#2 昼はゆるりと懐古にふけて
いつもならのんびり居間でお茶とかするのに、朝の一件があって瑠火さんと顔を合わせるのが恥ずかしい私は洗濯や掃除以外で部屋から出ることはあまりなかった。
それでも時間はあっという間に過ぎていきお昼の頃合い。お昼ご飯の準備をしようと台所に行けばもう瑠火さんが準備をしている。
「遅くなってすみません」
「そんなに焦らずとも大丈夫ですよ」
朝の私の無礼を咎めるどころか優しい言葉をかけてくれる瑠火さんに涙が出そう。
お昼は軽くお茶漬けにしましょうと言われるけど朝食で使わなかった魚を細かく刻んで入れたりしてそれなりに手は込んでいるお昼を二人居間で食べる。
お昼ご飯も食べ終えお茶を飲んで一息ついてから意を決して朝の話題を出した。
「朝はお恥ずかしい所を見せてしまいすみません」
今思い出しても恥ずかしさしかない。アングル的に決定的な場所は見えてないかもしれないけれど人目のつくところで何をはしたないと言われてしまったらぐうの音も出ない。
「先程は聞こえていなかったかもしれませんが私は気にしておりませんよ」
「でも恥ずかしいです……」
「貴女と杏寿郎が結婚して一年程でしょうか? そういう時期は誰にでもありますし、あって良いことです」
「人生の後輩として聞きたいのですが……瑠火さんは槇寿郎さんとはいつまでそういった事を……?」
思い切って聞いてしまった。だって瑠火さんと槇寿郎さんは傍目で見て直ぐ分かる程に仲が良い。
槇寿郎さんは瑠火さんに心底惚れ込んでいるし瑠火さんもそんな槇寿郎さんが愛しくてしょうがないって雰囲気が滲み出ている。
瑠火さんは私たちの話から自分の事へと話題が移ったことに一度瞬きをすると少し考え込んでから顔をほんのり紅くさせた。
あ、これは今でもラブラブなやつだ。私の第六感がそう告げる。
「瑠火さんと槇寿郎さんは今も仲が良いんですね」
「……私の事はよいのです」
あれ? もしかして瑠火さんと槇寿郎さんのそんなやり取りを見て育った杏寿郎さんだからそれが当たり前になっているのかな? そう考えれば朝の堂々とした態度も納得がいくけど――。
「ちなみに仲の良いところを杏寿郎さんや千くんに見られたりとかは?」
「子どもは見てないようで見ているものです……」
やっぱり。そういった風景が日常で育ったから杏寿郎さんは瑠火さんに見られたことに対してあっけらかんとしていたんだと改めて知った。
お昼後の休憩も終えて私と瑠火さんはそれぞれ別な事を始める。
私は庭に出て洗濯物の乾き具合を確認して、もう少しかなと廊下に戻り日向ぼっこをしていたら後ろで気配がした。
瑠火さんが書道具の手入れを始めたみたい。瑠火さんは書道教室の先生をしているからか様々な筆を並べて毛先の確認をしている。
それを傍に行って見させてもらう。懐かしいなと感じるのは私もかつてはそこの生徒だったから。
書道教室に通い始めたのは新社会人になって一年経つか経たないかの頃。
新米だったのもあるけれど、仕事が終わらなくて毎日ほぼ終電の生活。家は寝るためだけに存在していて休みの土日も何の気力も起きない。新生活が始まるからといって意気揚々と買った家電や調理器具は活躍することなく埃を被っていた。
暫くそんな生活を続けていたけれどこれじゃ精神的に良くない、何か外に出る無理やりな理由を作るために習い事を始めようと思っていた時。ポストに入ってくるDMなんて中身を見ずにゴミ箱に入れるのに一つだけ目に止まったのがあった。
「書道教室≠フ生徒募集」のハガキサイズのDM。
家から近いし字も綺麗になれば心が落ち着くかななんて軽い気持ちで土日の教室に申し込む。
それが「煉獄書道教室」――私の人生の分岐点だった。
煉獄書道教室は昔ながらの日本家屋の道場を改築して開かれていた。昔は剣術道場をやっていたらしいけどその面影はもう見当たらない。
土日の休みに書道を習おうなんて人はあまり居ないようで生徒は大人が数人。
書道教室の煉獄瑠火先生はとても物静かでいつも涼しい目元をしていた。こんな綺麗な人をお嫁に貰える人って一体どれだけ徳の高い人なんだろう。
先生の指導は無駄がなく、言われた箇所に気を使えば確かにバランスの取れた文字になっていく。それが目に見えて分かるのも嬉しいし、硯で墨を磨ることに集中する時間はひどく落ち着いた。
書道教室に通い始めて三ヶ月程経つとほぼ私だけの個人授業になっていて、一度それが申し訳なくて時間を変えた方がいいかと聞いたら「気にすることはありません」と柔らかく微笑ってくれた。その時私は瑠火先生のファンになったんだっけ。
