされた。いつの間に日が変わったのか、空は朝焼けで淡い黄赤色に染まり、明るくなり始めている。山の中を走っているようで、海沿いの亜港からは随分遠くまで来たみたいだった。

「あの、あれから何時間が経ったんですか?」

色々と文句や言いたい事は沢山あるが、まずは状況を確認した方が良さそうだ。そう、思った私は、後ろに座る尾形に尋ねた。

「8時間だ。」

「え!?そんなに…!?…じゃあここは?」

「Палевоを越えた所だ。国境まではあと一日はかかる。」

ロシア領の地理は詳しく教えて貰ってなかったので、名前を聞いてもピンとこない。ただ、日本領に向けて南下しているようだ。

「よく分かりませんがアシリパさん達とはだいぶ離れてそうですね…。…というか、何で私のコート着てるんですか?勝手に盗らないで下さい。」

やけに身体が冷えると思ったら、コートも手袋もブーツもいつの間にか尾形に使われていた。バックバックに入れていた替えのズボンまで履かれている。革の手袋は、私の指が目立たない様にと鯉登から貰ったものなので返してほしい。

「寒いから仕方ないだろ。文句あるならくっついとけ。」

「盗人の癖に何でそんなに偉そうなんですか。さっさと自分の服は自分で調達してきて下さいよ。」

私が震えながらグチグチ言うと、尾形はコートの前を開けて後ろからすっぽり私を包んだ。私を抱きしめる形で馬を引き続き走らせる尾形。振り払って、すぐにでもアシリパと杉元の元へ帰りたいが、遭難して凍死するのが目に見えている。私は渋々、彼の体温を受け入れた。

「……そもそも、何で私を連れてきたんですか??」

「…さぁな。」

何がさぁなだ。他人事過ぎるだろう。飄々と遠くを見ているのが、また腹立たしい。

「理由ぐらい説明してください。アシリパさんを殺そうとした訳も。何も言わないんだったら、刺し違えてでも尾形さんを亡き者にしますよ。」

「無駄死がしたいとは物好きな奴だ。武器がなくてもやるんだったら好きにしろ。」

ははん、と乾いたように笑う尾形。私の荷物も小銃も拳銃も全て尾形に奪われていた。でも、怪我人の尾形なら隙を見れば一か八かの勝負はかけれる。

「…まあ、お前になら殺されるのも悪くないかもしれんな。」

「…え?」

何でそんな事を言うのだろう。杉元達から逃げてきた癖に、死んでも良いと?理解できない。振り返って真っ黒に塗られた彼の双眸を見つめると、尾形はその目で見下ろしながら私をせせら笑った。

「そして、俺のことで一生悩み苦しめ。」

やっぱり、尾形は尾形だ。変色してグズグズになったニリンソウみたいに性根が腐っている。以前、私が人を殺めるのに罪悪感があると言ったからこその発言だろう。

「…何で私が尾形さんのことをずっと抱えて生きていかなきゃいけないんですか。手にかけたとしても一瞬で忘れてやりますよ。」

尾形に負けじと鼻で笑って返すと、何故か満足気な顔をされてしまった。その後も返答を濁されたままだ。私は深くため息をつくと、諦めて馬に揺られ続けた。体温を預けたまま、何も言わず、何も語らず、馬の雪を踏む音だけが響く静寂の時間は、網走以前の私達の様で、妙に懐かしい。敵だと分かっているのに、どこか安らいでいる私がいた。

ーーーー

冬は日が沈むのが早い。いつの間にか、真っ暗な闇に覆われ、無数の星が空に浮かぶ。日没前に日本領に入りたかったが、流石に馬が持たなかった。

「おい、あの赤と黄色のテントはどうした。早く組み立てろ。」

近くに川があり、雪から守ってくれる大木が茂っており、休めそうな平らな地面がある場所を見つけた尾形が、木に馬を繋げながら私に言った。私は火を起こすために枝を拾いながら、肩をすくめる。

