二人の距離

唇を重ねただけで感情が流れ込んでくる。言葉は無くても息遣いで、触れ方で、尾形の気持ちが分かってしまった。これ以上受け入れてしまえば、もう引き返せない。流せれてはいけない事を本能で感じた私は、彼の胸板を強く押し返す。

すぐに尾形の腕がほどかれて、唇も身体も離れてしまった。抑え込もうと思えば簡単なのに、私に主導権を渡す尾形を目の前にすると喉がつっかえてしまう。

「受け止める覚悟もないのに暴こうとするからこうなる。人を弄ぶのはそんなに楽しいか?あ?」

縁側に腰掛けたまま動けない私の横でヤンキー座りになって私を煽ってくる尾形。私が何を言えないのをいいことにほっぺを潰して遊んでくる。

「人を弄んでるのはどっちですか?酷いこと言ったと思えば優しくしたり、近づいたと思えば裏切ったり…。…って急に興味なくして山子を編み出すのなんで?」

さっきまでの湿っぽい空気はいつのまにか消えていた。山子を編む尾形を横目に私は立ち上がって割った薪を薪箱へと放り込んでいく。一段落して囲炉裏のある居間へと向かうお爺さんは私達を見て目を細めて、作りたてのシシャモ鍋を出してくれた。

ーーーー
 
半田に滞在して5日目。今朝には旅立つ予定だったが、お爺さんから「もう一日だけ、おってけれ。」と頼み込まれて出立を延ばすことにした。空は雲一つなく晴れて、溶けてまるくなった積雪を宝石のように照らしている。
 
尾形には引き続き山子を編みながら家屋で静養してもらい、私は村の男衆と村の炭焼き小屋で窯の作業に勤しんだ。窯底に小枝や粗朶を敷き、切り揃えた炭材を積み上げいく。粘土を被せて天井を作ってから、火入れしていくのだが中々の力仕事である。

「男顔負けの筋力だな。いい嫁さんを貰ったあんたの旦那が羨ましいだが。」

「流石に男性には敵わないですよ。負傷して風邪を引いている尾形さんにも一捻りされますからね。」

パチパチと燃えていく火を見ながら笑いながらそう答えた。

「日露帰りの軍人さんじゃそりゃなぁ。しかも旅順攻囲戦戦に参加した第七師団だべ?」

「ロシアの新しい兵器のきかんじゅうや大砲でずっぱり死んだどよ。二〇三高地だけで二萬人近くだっけか、仏さんば踏んで進んで、仏さん盾にしても空から来る大砲で一緒に吹き飛んだと聞いたでや。」

「山肌には鉄条網が張り巡らせれてたんだべや。高圧の電気まで流れとった所に突っ込んだんだど。鉄条網に死体が積まれて橋になったとも。」

「地雷っちゅー踏んだだけで爆発する兵器まで埋まってたんだで?バラバラになった身体がビチバチ飛んどったらしい。したっけ引かずに進めと号令した乃木大将は肝の据わったお方だ」

男衆達は如何に旅順攻囲戦戦が壮絶だったのかを語ってくれる。悲劇的に、だが英雄譚のように高らかに、笑いながら紡がれる話はどれも想像を絶するような内容だった。みんなが笑っているので私も微笑みながら耳を傾けるが、心の奥は深く沈んでいくような感覚がした。

尾形、杉元、谷垣、月島と日露戦争に参加していた四人と長い間一緒にいたのに、誰もあの時の事を語ろうとしなかった理由が少しだけ分かった気がした。

ーーーー

最後の夜は私がお爺さんに手料理を振る舞う。郷土料理のひっつみ汁とにしめを作って、酒を片手に夜を楽しんだ。お爺さんが先に顔が真っ赤になってしまったので、先に布団に寝かせてから、また囲炉裏へと戻ってちびちびと飲みなおす。

「長くなるので、尾形さんは先に寝ててください。」

「俺も付き合うぜ。」

「え?」

よっこらせと隣に腰を下ろす尾形を見て、私は間抜けな声を出してしまう。

「あ?悪いか?」

「いえ、嬉しいですけど…。」

睨みつけてくる尾形に対して怯みながらも、彼のお猪口に酒を注いだ。一人で飲むよりも、誰かと一緒の方が酒は美味い。盃をカチンと合わせて鳴らすと、喉を鳴らしながら酒を飲み込んだ。日本酒の旨味と共に、酒が体に一気に周り、ポカポカとしてくる。私は頬を緩めながら尾形と杯を交わした。

