#1 朝はせわしく愛をおくられ
ピッ――
目覚ましが鳴った瞬間私より早く逞しい腕がその音の元へと伸びてボタンを押す。
ボタンが押されると当たり前だけど音は止んで代わりにムギュッと体温の高めの身体に抱き竦められた。
これが私の一日の始まり。
目覚ましで起きるというよりはこの抱擁が私に起きる時間だよと告げてくれる。
抱き締められる強さは日によってまちまちだけど居ることを確認するようにすり寄ってくる大きな獅子に毎朝可愛さを感じてしまうのは仕方のない事だと全世界に言いたい。
「っむ、抜け、ない」
時たま困るのは起きなければならないのにこの絡まる腕からなかなか抜け出せない事だ。
「よ、と」
口癖移っちゃったかななんて思いながら力のあまり入っていない腕をそっと引き剥がし抜け出してから息を一つ吐く。
「ふふ、おはようございます。杏寿郎さん」
未だ夢の中にいるのか薄く口を開けて寝ている旦那様の額に軽く口付を落として、廊下に面した障子を開ければ本日も晴天なり。
振り向いて寝ている杏寿郎さんを見れば眩しそうに眉根を潜めて口をもごつかせていた。
朝日を浴びて光る鮮黄色の髪の毛はやはり獅子を連想してしまうけれど、さっきのすり寄る仕草は獅子というよりは猫かな、と一人ニヨニヨしてしまう。
普段の快活さからは想像しづらい一面を堪能してから障子を閉めて私は母屋へ向かった。
* * *
「おはようございます!」
「おはようございます」
顔を洗って軽く身だしなみだけ整えて台所に行けば丁度お義母さん――瑠火さんも来たところで二人並んで台所に置いてあるエプロンを着ける。
彼――杏寿郎さんと結婚すると同時にこの煉獄家へと入った。
代々継いでいるという家系や威厳のある日本家屋に気後れしなかったと言えば嘘になるけれど、その弱気を打ち消してくれる彼と、そして一緒に住む彼の家族に私の笑顔は絶えない。
朝食の支度をしながら一緒に準備をする瑠火さんをちらりと盗み見る。
はぁ、瑠火さん今日も美しい……。
凛とした涼し気な目元と横に流している綺麗な黒髪に心を奪われながら朝食の支度をしているとくすりと笑われた。
「そんなに朝から熱烈に見られると杏寿郎に怒られてしまいますね」
そんな風に笑う顔も美しい。眉尻がちょっと下がって頬がほんの少しだけあがるお顔は朝から神々しさ400億点。
こんな人を嫁に貰ったお義父さん――槇寿郎さんが心底羨ましい。
朝から400億点笑顔に胸を抑えていたけれどご飯の炊ける音に現実に戻る。
だし巻き卵を手早く作り切り分け皿に盛り付けると瑠火さんがその隣に焼き魚の切り身を並べていく。
煉獄家大黒柱の槇寿郎さん、奥さまの瑠火さん、長男の杏寿郎さんに次男の千寿郎くん、そして私の五人分の朝食の準備はあっという間に進んでいく。
朝は戦争だから手早く進めないとみんなの準備がその分遅れてしまう。
炊飯器から炊けたばかりのご飯をお櫃に移して居間に運ぼうとすると次男の千寿郎くんが顔を覗かせた。
「おはようございます」
「おはよう、千くん。今日も早いね」
しっかりと身だしなみを整えた千寿郎くんに朝の挨拶をするとお櫃持っていきますね、とひょいと持っていかれてしまった。
そのスマートに手助けをしてくれる術は一体誰から教わったんだろう。
後は居間に運ぶだけとなったおかずや食器類を見やってからエプロンを外す。
「それでは杏寿郎さんを起こしてきます!」
「よろしくお願いします」
千寿郎くんに朝食の準備をバトンタッチをすると母屋を出て離れのような造りになっている私達夫婦の部屋に戻る。
朝出たときのように外廊下から障子を開けて部屋の中を見ると未だ布団で横になっている杏寿郎さん。
本当はもう起きているの知っているんだけどこれももう日課になっているため足音を立てずに近付いてこんもりしている布団に手を置きながら声を掛ける。
「杏寿郎さーん、起きてくださーい。朝食の準備出来ていますよ」
「むぅ……」
陽の光を受けて色素が薄くなったように見える髪を梳きながらもう一度声を掛けると梳いている手を掴まれて閉じていた彼の目がゆっくりと開いた。
