大泊に着くまでの二週間、杉元達と鉢合わないようにコタンを避けながら南下していく。道中の知取町にある遊仙閣という鉱泉や元泊の温泉にも行きたかったが長風呂の月島と綺麗好きの鯉登が行きたがる場所だからと泣く泣く断念した。
一月の樺太の寒さは厳しく、集落と集落の間は空と大地の境界が消え、白一色の原野が広がっている。山歩きには慣れているとはいえ、私一人だったらとっくに遭難していただろう。兵要地学を学んでいる尾形のお陰で何とか進んでいる。
「テンの足跡と糞があります。近そうなので狩っていってもいいですか?」
「ああ。次の村も見えてるから好きにしろ。」
敷香での件から少しは信用されたらしく、頼めば私の小銃を貸してくれるようになった。そろそろ毛皮を売って稼ぎたかったので有難い。尾形は左目だけの世界に慣れていないようで、双眼鏡で獲物を覗きながら私が撃つ姿を横で見守っていた。きまぐれに撃ち方や獲物の待ち方を指導してくれるのが尾形らしい。
道中の針葉樹の枝は凍りつき、重い雪に耐えかねて時折悲鳴のような音を立ててしなる。大泊には第七師団が杉元とアシㇼパを迎えに来るだろう。融和か対立か。そして尾形はどう介入するのか。大事なものが折れてしまわないように、私もそろそろ腹をくくらなければならない。
「尾形さん、アシㇼパさんを攫った後はどこに行くんですか?鶴見中尉のところにはいけませんよね。」
「土方のジジイの所にでもいくさ。刺青人皮の争奪戦が二極化している以上、どちらかに属さなければ金塊を見つけられねぇ。」
「確かに。アシㇼパさんもいずれは選択を迫られそうですね。鶴見さんの第七師団主導の軍事政権樹立よりもアイヌも和人も含めて独立国家を掲げる土方さんとの方が手を組みやすそうだけど……一度裏切られてるからなぁ。」
全員を裏切っている尾形に今後居場所はあるのだろうか。と思ったが、懐に入るのが上手い尾形だからきっと目的の為に要領よく立ち回ることだろう。
「どちらかに委ねて金塊争奪戦から下りてくれるのが一番安心できるんですけどね。…でも、尾形さんの言う通りアシㇼパさんが覚悟する事も含めて考えます。」
キロランケのマキリを撫でながら呟いた。
『…どうか、樺太をアムールを、北海道を…俺たちの未来を守ってくれ…!』
彼の死に際の言葉が頭の中で蘇る。キロランケやフチにオソマ、キラウㇱ、月形のコタンの女達などこれまで出会ったアイヌの人々を思いながら猟をする。どうやったら守れるだろう。答えの出ない自問自答を繰り返すうちに時計の針は進む。巨大な白い鱗のように海を覆っている流氷に囲まれた港町、樺太の玄関口である大泊に到着した。
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大泊では見晴らしが良い三階建ての宿の角部屋に泊まる。大雪でしばらく連絡船が途絶えるらしく、アシㇼパ達が樺太を出るまでにはまだ時間があるようだ。変装して街を歩いて情報を集めながらも穏やかな日々を送っている。極寒の厳しい道中を乗り越え、寝食を共にしてきた尾形には以前にも増して情が湧いてしまっていた。いつものように並べた布団で横になると尾形に声をかける。
「……尾形さん、手を繋いで寝ても良いですか?」
「誘ってんのか。ははん、ようやく覚悟が出来たようだな。」
「あ、じゃあ良いです。」
閨の誘いではないと否定するとそんな事だろうと思ったよと溜め息を吐きながら私の手を包んでくれる。体力的に回復しきった尾形がその気になれば手籠めに出来るだろうに、私の意思を尊重してくれる優しさに感謝しながら彼の手を強く握った。
「尾形さんって軍部内に後見人がいますよね。中央政府か、旅順の関東陸軍か。もし、金塊と鶴見さん達を土産に出世を狙うのであれば、その裏にいる人達とアシㇼパさんは手を組めませんか?」
尾形は本妻の子ではないが元第七師団団長の中将の息子であるのは事実だ。ロシア語が堪能で兵法に対する知識も豊富、そして地学にも明るい。大局を見ることができる男がただ金銭の為だけに金塊争奪戦に参加する訳がない。鶴見中尉に造反している以上、他に指令を出す人間がいるはずだ。