「…酒は昔からよく飲むのか。」

「付き合いで嗜む程度でしたけどね。こっちは暗くなったらすること無いから食べ飲みするのが一番の娯楽になっちゃって…。」

「現実逃避してるだけだろう。」

「それが一切無いとはいいませんよ。嫌なことも悲しいことも流せるのがお酒ってもんでしょ?ほら、流していきましょ。」

「ろくでもねえ女だな。」

「そんな女の方が救われるんでしょう?尾形さんもろくでもない男だから。」

「私が尾形さんを撃てなかった理由知りたがってましたよね。答えは簡単です。ろくでもない男に絆されてしまったからですよ。裏切られても、それでも信じたかったから。」

「……。」

「また尾形さんも含めて杉元さんやアシリパさんと一緒に旅をしたいと思っているんです。殺し合いをしている以上、もう無理なのに。」

尾形は何も言わずにお猪口に酒を注いでいく。否定の言葉が彼の口から出てこないのは分かっていたのに、戻れない過去を想って胸が重たくなった。軽口を言い合いながら皆で鹿やヤマシギを狩った日々はもう遠い。私達は大切にしたいものも、信じるものも、目的も全てが違う。

尾形の手が私の頬に伸びてきた。厚く、乾燥した手が私の赤い頬をそっと撫でる。
頬の曲線を孤を描くようになぞりながら唇に触れた時、私は小さく口を開いた。

「…もし、私が尾形さんの事を好きになって夫婦になったとしても、尾形さんはこんな穏やかな生活はしてくれないでしょう?」

「ここで狩りをしながら炭を焼いて暮らそうって言ったら、金塊を追って戦うのをやめてくれますか?」

そう問いかけると彼の手が私の唇から離れた。手だけじゃなくて、近づいた心もまた離れてしまったみたいに。
 
「軍服に袖を通したあの日から、穏やかに暮らす選択肢はない。…成功か死かだ。」

知っているだろうと頭をうなだれながら私を見る。彼の頬に髪の毛がかかった。

「俺のために一緒に戦ってはくれないのか?お前ならその力があるだろう。」

「いざとなればアシリパさんも杉元さんも殺せと?それこそ無理なのを知っているでしょう。」

どこまで行っても交わらない。何回、酒を酌み交わしても、夜を過ごしても、体温を分け合ったとしても、私達が手を取り笑い合う未来は見えない。それでも一緒にいる今だけは、同じものを食べて酒を味わい、同じ感情を共有したい。

尾形も同じ気持ちなのだろう。言葉はなくともただそばにいてくれる彼と月が白み始めるまで時を過ごした。

ーーーー

空が青から暁に滲むように移り変わる早朝、私と尾形は半田を旅立った。後ろ髪を引かれないように、まだお爺さんが眠っている所に、手紙と多めに包んだお金だけ置いて。馬に乗り、朝日がキラキラと反射する雪の上を一歩一歩踏みしめる私達。金塊の暗号を思い出したアシリパを追うために、敷香へと南下していった。

尾形の傷や体調がまだまだ万全には程遠いので、馬で歩くのも一日20キロから30キロ程度に抑えて、樺太落ちした日本人の集落に寄りながらゆっくり進む。案外、尾形のほうが交渉が上手く、親切そうなお爺ちゃん、お婆ちゃんに気に入られては泊めて貰っていた。最初は慣れなかった「奥さん」や「尾形さん」と呼ばれるのも、夫婦と嘘をついて旅をしているうちに、慣れてきてしまっている自分がいた。

「あんた、旦那のどこさ、惚れたんかい?」

「えー…うーん…。気付いたら夫婦になってたので…どこというのは分からないですね。」

田舎の年配方は話に飢えているらしく、遠慮なしに何でも聞いてくる。私はその度に苦笑いしながら適当に誤魔化していた。

「んだか。旦那は顔が良いから一緒にいたら好きになってもおかしくないべさ。して、あんたは?」

「…こう見えて気が強いとこかね。」

「そりゃええ。女さ尻に引かれるぐらいが、夫婦は丸くなるべや。」

私の頬が思わずヒクッと引き攣る。尾形はこんな質問にもいつもしれっと答えるので、その度に反応に困ってしまっていた。「許嫁なんで」とか「床上手だから」など嘘八百なこともペラペラ喋ってたりするので、言葉の意味は深くは考えないようにはしている。

そんなこんなで、半田を出てから4日後、約100キロ南下した敷香に私達はたどり着いた。敷香町の中心部には宿も、飯屋も、問屋も、賭場も、集落にはない建物がたくさん揃っている。久しぶりの都会は、人が賑わっていて自然と心も踊る。せっかくなので大部屋の安宿ではなく、個室の綺麗な宿を数日ほど取った。値は張るが、身体を休めるにはゆっくりできるところが良い。

「薬など、必要な物の買い出しをしてきますね。尾形さんは身体を休めていて下さい。」

畳の匂いが真新しい部屋に荷物を置いて、尾形に声をかけた。布団を一組だけ敷いて寝るように促すが、何故か彼は眉を顰めて嫌な顔をしている。

「そう言って、杉元達を探しに行くつもりだろう。見え透いた嘘を吐くなんてまったく嫌な女だぜ。」

「………そんなに疑うんならもう行きませんよ。感染症で目の傷口から膿んで脳みそまでぐずぐずになっても知りませんからね。」

良かれと思って言ってるのにと、拗ねて頬を膨らませると、無言になる尾形。どうやら右眼窩の痛みとぶり返す熱を早くどうにかしたいとは思っているらしい。尾形は顎の髭を触りながら少し考えた後で、「寄り道せずにすぐに帰ってこい」とだけ言って、布団に入っていった。寒いと身体が堪えるようで、すぐに丸くなっている。私は丸くなった生き物に「行ってきます」と告げて、街へ繰り出した。