外の陽に負けない揺らめくような赤い輪を描く瞳は、今日も曇ることなく太陽が昇ったと私を安心させる。
「おはよう、杏寿郎さん」
「ああ、おはよう」
遺伝子は間違いなく父の槇寿郎さんを色濃く継いでいるけれど柔く笑うと少しあがる頬の仕草は母の瑠火さん譲り。その柔さは何度も私のあらゆる凝りを解き溶かしていく。
「はい、しっかりと帯も締め直してください」
布団から起き上がりはだけてしまっている寝間着の浴衣の前を整えてあげていると身体が引き寄せられた。
「いい匂いがするな」
私の頭に鼻先を埋めてすんすんと匂いを嗅ぐ杏寿郎さんに朝から顔が熱くなる。
「朝食の準備していましたからね。きっと焼き魚の匂いだと思いますよ?」
「うむ……」
匂いの原因を言ったのに離れる気配のない杏寿郎さん。もうそろそろ槇寿郎さんも起きて居間に来る頃だから急がないといけないのに。
「寝惚けてる振りしても駄目です」
「む? バレていたか?」
寝起きのいい杏寿郎さんが寝惚けるなんて滅多にないし、何より“焼き魚”の単語を出したら彼のお腹の自己主張が凄まじい程聞こえてくる。
バレていたかなんてわざとっぽく言うのも確信犯だ。
ペチ、と身体を数度叩くと私から顔を離した杏寿郎さんは寝起き特有の気怠げな表情は完全になく、楽しそうにニコニコしている。私ばっかり熱くなって恥ずかしいな。
「先に居間に行っていますからね」
「待て待て、共に行こう」
手早く帯を締め直して羽織を羽織ると杏寿郎さんは部屋から出ようとする私の手を握ってきた。その手の温もりは寝起き特有の熱さで、水仕事をしていた私の手の冷たさを溶かしていく。
さり気ない優しさに嬉しくなって握られた手を握り返すとまた握り返される。
そんな風にお互い手だけで会話を楽しむように握り合いをしながら私たちは居間へと向かった。
「おはようございます!」
「おはようございます」
顔を洗って軽く身だしなみだけ整えて台所に行けば丁度お義母さん――瑠火さんも来たところで二人並んで台所に置いてあるエプロンを着ける。
彼――杏寿郎さんと結婚すると同時にこの煉獄家へと入った。
代々継いでいるという家系や威厳のある日本家屋に気後れしなかったと言えば嘘になるけれど、その弱気を打ち消してくれる彼と、そして一緒に住む彼の家族に私の笑顔は絶えない。
朝食の支度をしながら一緒に準備をする瑠火さんをちらりと盗み見る。
はぁ、瑠火さん今日も美しい……。
凛とした涼し気な目元と横に流している綺麗な黒髪に心を奪われながら朝食の支度をしているとくすりと笑われた。
「そんなに朝から熱烈に見られると杏寿郎に怒られてしまいますね」
そんな風に笑う顔も美しい。眉尻がちょっと下がって頬がほんの少しだけあがるお顔は朝から神々しさ400億点。
こんな人を嫁に貰ったお義父さん――槇寿郎さんが心底羨ましい。
朝から400億点笑顔に胸を抑えていたけれどご飯の炊ける音に現実に戻る。
だし巻き卵を手早く作り切り分け皿に盛り付けると瑠火さんがその隣に焼き魚の切り身を並べていく。
煉獄家大黒柱の槇寿郎さん、奥さまの瑠火さん、長男の杏寿郎さんに次男の千寿郎くん、そして私の五人分の朝食の準備はあっという間に進んでいく。
朝は戦争だから手早く進めないとみんなの準備がその分遅れてしまう。
炊飯器から炊けたばかりのご飯をお櫃に移して居間に運ぼうとすると次男の千寿郎くんが顔を覗かせた。
「おはようございます」
「おはよう、千くん。今日も早いね」
しっかりと身だしなみを整えた千寿郎くんに朝の挨拶をするとお櫃持っていきますね、とひょいと持っていかれてしまった。
そのスマートに手助けをしてくれる術は一体誰から教わったんだろう。
後は居間に運ぶだけとなったおかずや食器類を見やってからエプロンを外す。
「それでは杏寿郎さんを起こしてきます!」
「よろしくお願いします」
千寿郎くんに朝食の準備をバトンタッチをすると母屋を出て離れのような造りになっている私達夫婦の部屋に戻る。
朝出たときのように外廊下から障子を開けて部屋の中を見ると未だ布団で横になっている杏寿郎さん。
本当はもう起きているの知っているんだけどこれももう日課になっているため足音を立てずに近付いてこんもりしている布団に手を置きながら声を掛ける。