それから書道の合間に瑠火先生と色んな話をした。仕事のこと。私生活のことや瑠火先生のお家のこととか。
いつも私の話をちゃんと聞いてくれて時には一緒に笑い話をしたりする時間はとても楽しくて。思い切って「瑠火さんって呼んでもいいですか?」って聞いたら照れながら「どうぞ」って答えてもらえたときは告白が成功したような気分になった。
「今日もありがとうございました。瑠火さんのお子さんにも今度会ってみたいです」
その言葉を言って書道教室を後にしてから私はまた仕事に忙殺され、土日も出勤する生活で暫く教室に行けなくなった。
「君の字は雄々しいな!」
初めて話しかけられた言葉は“強烈”の一言に尽きる。
久しぶりに休みが出来て瑠火さんに癒やされようと体を引きずる思いで教室に行く。
瑠火さんが席を少し外すと言って一人教室で書道をしていた時だった。仕事で精神に余裕がなく、とてつもなくよく言えば“雄々しい”。だけど実際は墨と筆を乱雑に扱った結果の汚い文字。心の中がそのまま文字となって吐き出されている。
お世辞にも褒める要素が一切ない文字を書いてしまい、半紙を丸めて捨てようとしたら後ろからそう言われたのだ。
「……どうも」
「俺は煉獄杏寿郎と言う。この書道教室の息子だ」
お子さんに会ってみたいとは言ったけれどこんな大きい息子が居るとは思わなかった。瑠火さんの話しぶりからして高校生くらいだと思っていたから。
名乗りをされて自分も返さないわけにもいかず自分の名前を告げる。
「俺は高校で教鞭を取っているのだが中々にやることが多く忙殺されてしまってな。心を落ち着けるためにこうして書をすることにしたんだ。共に学ぼう!」
このテンションの高い人なんなの? 本当に瑠火さんの息子さんなの? ってくらいにテンションが高い。鼻筋や口元は似てなくもないけど。
よろしく頼む! と握手を求められて条件反射で出した手をギュッと握られる。
ハキハキした喋りは学校の先生だからか。本当に瑠火さんの息子? と聞こうとしたら瑠火さんが奥から戻ってきた。
「杏寿郎、ふらふらせずに席につきなさい」
「失礼しました。母上」
いつまでも母に頭があがらなさそうな様子に本当に息子らしいと察して疑問を心の中に戻す。
彼は私の二つ斜め前に正座すると背筋を伸ばして筆を手に取った。姿勢綺麗だし瑠火さんの息子だし字も綺麗な――。
「どっせい!」
ビックリした。何にビックリしたって腹の底から出したであろう気合の入った声が教室内に響いたから。
書道する時に掛け声とか著名な書道家以外で見るの初めてだよ。
瑠火さんはいつもの事と顔色一つ変えずにいたことにも驚いた。
「母上! 出来ました!」
彼は子どものような笑顔でまだ墨の乾いていない半紙を高くあげ自席から瑠火さんに見せている。
ああ、その笑顔はいいかもしれない。見ているだけで安心するというか、こっちも自然と笑顔になってしまう感覚。
後ろの私からも文字が見えるほどに半紙に墨がベッタリしていて目を細めて読んでみると「精神一到」と書かれているのが分かった。えーと……何だっけ? 四字熟語だよね? そこらへんに疎い私にはどういった意味を持っているのかちゃんと理解できないけど根性論的な事? そうだとしたら私はこの人と相容れない。無理。今の私は根性論とか受け付けない単語になっている。
笑顔にほっこりしたのも一瞬で私の心はまた凍りついていく。
「杏寿郎。良い所を見せたいのは分かりますが落ち着きなさい」
「不甲斐なし!」
照れ隠しのようにまた大きな声を出した後はただ静かに書道をしていたから私ももう気にすることなく目の前の半紙に向き合った。
久しぶりに書道をして少しすっきりしたと感じても日頃の疲れが取れるわけではなく、教室を出てからため息をつく。明日は日曜で休めるけどそれが終わればまた仕事だと思うと憂鬱で仕方ない。
帰りにお酒でも買って帰ろう。飲んで嫌なことは忘れよう。
気持ちを入れ直して足を踏み出そうとしたら後ろから声を掛けられる。後ろを向けば瑠火さんの息子さん。名前は確か――。
「杏寿郎だ!」
私の考えを見透かしたような答えに一瞬怯んだけれど私の意識は家に帰ってお酒が飲みたい≠ノなっている。早いところ話を切り上げてしまおう。
「杏寿郎さん、今日はお疲れさまでした」
瑠火さんも“煉獄”だし息子さんだけ名字で呼ぶのも変な気がして名前を呼べば満足そうに笑った。根性論とかなければこの人の笑顔好きなんだけどな。