「吹雪で壊れて飛んでいきました。」

「は?使えねぇな…。あの手持ち布団は?」

「ありません。月島軍曹に私物を狙われたので、服や護身用の拳銃以外は全て処分しましたよ。」

もちろん寝袋もない。文句ならあの鶴見の手先に言って欲しいと伝えると、尾形はチッと舌打ちをした。寒いし、悲しい気持ちの中で、マッチと解した麻紐でなんとか火を起こす。その火種を組んだ薪木の中に入れ、息を吹き込んで火を大きくしていく。いつも杉元とやっていたので、一人でするのは久々で何だか寂しかった。

焚き火で暖をとり、わっぱに入れておいた馴鹿の塩漬け肉を焼く。肉を頬張り、煮出したスギナ茶を啜って身体を温めてから横になる。馬に寄り添って寝ようとしたら、馬は2、3時間しか寝ず、立ったり座ったりするからアテにするなと止められてしまった。仕方なしに、尾形とくっついて寝る。

「………。」

私のタートルネックを着て、カーゴパンツを履き、コートを布団がわりにして一緒に寝るこの男。懐に私のG19と背中にモシンナガンを持っている。傷が痛むのか寝汗を掻いているようだ。銃を奪い返すなら、弱っているうちがいいだろう。今だ、と思った私は尾形の懐にそっと手を伸ばした。

「…その手ごと撃つぞ。」

「……ッ!」

寝ていなかったのか、気配で気づかれたのか。尾形は懐の拳銃を手に私に突きつけた。私が腰に刺しているナイフを取り出そうと、逆の手も動かそうとすると、その腕も掴まれてしまう。

「無駄だぞ。休んでいても常に意識はあるように訓練されてる。そもそも、近接で女のお前に負けるはずがないだろう?」

尾形は私を力尽くで組み伏せて、覆いかぶさった。余裕そうな言葉と裏腹に、尾形の額からは汗が滴り落ちている。ポタンと私の顔に彼の汗が落ちた。

「…そうですね。じゃあ、ここは?」

上に乗った尾形の金的を私は下から膝で狙った。捕まった時は、眼球か急所を狙えと教わっていたから。

「……クソが…。」

上手くクリーンヒットし、悶える尾形。彼の右手から拳銃を奪おうとするが、力が強くて離してくれない。彼の下から抜け出そうと身体を捩っても、ビクともしなかった。急所を打たれるのは凄まじい痛みのはずなのに、何で?帝国軍人は股間まで鍛えてるのか?私がわなわなと震えていると、最高にキレた尾形が顔を上げて睨んできた。

「…使い物にならなくなったらどうしてくれる。責任取ってくれるんだろうなあ?」

青筋と共に冷や汗も浮かんでいたので、金的が効いて無いわけではなさそうだった。それでも勝てないのは悲しい現実だが。牛山や杉元から柔道を習っておけばよかった。そう、ため息を吐くと、尾形に頬を潰されて顔を掴まれた。

「…無視をするとは良い度胸だな。お前の命は俺の掌の上だぞ。」

「ええ、そうですね。私には敵わないみたいなので諦めて寝ます。」

拳銃を奪い返すことも、ナイフで尾形を殺すことも出来ないと判断した私は、力を抜いて目を瞑った。尾形の脅し文句は華麗にスルーする。私の命を握っているというが、本気で殺す気なら診療所でも、移動中でも出来たはずだ。それをしなかったという事は、私を手にかける気はないんだろう。

「……チッ。」

調子が狂うとでも言うように、尾形は髪の毛を掻きながら舌打ちした。そして、私の上から横にドサっと寝転がる。さっきまでの殺伐とした雰囲気とは一転して、寒さを凌ぐために再び身を寄せ合った。息もかかるほどの距離で彼の規則的な音を聴きながら、私は眠りの世界へと落ちていった。

ーーーー

ヒューヒューと風が吹く音がする。焚いていた火が消えてしまったのか、身体は凍えるほど寒い。数時間は休んだものの、目が覚めてしまった私達は早々に日本領へと出立する事にした。

