やうやう積もるは恋う色:1
幼い時は父上には剣道を、母上からは書を習っていたからか俺も教えを説く道を選んだ。
俺がキメツ学園に赴任して三年目、初年度こそ指導してくれる先輩が居たが、今年は基本的に全て自分で授業の資料を作ったり指導計画を立てたりしていく。参考書や同僚、昨年の先輩に聞きながらの作業は想定以上に時間がかかり、気付けば眉間の皺が増えていた。
資料作成は苦手ではないが流石に量の多さに自分の効率が悪いのか、もしかして自分はこの職に不向きではないのだろうか——らしくもない考えが頭の片隅に黒いモヤとして燻り始める。
日曜の午後、自室に一人籠もりパソコンに向き合っているのを中断して眉間の皺をほぐしながら息をついた。
仕事以外の事を考えようとすれば、そういえば母上が最近土日も書道教室を始めると言っていた事を思い出す。何でも平日には来られない人もいるだろうから門戸を広げたいとの事かららしい。父上は自分の休日である土日に一緒に過ごせる時間が減るからと反対していたが、結局は母上が押し切っていたな。
剣術道場が書道教室に改装されてからまだ数えるほどしか足を踏み入れていない。集中の切れた俺はなんとなく改装された書道教室へ足を向けた。
母上に教室へ続く扉の鍵を借りて足を踏み入れると、籠もる墨の匂いに昔を懐かしく感じる。ぐるりと教室内を見渡せば壁には作品が貼られていて、直近一週間で各生徒が書いたものだろうとそれらを何となしに見ていたら一つ、目に止まるものがあった。
“飛翔”の二文字。
少し揺れる文字は迷いをそのまま表している。飛び立つのを恐れているのか、戸惑っているのか——。
「その書が気になりますか?」
暫くその文字の前で立っていると母上がやってきて俺の隣に立った。
「母上、この方はどんな方でしょうか?」
ただの興味本位。本来はこういった事を聞くべきではないのだが、どういった気持ちで書いたのかが知りたかった。
「誰でもそうですが、その週の仕事などに左右された字が顕著に出る方です」
「……素直な方なのですね」
「ええ、素直でとても吸収がよく書の上達も早いです」
仕事、という事は学生ではなくこの生徒は社会人か。この日は何か迷いがあったのだろうか。今の俺のように——。
他の作品もあるのかとまでは流石に口にする事は出来ない。だから俺は過去の事よりこれからのその人の作品を見ようと思い、その日から毎週日曜に書道教室に足を運ぶ事が多くなった。
——今日はか細い字を書いている。悩みが絶えないまま週末を迎えてしまったのか。
——今日は実に逞しい字だ。真っ直ぐ伸びた線が気持ち良い。何かいい事や誇れる出来事でもあったのか。
——今日は墨が薄く随分と柔らかい印象を受ける。穏やかな心持ちで書けているのか。
——いつもより文字が小さい。気を塞ぐような事がその身に起きているだろうか。
毎週そうやって顕著に字に表れる会ったこともない人の心情を慮り、対して俺自身はどうだったかと振り返る事で勝手に親近感を覚えていく。書道教室への入室許可をもらいに行く度に母上は何も言わずにただ鍵を貸してくれるだけだった。
二ヶ月経つか経たないかの頃、さて今週はどうだったのだろうかと習慣となっている書道教室への入室許可を貰いに母上の所へ足を運べば、母上も丁度向かうところだったらしく二人並んで廊下を歩く。
「最近、少し肩の力が抜けてきたようですね」
道すがら母上が漏らした言葉に俺の迷いが見抜かれてしまっていたかと反省する。
「心配をお掛けして不甲斐なし!」
「最初は慣れぬ環境に戸惑うことも多いと思いますが、今の貴方なら大丈夫そうですね」
安心したような声音に、父上同様俺はこの先ずっと母上には頭が上がらないのだろうと思った。
「む?」
教室に入りいつも掲げられている場所に迷うことなく向かえば作品がない。場所を変えたのだろうかと見回してもその人の判子——落款印が押されているものは無かった。
「昨日は仕事があるからと欠席の連絡がありました」
「そうなのですか……」
体調不良などではないのかと一安心したが、母上に毎週この人の書を見ている事が筒抜けの様子で若干の恥ずかしさを覚える。改めて作品を思い返してみれば先週は文字が全体的に小さかった。気を塞いでしまう事があったのかと思っていたが仕事の多忙に嘆いていたのだろうか。
土曜も仕事とは労働基準法などどうなっているのだと考えてしまうが、自分も家で資料を作ったりしているからどこも変わらないのかなんて思ってしまう。
「杏寿郎」
「はい」
「頑張るのは良い事です。ですがそれはまず自身の心の余裕や幸せがあっての事です」
「はい」
「昔、あなたに言ったことを覚えていますか?」
「……」
母上からの教え——それはいくつも、それこそ日常の何気ない会話の中でも沢山ある。現に今言われた言葉だってそうだ。
その中で一番の教えと言えば——。
「強き者は弱きを助けるのが責務です」
「よくできました。貴方は自分で今回の悩みを乗り越えられた強い子です。母はそう信じています」
「ありがとうございます」
「その責務、ゆめゆめ忘れぬように在りなさい」
「はい!」
それはとても重く、俺の中に深く深く沈んで一番深いところに刺さる。
次の週、その次の週もその人の書は貼られてはおらず、母上に伺いを立ててみようかと思っていた頃。机に転がっていた糖分摂取用の飴を舐めようと手を伸ばす。二種類ある味の内どちらを食べようかと両方を手に取ったところで俺の部屋の入り口に人の気配がした。土曜の書道教室の時間帯に珍しく母上が教室から離れて俺の部屋を訪ねてきたのだ。
「杏寿郎、貴方が気にしている方が久方振りに見えましたよ」
俺にその旨を伝えに来た母上は分かりづらくはあるが嬉しそうにしている。久し振りに見た姿が嬉しかったのだろうか。
「そう、ですか。ですが今なぜそれを俺に?」
素直に疑問に思った事を口にすれば母上は今度は目に見えて喜色を顔に浮かべた。
「その方が以前言っていたのです。“機会があれば私の子にも会ってみたい”と」
その一言に俺の次の行動は決まる。会ってみたいと密かに思っていた相手が向こうもそう思ってくれていたのだ。会わないという選択肢などとうに持ち合わせていない俺は、身なりを確認すると急ぎ書道教室へ向かう。
考えていなかったわけではなかったがその人が女性だった事に少なからず内心驚いた。ただ俺は純粋にその人と言葉を交わしたいと思っていただけだったから。
「俺は高校で教鞭を取っているのだが中々にやることが多く忙殺されてしまってな。心を落ち着けるためにこうして書をすることにしたんだ。共に学ぼう!」
完全にその場で思い付いた言葉を勢いで言っている俺は、きっと誰がどう見ても浮かれていただろう。