「杏寿郎さーん、起きてくださーい。朝食の準備出来ていますよ」
「むぅ……」
陽の光を受けて色素が薄くなったように見える髪を梳きながらもう一度声を掛けると梳いている手を掴まれて閉じていた彼の目がゆっくりと開いた。
外の陽に負けない揺らめくような赤い輪を描く瞳は、今日も曇ることなく太陽が昇ったと私を安心させる。
「おはよう、杏寿郎さん」
「ああ、おはよう」
遺伝子は間違いなく父の槇寿郎さんを色濃く継いでいるけれど柔く笑うと少しあがる頬の仕草は母の瑠火さん譲り。その柔さは何度も私のあらゆる凝りを解き溶かしていく。
「はい、しっかりと帯も締め直してください」
布団から起き上がりはだけてしまっている寝間着の浴衣の前を整えてあげていると身体が引き寄せられた。
「いい匂いがするな」
私の頭に鼻先を埋めてすんすんと匂いを嗅ぐ杏寿郎さんに朝から顔が熱くなる。
「朝食の準備していましたからね。きっと焼き魚の匂いだと思いますよ?」
「うむ……」
匂いの原因を言ったのに離れる気配のない杏寿郎さん。もうそろそろ槇寿郎さんも起きて居間に来る頃だから急がないといけないのに。
「寝惚けてる振りしても駄目です」
「む? バレていたか?」
寝起きのいい杏寿郎さんが寝惚けるなんて滅多にないし、何より“焼き魚”の単語を出したら彼のお腹の自己主張が凄まじい程聞こえてくる。
バレていたかなんてわざとっぽく言うのも確信犯だ。
ペチ、と身体を数度叩くと私から顔を離した杏寿郎さんは寝起き特有の気怠げな表情は完全になく、楽しそうにニコニコしている。私ばっかり熱くなって恥ずかしいな。
「先に居間に行っていますからね」
「待て待て、共に行こう」
手早く帯を締め直して羽織を羽織ると杏寿郎さんは部屋から出ようとする私の手を握ってきた。その手の温もりは寝起き特有の熱さで、水仕事をしていた私の手の冷たさを溶かしていく。
さり気ない優しさに嬉しくなって握られた手を握り返すとまた握り返される。
そんな風にお互い手だけで会話を楽しむように握り合いをしながら私たちは居間へと向かった。
* * *
「「「「「いただきます」」」」」
居間で五人の声が重なって賑やかに朝食が始まる。みんな家を出る時間は違うけれど食卓は可能な限り家族で囲む。
これは煉獄家の決まり事。瑠火さんは朝食を食べる様子を見て体調や調子を把握するんだとか。母は凄いなと思いながら自分の母もそうだったのかななんて思い返す。
「うまい! うまい!」
いつも元気良く食べる杏寿郎さんと対象的に槇寿郎さんや千寿郎くんは静かに箸を進める。何で杏寿郎さんだけこんな掛け声しながら食べるんだろうと昔聞いたら「感想は直ぐに言う主義だ」と返された記憶。
でもこうやって溌剌と「うまい!」って言われれば作り手としても嬉しいものだ。
お櫃に移したお米は男性陣のお代わりの声であっという間になくなり朝からみんなよく食べるなあと感心する。
一足先に食べ終わって先に台所に戻り片付けや弁当を詰めていると瑠火さんもやってきて準備の時と同じように二人並ぶ。
特に会話はないけれど蛇口から出る水音や食器類のぶつかる音だけがする台所はどことなく居心地がいい。朝食という朝の一大イベントを無事に終えたからかもしれない。
男性陣の中で一番早く食べ終わったであろう槇寿郎さんが自分の食器を持って台所にやってきた。朝は自分の食器は自分で片付ける。母である瑠火さんの朝の負担を極力減らそうとする男性陣の気遣いに瑠火さんがとても大切にされていると分かり心が穏やかになる。やっぱりいいな、こうやってみんなで協力し合ってお互いを大切にする家族。
「流しにそのまま置いてしまってください」
そう指示を出すと槇寿郎さんは「ん」と小さく呟いて食器を置く。台所から出る時に槇寿郎さんはコホンと咳払いをして「今日も美味かった。ご馳走さま」とだけ聞こえるか聞こえないかの声音で言うとそそくさと台所を後にした。
これも毎日の事だけどその「美味しい」の一言は嬉しくてニコニコしてると瑠火さんも微笑んでる。
うう、この夫婦本当に素敵だっ!