「…大きな町がある敷香まで、結構距離ありますよね。今日中には着くんですか?」

ブーツを尾形に取られた私は、膝を抱えて座った状態で馬に揺られていた。背後からガッチリ尾形に固定されているので、落ちる心配もなくボーッと前を見ながら彼に尋ねる。

「日本領に入るのがやっとだ、敷香にはまだ日にちがかかる。国境越えてすぐ、幌内川の西に半田という村があったはずだ。まずは、そこを目指す。」

「…そうですか。アシリパさん達は日本人の村よりもアイヌやウイルタの集落に寄るだろうから、良い選択ですね。」

アシリパ達と合流したい私にとっては悪い選択だ。網走監獄から2ヶ月半、やっとアシリパに再会出来たというのにまた離れ離れになるなんて、辛すぎる。白石だってそうだ。キロランケのことや話したいことが沢山あったのに。虚な目で、深い藍色の空を見上げる。凛と澄んでいて、高く見える樺太の冬の空。北海道で皆で見上げた空とは随分違っていた。

「……何か歌え。静かすぎて暇だ。」

「ええ…?…そんな急に……。」

遠くを眺めながら、物思いに耽る私の脇を尾形が小突く。流行った邦楽を歌う気分にはならないし、子守唄という場面でもない。少し悩んでから、頭に浮かんだ歌をそっと口ずさんだ。

「…ひ〜ふ〜み〜よいむなや〜こともちろらね〜…し〜き〜る〜ゆゐつわぬ〜そをたはくめか〜…う〜をえ〜にさりへて〜のますあゑほ〜れ〜け〜…。」

「…何の歌だ?」

歌ってる最中に私の肩に顎を乗せてきたかと思ったら、終わった途端に耳元で尋ねてきた。息が耳に当たってこそばゆい。

「…っ…祝詞ですよ、一二三祝詞。明治から国家神道ですよね?だから馴染みがあるかなと思って。」

「俺は信心深くないんでね。」

「ああ…そうですか…。」

信心深い人が親殺しなんかしないよな、と納得してしまった。アシリパが殺人を忌諱しているのは、ウェンカムイという悪神に落ちたくないのもあるだろう。カムイを信じていたり、大切にしているからこその気持ちだ。尾形とアシリパは、何が違ったのかと、ぼんやりと考える。いつの間にか空が明るくなっていた。

「…あ…日が昇ってきましたよ。天皇陛下の御先祖の天照大神さん。アイヌではトカプチュプカムイと言うそうです。アイヌでは生活に密着してないからか、高位のカムイだけど和人ほどの信仰はないとアシリパさんが教えてくれました。」

「…アイヌの神なんぞ覚えてどうする。いずれ同化し消えゆく信仰だぞ。」

「好きな人の好きなものは覚えていたい。守りたい。ただ、それだけですよ。」

私が日の出を見つめながらそう溢した。尾形は何故か、不機嫌になり私のお腹を強く締め付ける。またいつもの嫉妬が出たようだ。家族に愛されなかった分、アシリパが羨ましいんだろう。私に当たられても困るが。

朝日が私達が歩く雪原を蜂蜜色にキラキラと輝かせる。尾形の「とにかく歌え」という要求で、半田に着くまで、私はひたすら彼の為に歌っていた。

ーーーー

国境警備隊に見つかることもなく、無事にロシアから日本へと帰ってきた。あまり実感は湧かないのは、ただ国境標石の横を通っただけだからだろう。密入国ってこんなに簡単なのか、と少し変な気分になった。

「衣服を調達してくる。履き物がないとまともに動けないだろう。」

半田という集落に着き、馬から降りた尾形が私に告げた。私の履き物がないのは尾形のせいなのに、上からな男である。武器も荷物も抑えられているので、私は大人しく馬の上で待った。

「長い距離、ありがとう。疲れたでしょう。」

私は亜港から半田まで運んでくれた馬に話しかけながら、首を軽く叩いて褒めてあげる。馬の乗り方やコミュニケーションの仕方を教えてくれたのはキロランケだ。馬を愛していたのは遊牧民族の血なのか、それとも彼の気性なのか。キロランケの生まれであるタタールについて、もっと知りたかったな、と今ながら思う。

「……尾形さん…遅いな…。」

馬の頬を撫でながら呟くと、返事をする様に馬がブルッと震えた。慰めてくれているようで、思わず頬が緩む。手足が凍えないように、はーっと何度も白い息を吹きかけながら、尾形が帰ってくるのを待った。