怪しそうな薬売りはスルーして、歩きながら薬局を探す。街の医院の近くに薬局があったので、消毒用のフェノールや、創傷用の軟膏、滋養強壮用の漢方薬などを購入した。西洋薬の解熱剤も売っていたのだが、成分がアセトアミノフェンではなく、アセトアニリドだったのでやめておいた。抗生物質がまだこの世に出回ってないのも口惜しい。安全そうな薬以外に、手当用の綺麗な布など色々買って薬局を後にした。

「あとは…食料品かな。」

塩屋や味噌屋、八百屋や商店などを廻る。大きいスーパーといった一個の店で完結出来ないのが面倒だが仕方がない。味噌屋の前を歩いていた時、視界の端に、コートを着た軍帽の男が目に入った。

「杉元…さん…?」

離れた距離から後を着いていくと、アシリパと谷垣達と合流して何やら話している。元気そうな姿に安堵するも、ふと足が止まった。ここで合流したらどうなるだろう。きっと尾形の場所を聞かれるはずだ。そして、杉元と鯉登が尾形を殺しに行く。

このまま彼らに声をかけ会いにいけばいいはずなのに。尾形に攫われて大変だったと言えば、皆は喜んで迎えてくれるだろう。そう頭では分かっているのに、私は宿へと踵を返した。街の喧騒が耳の奥を揺らす。会いたかった気持ちを抑え込む様に、襟をつかみながら深く息を吸った。

ーーーー

宿の暖簾をくぐり部屋に戻ると尾形が火鉢に当たりながら銃床を拭き上げていた。珍しく上機嫌のようだ。何かあったのかと尾形をジッと見ると、足元にガリレイ式の双眼鏡が落ちているのに気づいた。

「杉元達の所に戻らなかったんだな。」

尾形が左の口角を上げて愉快そうに言った。

「……離れても監視するのやめてくれます?」

買い出しの荷物を整理しながら尾形に抗議する。私の不満も彼の耳の右から左へ抜けていくようで、ハハッと乾いた笑いで返されるだけだ。やっぱり戻ってきて正解だった。杉元達と合流して尾形から銃を取り返しに行っても、彼はまた馬でも盗んで消えていただろう。

「それでどうします?この街にいる事は分かった事だし、アシリパさんを攫いにいきますか?」

今後の尾形の行動を把握するために彼の計画を尋ねる。

「いや、大泊に向かう。ここで攫ったとしても犬ゾリがあるあいつらに大泊で追いつかれる。できたら北海道行きの同じ船に乗って、宗谷に着いた時にアシリパを攫うのが好ましい。」

尾形が南樺太の地図を開きながら行き先を指していく。樺太先遣隊では月島とエノノカが先導を全部やってくれていたし、尾形達の道中はキロランケが案内してくれてたそうなので帰りは自分達だけでなんとかするしかない。

「じゃあ新問、元泊、白縫と海岸線沿いに南下しましょう。地図と方位磁石で頑張るしかないですね。」

「ああ。明日の朝には出立するから、荷物を纏めとけよ。」

分かりましたと答える前に、尾形の手が私の腰に伸びる。驚いて振り向くと、ギュッと腰に腕を巻き付け、私の背中に顔を伏せる尾形がいた。急に甘えたくなったのだろうか?戸惑いながら彼の頭を撫でると違うと頭を振られた。そしてより強く腰を抱きしめられる。

「どうしました?準備が出来ないんですけど…。」

「……目が痛い。…早く軟膏を塗ってくれ。」

突然のデレではなく苦痛の訴えだったようだ。私は急いで宿の帳場で番頭からお湯を貰いに階段を降りた。

チャポン。

ぬるま湯に布を浸す音が響く。尾形に膝の上に横たわってもらうと、絞った綿紗で彼の右目をそっと拭った。眼球がなくなったそれは空洞になっているので、水が溜まらないように慎重に扱う。結膜嚢や奥に軟膏を薄く塗り、乾くまで尾形の髪を梳くように撫でた。一度起き上がらせて、新しい包帯を解けないように巻き付けると、また膝の上に尾形を寝かせた。自業自得だが痛みで顔を歪ませた尾形が少し気の毒で、慰めるように子守唄を唄う。

「ちごよ ちごよねむれ ちごよよくねる ちごは蝶々のとぶのを見て ねむるひらひら ひーらひらひら ひーら桜の散るのを見て ねむる…」

鯉登に教えて貰った子守唄を唄い終わる頃には、眉間の皺も緩み、静かな寝息を立て始めていた。

「素直だとこんなに可愛いのにね。……人も自分を傷つける生き方は勿体ないですよ……。」

小さな独り言は部屋に響くことはなく、そっと障子に消えていく。11月に樺太に入ってもう3ヶ月。白い息が冬の長さを告げている。石油ランプの光は重なる二つの影をチカチカといつまでも照らしていた。


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