「土方さんには軍をどうこうする気は無いって言ってましたけどね。中央政府は日露戦争での負債で苦しんでいるでしょう。内債だけじゃなくイギリスやアメリカへの外債もある以上、金塊は喉から手が出るほど欲しいはずです。中央政府に不満を抱いている第七師団の独立のために金塊が使われるのは良しとしないでしょう。」
「よく知ってるじゃねぇか。網走での当てずっぽうの時とは違うな。……で、俺が中央のスパイだって?」
「スパイでも何でも良いんですけど、尾形さんの背後にいる人物がアシㇼパさんと手を組める相手かどうか知りたいんです。」
繋いだ手をたぐり寄せ、尾形へと向き合った。重なった掌にじわっと汗がにじむ。私の真剣な眼差しを見た尾形は私の消えた左の小指をそっとなぞると口を開いて答えてくれた。
「……鶴見中尉よりは話にはなるだろうな。同化政策の緩和と取り上げられたアイヌの自治権への回復を金塊なら……交渉出来る可能性はある。」
「え!本当ですか!?中央政府と敵対したり戦争になれば北海道の森や川はもっと荒れてしまいますし、中央との交渉が一番良さそうですね。」
欲しかった言葉が帰ってきた事が素直に嬉しい。私は顔を綻ばせながら繋いだ手を頬に寄せた。
「尾形さん、ありがとうございます。私を中央に差し出してもいいのでどうか、アシㇼパさんの望みは叶えて上げてください。」
尾形はしばらく私を見つめ、やがて重く頷いた。そして逃がさないように、身体を強く抱き寄せる。尾形の胸に埋めた自分の頬に流れた細い涙の跡を月明かりが静かに照らしていた。
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今だに慣れない着物と羽織を重ね着て一般人に変装すると、いつもの様に街を歩きながら情報を集める。時折、小道に入りながら店を訪ねていくのだ。よく出入りしている樺太日日新聞社に入ると、いつものように社員に金を握らせて奥の部屋に通して貰った。
チャンスは一度きりだ。相手は警戒心が強く、近接戦闘では絶対に敵わない。殺すなら右目を失い、反撃の狙撃も出来ない今だ。頭を狙い一発で仕留めるしかない。新聞社に手に入れて貰った三八式歩兵銃を構えて槓桿を引く。手が震えていた網走とは打って変わって、冷静にボルトを閉鎖出来ている自分に驚いた。コッキングが完了したか撃茎を目視すると、直立した照尺に標的を収める。
的は尾形百之助。新聞社の入り口までは双眼鏡で追っていたようだが、今は街を眺めている。外出時には常に監視されているのを知っているからこそ、この計画は建物内で完結させるしか無かった。
「さようなら。尾形さん。」
肺に大きく息を吸い込むと、呼吸を止める。
私は自分の意思で、トリガーを引いた。
ドンッ
銃声が新聞社内に響き渡る。双眼鏡で確認せずとも、結果は分かっていた。
何故なら、撃ち抜いた瞬間に尾形は誰に呼ばれたのか振り返ってしまったから。新聞社の2階から撃った銃弾は尾形の耳元を掠り、旅館の壁へと突き刺さった。
銃弾が飛んできた方角だけですぐにこの場所は特定されてしまうだろう。私は社員に金を渡して詫びを入れると、椅子にかけてあった羽織だけ掴んで外へと飛び出した。
「ははっ……。ダメだったか……。」
目からは涙が止まらない。こぼれ落ちる雫は頬を伝い、次から次へと顎へ落ちていく。
皮肉屋だが何かと世話を焼いてくれた尾形。今朝まで繋いでいた彼の体温が今も残っている。尾形なりに私自身を大事にしてくれたし、心を開いてくれたのも知っていた。このまま一緒にいれば既に絆されかけた情はさらに深くなり、尾形の為に大事なものを手放すことになる気がしたのだ。
尾形はアシㇼパの父親であるウイルクを殺し、杉元の頭を狙い、亜港では金塊の唯一の鍵であるアシㇼパさえも殺そうとした。次、会えば再び殺し合いが起きる。その時にもう、迷いたくは無かった。
中央政府との橋渡し役になってくれたかもしれないが、それより先に大事なものを壊される気がしたから。昨晩の穏やかな彼は、優しい嘘をついているようにしか見えなかったのだ。まるで、アシㇼパと杉元を守るために尾形を殺そうと決めた私のように。