朝からこんな幸せでいいのだろうかと思いながらまた作業に戻ると今度は杏寿郎さんと千くんが食器と空になったお櫃を持ってきた。
兄弟仲良く「ご馳走さまでした」と声を掛けてくれて瑠火さんの躾の良さを感じる。
「お粗末さまでした」
元気な挨拶に元気に返すと二人同じく笑いながら台所を後にしていった。
お弁当箱を3段重ねて風呂敷をキュッと結べば杏寿郎さんのお昼ごはんの出来上がり。
横には所謂普通サイズのお弁当箱が二つ。こっちは槇寿郎さんと千寿郎くんの分。
成長期もとっくに終わったはずの長男のお昼の量が一番多いのは気にしない。代謝がいいのだきっと。
「今日も朝からお疲れさまです。そろそろ部屋に戻りましょう」
準備を終えてエプロンを外しながら瑠火さんから労りの言葉を貰って私もエプロンを外す。
「今日もみんな元気良さそうで何よりですね」
瑠火さんも同じ意見で「喜ばしいことです」って私に微笑んでくれる。
朝の程良い疲れも瑠火さんの笑顔で吹き飛び、足取り軽く部屋に戻れば杏寿郎さんがシャツのボタンを留めているところだった。
「戻りましたー」
「おかえり!」
腕のボタンを留めている仕草カッコいいななんて思いつつ私は大事なお役目を果たすべくクローゼットを開ける。
「この色かな」
そうやって出したのは深い臙脂色の一本のネクタイ。
「今日の色はそれか?」
「今日職員会議あるって言ってましたよね?」
後ろから私の手元を覗き込む杏寿郎さんに頭を上げて答えると顔が逆さまに見えて何だか面白い。
「ああ、月に一度の中高の先生方全員が集まる会議だ」
「じゃあこの色で今日は大人の魅力を出していきましょう」
「む?」
ちょっと首が痛くなってきたので頭を元に戻してから半回転、杏寿郎さんに向き合う形になるとなにやら難しい顔をしている。
「どうしました?」
「魅力とは……」
杏寿郎さんが言いかけたと同時に母屋の方から「行って参ります」と大きく響いた千寿郎くんの声。千寿郎くんが出たとなると杏寿郎さんの出発時間も迫っているはずだ。
「もうそんな時間!? 杏寿郎さん、かがんでもらっていいですか?」
杏寿郎さんが素直にかがんでネクタイを通しやすいように頭を傾けてくれることにお礼を言ってネクタイを締めていく。
「そういえば何か言いかけていましたよね?」
「む? いや……。今日は会議があるから帰りは遅くなりそうだ」
「夕食どうしましょうか?」
「帰る前に一度連絡はするが途中で食べて帰ったりする事はないから俺の分もよろしく頼む」
「了解です」
会話が終わると同時にネクタイも締め終わりちょっと後ろへ下がって全体を確認する。
うんうん、渋い色味が杏寿郎さんの魅力をより引き立たせている。うちの旦那様が今日も一等格好いい。
朝の自分の責務を無事果たしたことに満足してふんすふんすしているとするりと腰に手が回ってきた。
「今日もありがとう!」
「どういたしまして」
朝起きるときと同じようにムギュッと抱き締められるけど寝起きと違うのは私も抱き締め返すこと。あ、最近新調した香水も付けてる。甘渋い香りが私を包む。
今日も一日頑張ってきてくださいと無事に帰ってきてくださいの想いを込めてシャツに皺が入らない程度に腕に力を込める。
さて! お見送りの時間だと二人揃って母屋を通って玄関へ向かう。玄関先で杏寿郎さんにお弁当を渡して「行ってらっしゃい」をしようとしたら首元に目が行った。