「…待たせたな。ちょいとばかし爺さんに捕まってた。…これ履いてついて来い。」

半刻ほどしてようやく帰ってきた尾形。彼の手に引かれて馬を降り、履き物を履く。木製の下駄で、慣れてない私には非常に歩きにくいが、文句も言えず、下駄が脱げないように必死で歩いた。

「宿でも取れたんですか?」

「いや、民家の物干し竿にかかってた服を盗もうとしたら見つかって、そこの爺さんから気に入られた。しばらく泊まっていいそうだ。」

行き先を聞くと、尾形が民家だと教えてくれた。ナチュラルに盗難しようとしているのが怖い。

「…服を買いに問屋でも探してるのかと思ったら…何をやってるんですか…。」

「こんな限界集落にそんなもんあるわけないだろ。文句があるなら捨て置くぞ。」

尾形が馬を連れてどんどん先に歩いていく。たかが服で強盗殺人なんかされては困るから言ってるのに。お爺さんがたまたま良い人で良かった。呆れながら、彼の後ろを着いて行くと、茅葺き屋根の民家に着いた。

「よう来たさ。日露戦争で負傷した旦那を迎えに、はるばる樺太までやって来るとは…良い嫁さんだべや。ほら、頬が赤くなってるっけ、早く中であったまれ。」

「えっ……?…あっ…ありがとうございます…。」

いつのまにか、すごい設定が生えていた。尾形を振り返ると、ニヤニヤと口角を上げている。なんとも図々しいホラ吹き野郎だ。

「あの、履き物も服もありがとうございます。こちら、心ばかりですが……。」

「なんもなんも。全部余りもんだべ。孫さ先の戦で死んで、息子夫婦も町に出てしもたさ。この家に儂一人で寂しかったんだわ。だからにやがなんは嬉しいんだべや。」

お金を渡そうとしても、断られてしまう。囲炉裏の前に座らせられたかと思うと、毛布をかけられ、鍋まで出てきた。

「布団も敷いてあるさ。何も気にせんとゆっくりしていけれ。」

お爺さんが優しさが温かすぎる。あの尾形も「かたじけない」と頭を下げていた。日露戦争で亡くなったお孫さんがちょうど尾形ぐらいの歳で顔も似ているらしい。お爺さんが懐かしそうに目を細めながら語ってくれた。

炭がパチパチと音を立て、鍋から白い湯気が立ち上る。ホッとしたのか、尾形の頭が船を漕ぐように揺れた。額に手を当てると少し熱っぽい。重傷者の癖に極寒の樺太を2日も移動したのだ、無理もない。手早く食事を済ませると、言葉に甘えて寝床に入らせてもらった。

「身体さ大事にすれ。したっけ、また明日。」

「はい、おやすみなさい。」

お爺さんに礼を言ってから、案内された離れに行くと、二組の布団がくっつけて敷いてあった。その一つに尾形を寝かせて、濡れた手拭いを頭に乗っける。

「…熱が出ようが…お前は俺には勝てんぞ…。」

「はいはい、分かってますよ。こんなとこで殺ったらお爺さんにも迷惑かけますからね。安心して寝てください。」

しんどそうに眉を顰めながらも、小銃と拳銃を手元に置いて警戒する尾形。そんなに気を張ってたら治るものも治らない気がする。一度部屋を出てから浴衣に着替え、飲み物を用意して戻ると、隣に座った瞬間に尾形から腕を掴まれた。

「……ここに居ろ…。」

「…いますよ。どこにも行けませんから。」

酷く焦った声で私に訴えかける。尾形は何でこんなに怯えてるんだろう。私に何を求めているんだろう。目の下がクマでやつれ、髪も乱れている彼の顔を眺めながらひとり、思った。

アシリパと、杉元と、白石と、尾形と、皆で過ごした日々にはもう戻れない。キロランケももういない。山で猟をして、チタタプしたあの日々が恋しかった。

「………帰りたい。」

静かな部屋で私の声だけが小さく響いた。


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