亜港で引けなかったトリガーをここで引くと決めた。なのに、結局殺せなかった。自分の運のなさ、射撃手としての力のなさに胸が苦しくなる。命を狙われ、裏切られた事を知った尾形は、今、何を思っているだろう。半田で話してくれた尾形の過去を思い出す。父母、そして弟を殺し、祖父母も失踪してしまった彼。私が出ていこうとすると手を引き、敷香でも大泊でも必ず監視していた。肉親の代わりに執着していたのかもしれない。それでも一緒の時間を過ごし、信頼を積み重ね、二人の関係に安心を得始めたところでその相手に裏切られる。気付いた瞬間の尾形はどんな顔をしているのだろう。自分は愛の無い親から生まれた祝福されない人間だから、とでも言うのだろうか。やっぱりなと頭を撫でつける尾形の顔が浮かんだ。
濡れた頬が吹き上げた寒気にあおられ刺さるように痛い。これも師弟愛だと言ったら尾形は私を嘲笑うだろうな。第七師団でもなく、杉元でもなく、私の手で殺したかったと。ただの射撃趣味の人間を狙撃手として鍛えてくれたのは尾形だ。でも私の気持ちなど尾形は知る由もない。彼にとっては自分の側から逃げて、銃を向けてきた人間でしか無いのだから。
「ご…っ…なさい。……っ。……ごめん……なさい……。」
同じご飯を食べることも、同じ天井を見ることも、同じ歩幅で歩くことも、もう永遠に出来ない。もう二度と交わる事が出来ない道を選んだのは自分なのに、それでも涙が止まらなかった。逃げるように大泊の歓楽街の中を駆けていく。昼の淡い陽射しすら冷え切った樺太の空の下、風に乱れた髪の隙間から、絶え間なく涙が零れていた。
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歓楽街の端にある、目立ちにくい商店に転がり込んで動きやすい外套を所望する。店主に「酷い顔だなぁ」と笑われて見せられた鏡には、乾いた涙の筋が肌に残り、冷気に晒され赤く腫れていた自分の顔が映っていた。変装着として来ていた着物や羽織を脱いで、元々下に着ていたシャツとズボンにジャケットと店主から購入した分厚いコートを着込む。みっともなく腫れた目を冷やしながらも、いつでも逃げれるように外を伺っていると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「もうすぐ鶴見中尉達がくるんだから、ハメ外して遊びすぎるなよ!」
私はすぐさま店先に飛び出ようとしたが、靴は雪下駄のままだったので思い切りつんのめってしまった。ガタガタと音を立ててコケて頭を店先の長椅子にぶつける。
「……イタタッ……」
「…え?……結城……さん?」
小銃を杖にして立ち上がろうとする私を見て、馴染みのある彼の手が伸びてきた。その手を取ろうとした瞬間、手首を掴まれ身体ごとぐいっと引っ張られる。気付いた時には力強く、潰れるほどに彼に抱きしめられていた。
「杉元さん……い……痛い……です……。」
「結城ちゃんが圧死しちゃうぜ!?会えて嬉しいのは分かるけど手加減してあげてぇ?」
「……えっ!?あっ!ごめんねっっ!」
ミシミシと身体が悲鳴をあげるほどの抱擁を解くように白石が助け舟を出してくれる。我に帰った杉元は急いで力を抜くと、私の身体に傷がついてないか、コートの上から全身を叩くように確認しながら心配してくれた。
「結城さん大丈夫!?どこかケガしてない!?尾形は!?何かヒドイことされなかった!?」
尾形の名前を聞いた瞬間に、やっとの思いで落ち着いた涙腺がまた崩壊していった。
「おが……っ……おがたさんを……ころ…ころせませんでしたっ……すみませ……っ……。」
杉元と白石と会えた事への安堵と、尾形を殺せなかった自分への情けなさで心がグシャグシャになる。嬉しさと惨めさの綯い交ぜで嗚咽が止まらない私に、大丈夫、大丈夫と必死に声をかける杉元の姿が滲んだ視界に映った。
「無事に生きてただけで……それだけで十分だから。」
膝から崩れ落ちようとする私を支え、背中を大きな手で何度もさすられる。側で見ていた白石がそっと私の荷物を持って肩を貸してくれた。杉元の手の温かさが、白石の優しさが、葛藤と罪悪感で潰されそうになっていた自分を引き上げてくれる。杉元と白石の胸を借り、私は自分の生きる理由であり何よりも守りたい大事な存在に、再び会うことが出来た。その青い目は宝石の様に潤んでいて、太陽に照らされて光る彼女が何よりも愛おしかった。