「あ、ネクタイちょっと歪んでるので直させてください」
杏寿郎さんに近付いてネクタイの歪みを直して玉の部分を整える。よし、と思って下がろうとしたら腰に手が回ってくる。
あれ? さっきも同じように腰に手が回されたよね? なんて思ったら唇に柔らかい感触。
唇が押しつぶされて離れる際に名残惜しいとでも言うように舌で軽く舐められた。
「ちょっ! ここ玄関ですよ! 誰かに見られたらどうするんですか!?」
「大丈夫だ! 母上しか見ていない!」
「へ?」
笑う杏寿郎さんと反対に私の顔は青ざめていく。
「杏寿郎、そろそろ出ないと間に合いませんよ」
「はい! 行って参ります!」
「行ってらっしゃい」
瑠火さんは静かに見送りの言葉を発したけれど私は何も口に出せずに手だけ振って見送った。
気まずいまま私だけを置いて元気に出ていった杏寿郎さん。もぬけの殻の玄関を恨めしく見ていたら横に瑠火さんが来る。
「仲良き事は母も嬉しい限りです」
「すすすすみません! わ、私! 洗濯物を集めて来ます!」
ダメ押しとも言える瑠火さんの言葉にいたたまれなくなって私は逃げるように自分たちの部屋へ走る。
「隠さずともよいのに」
そんな瑠火さんの呟きなんて羞恥心でいっぱいの私の耳に届くことはなかった。
「「「「「いただきます」」」」」
居間で五人の声が重なって賑やかに朝食が始まる。みんな家を出る時間は違うけれど食卓は可能な限り家族で囲む。
これは煉獄家の決まり事。瑠火さんは朝食を食べる様子を見て体調や調子を把握するんだとか。母は凄いなと思いながら自分の母もそうだったのかななんて思い返す。
「うまい! うまい!」
いつも元気良く食べる杏寿郎さんと対象的に槇寿郎さんや千寿郎くんは静かに箸を進める。何で杏寿郎さんだけこんな掛け声しながら食べるんだろうと昔聞いたら「感想は直ぐに言う主義だ」と返された記憶。
でもこうやって溌剌と「うまい!」って言われれば作り手としても嬉しいものだ。
お櫃に移したお米は男性陣のお代わりの声であっという間になくなり朝からみんなよく食べるなあと感心する。
一足先に食べ終わって先に台所に戻り片付けや弁当を詰めていると瑠火さんもやってきて準備の時と同じように二人並ぶ。
特に会話はないけれど蛇口から出る水音や食器類のぶつかる音だけがする台所はどことなく居心地がいい。朝食という朝の一大イベントを無事に終えたからかもしれない。
男性陣の中で一番早く食べ終わったであろう槇寿郎さんが自分の食器を持って台所にやってきた。朝は自分の食器は自分で片付ける。母である瑠火さんの朝の負担を極力減らそうとする男性陣の気遣いに瑠火さんがとても大切にされていると分かり心が穏やかになる。やっぱりいいな、こうやってみんなで協力し合ってお互いを大切にする家族。
「流しにそのまま置いてしまってください」
そう指示を出すと槇寿郎さんは「ん」と小さく呟いて食器を置く。台所から出る時に槇寿郎さんはコホンと咳払いをして「今日も美味かった。ご馳走さま」とだけ聞こえるか聞こえないかの声音で言うとそそくさと台所を後にした。
これも毎日の事だけどその「美味しい」の一言は嬉しくてニコニコしてると瑠火さんも微笑んでる。
うう、この夫婦本当に素敵だっ!