「呼び止めてすまない。渡したいものがあって。疲れているようだったから」
そう言って渡されたのは小さな包みに入った飴玉。
「糖分を摂取すると疲れも軽減され結果余裕ができる」
言っていることは理路整然と正しい事を言っているけれど私にはそれが癪に障った。
「お気遣いありがとうございます。でも放っておいてくれますか?」
差し出された手から目を逸らしてぶっきらぼうに返す私は誰がどう見ても可愛げのかけらもない。だから会社でも「少しは愛想よくしろ」と言われる。
誰が好き好んでぶっきらぼうな態度をするものか。仕事ばかりの疲弊した身体で笑顔でいたら今度は「まだ仕事を頼める」の悪循環。もうイヤだ。
折角会社がない日なのに仕事のことを思い出して本格的に気分が落ち込んでいく。
もう帰ろう。この目の前の人とももう関わりたくない。目を逸らしたまま私は体を反転させると今度こそ家への道を歩き出した。
「また来週!」
そんな私の態度に怒ることもなく笑顔で手を振る彼を無視してお酒も買わずに家に帰る。家に着いたと同時に鞄を放り投げた。もう来週から行くの辞めよう。今月始まったばかりで月単位の会費は勿体ないけど土日にまで疲れたくない。“仕事に忙殺されて”と彼は言っていたけれど私はあんな風に笑ったり誰かの心配なんてできない。その眩しさに自分が惨めになる。
こみ上げてくる劣等感や泣きたい気持ちを深呼吸してやり過ごし、放り投げた鞄を持ち上げると外のポケットから何か落ちた。
何だろうと思って拾ってみれば彼――杏寿郎さんが渡そうとしていた飴。
いつの間にねじ込んだんだろう……。
「捨てるのも勿体ないし」
誰も居ないのに言い訳するようにその場でピリっと音を立て包み紙を広げて口に入れる。
「甘っ」
口の中に広がる甘さが凍った気持ちを溶かして、私は社会人になって初めて泣いた。
「何か楽しいことでもありましたか?」
声を掛けられて瑠火さんを見れば私の大好きな笑みを浮かべている。どうやら自然とニコニコしていたようだ。
「杏寿郎さんと初めて会ったときの事を思い出していました」
「家ではよく貴女の話をしていたんですよ」
「え! そうなんですか!?」
瑠火さんが一生徒の私のことを家で話していたなんて初耳だ。
「貴女が私の息子に会ってみたいと言ってくれたので声を掛けてみたのです」
「そうだったんですね」
「ふふ」
少し声を出して微笑う瑠火さんが珍しくて見ているとごめんなさいと謝られてしまう。不躾にみていたのは私の方なのに。
「貴女の事を話す度に杏寿郎が珍しく興味を持っていたのです」
初耳のオンパレードにどこから驚いていいか分からない。
「字は人を表します。貴女の柔らかくも真っ直ぐ伸びる字に杏寿郎も何か感じるところがあったのでしょう」
瑠火さんの慈悲深い笑みに恐縮しきりでソワソワしてしまう。
「最初は杏寿郎さんが本当に瑠火さんの息子さんなのか信じられなかったです」
「私が言うのも変ですが、杏寿郎は長男としての自負を持ち人一倍努力を重ねてきました」
うん。今なら瑠火さんの言葉にすぐ頷ける。
初めて会ったときは瑠火さんの物静かさと杏寿郎さんの溌剌さが合致しなかったけれど、回数を重ねる毎に人となりを知って間違いなく瑠火さんのお子さんだと感じた。
真っ直ぐ伸びた背筋、凜とした揺るがない瞳。人を安心させる雰囲気を作る術は瑠火さんととても似ている。
飴を貰って家で一人泣いてしまった翌週、結局書道教室に行って彼にお礼を言うと、彼は良いことをして褒められたように笑うから少しだけときめいてしまったのは私だけの秘密。
―ポーン…ポーン……
壁に掛けている時計がそろそろ夜に向けて支度を始めなさいと告げて瑠火さんは出していた筆を入れ物に収めていく。
今日は金曜日で教室のない日だから瑠火さんも比較的ゆっくりした動作だ。指先一つ取っても綺麗な所作にいつまでも見ていたい気持ちになるけどそうも言ってられない。
「そういえば千くん今日テスト返却日だって言っていましたね」
朝食時に得た情報を思い出して口にしてみれば私と瑠火さんの考えは同じ所に行き着いた。
「今日の夕食は千寿郎のテストの結果次第ですね」
「ですね!」
優等生な千寿郎くんだからテストの結果に心配はしていないが名前の書き忘れとか万が一もある。
千寿郎くんが帰ってくる前に全て取り込んでしまおうと、私は庭石にあるサンダルに足を突っ込みながら乾いたであろう洗濯物の元へ向かった。