朝からこんな幸せでいいのだろうかと思いながらまた作業に戻ると今度は杏寿郎さんと千くんが食器と空になったお櫃を持ってきた。
兄弟仲良く「ご馳走さまでした」と声を掛けてくれて瑠火さんの躾の良さを感じる。
「お粗末さまでした」
元気な挨拶に元気に返すと二人同じく笑いながら台所を後にしていった。
お弁当箱を3段重ねて風呂敷をキュッと結べば杏寿郎さんのお昼ごはんの出来上がり。
横には所謂普通サイズのお弁当箱が二つ。こっちは槇寿郎さんと千寿郎くんの分。
成長期もとっくに終わったはずの長男のお昼の量が一番多いのは気にしない。代謝がいいのだきっと。
「今日も朝からお疲れさまです。そろそろ部屋に戻りましょう」
準備を終えてエプロンを外しながら瑠火さんから労りの言葉を貰って私もエプロンを外す。
「今日もみんな元気良さそうで何よりですね」
瑠火さんも同じ意見で「喜ばしいことです」って私に微笑んでくれる。
朝の程良い疲れも瑠火さんの笑顔で吹き飛び、足取り軽く部屋に戻れば杏寿郎さんがシャツのボタンを留めているところだった。
「戻りましたー」
「おかえり!」
腕のボタンを留めている仕草カッコいいななんて思いつつ私は大事なお役目を果たすべくクローゼットを開ける。
「この色かな」
そうやって出したのは深い臙脂色の一本のネクタイ。
「今日の色はそれか?」
「今日職員会議あるって言ってましたよね?」
後ろから私の手元を覗き込む杏寿郎さんに頭を上げて答えると顔が逆さまに見えて何だか面白い。
「ああ、月に一度の中高の先生方全員が集まる会議だ」
「じゃあこの色で今日は大人の魅力を出していきましょう」
「む?」
ちょっと首が痛くなってきたので頭を元に戻してから半回転、杏寿郎さんに向き合う形になるとなにやら難しい顔をしている。
「どうしました?」
「魅力とは……」
杏寿郎さんが言いかけたと同時に母屋の方から「行って参ります」と大きく響いた千寿郎くんの声。千寿郎くんが出たとなると杏寿郎さんの出発時間も迫っているはずだ。
「もうそんな時間!? 杏寿郎さん、かがんでもらっていいですか?」
杏寿郎さんが素直にかがんでネクタイを通しやすいように頭を傾けてくれることにお礼を言ってネクタイを締めていく。
「そういえば何か言いかけていましたよね?」
「む? いや……。今日は会議があるから帰りは遅くなりそうだ」
「夕食どうしましょうか?」
「帰る前に一度連絡はするが途中で食べて帰ったりする事はないから俺の分もよろしく頼む」
「了解です」
会話が終わると同時にネクタイも締め終わりちょっと後ろへ下がって全体を確認する。
うんうん、渋い色味が杏寿郎さんの魅力をより引き立たせている。うちの旦那様が今日も一等格好いい。
朝の自分の責務を無事果たしたことに満足してふんすふんすしているとするりと腰に手が回ってきた。
「今日もありがとう!」
「どういたしまして」
朝起きるときと同じようにムギュッと抱き締められるけど寝起きと違うのは私も抱き締め返すこと。あ、最近新調した香水も付けてる。甘渋い香りが私を包む。
今日も一日頑張ってきてくださいと無事に帰ってきてくださいの想いを込めてシャツに皺が入らない程度に腕に力を込める。
さて! お見送りの時間だと二人揃って母屋を通って玄関へ向かう。玄関先で杏寿郎さんにお弁当を渡して「行ってらっしゃい」をしようとしたら首元に目が行った。
「あ、ネクタイちょっと歪んでるので直させてください」
杏寿郎さんに近付いてネクタイの歪みを直して玉の部分を整える。よし、と思って下がろうとしたら腰に手が回ってくる。
あれ? さっきも同じように腰に手が回されたよね? なんて思ったら唇に柔らかい感触。
唇が押しつぶされて離れる際に名残惜しいとでも言うように舌で軽く舐められた。
「ちょっ! ここ玄関ですよ! 誰かに見られたらどうするんですか!?」
「大丈夫だ! 母上しか見ていない!」
「へ?」
笑う杏寿郎さんと反対に私の顔は青ざめていく。
「杏寿郎、そろそろ出ないと間に合いませんよ」
「はい! 行って参ります!」
「行ってらっしゃい」
瑠火さんは静かに見送りの言葉を発したけれど私は何も口に出せずに手だけ振って見送った。
気まずいまま私だけを置いて元気に出ていった杏寿郎さん。もぬけの殻の玄関を恨めしく見ていたら横に瑠火さんが来る。
「仲良き事は母も嬉しい限りです」
「すすすすみません! わ、私! 洗濯物を集めて来ます!」
ダメ押しとも言える瑠火さんの言葉にいたたまれなくなって私は逃げるように自分たちの部屋へ走る。
「隠さずともよいのに」
そんな瑠火さんの呟きなんて羞恥心でいっぱいの私の耳に届くことはなかった。