#1
杏寿郎さんと付き合い始めてからも、相変わらず私は毎週土曜日、煉獄書道教室に通っている。
杏寿郎さんが仕事で居なくても書道教室の前に夕食を瑠火さんと作ること、書道教室が終わったらそのまま煉獄家で食卓を囲むことも変わらない。
ちょっと変わったのは土曜の帰りに私の家まで送ってもらうではなく、私の家かもしくは少し前から始めた杏寿郎さんの一人暮らしの家におじゃましてそのまま泊まること。
学生たちの夏休みはとっくに終わって、頬に当たる風は熱を無くしていた。
一時間程度の残業で帰れた週末の金曜日、スーパーで安売りしていた缶ビールと惣菜、いくつかつまみを買って家路につく。
今日は楽をしようと決めていたからこれだけ。
いつもの道だけど、人がいつもより多いのは私が早く帰れた証拠だから嬉しくて足取りも軽くなる。
杏寿郎さんも忙しさは一段落したって言ってたし、夜のデートでもお誘いしてみれば良かったかな。
でも明日は土曜日で書道教室や夕食で会えるし、それに今日のご飯買っちゃったし――。
会いたいけど諦めるための言い訳を自分にしながら、マンションに一番近いコンビニが見えたとき、スマホがメッセージを受信して震えた。
「仕事じゃありませんよーに」
エコバッグを持ち直して確認すれば、今考えていた人物の名前が表示されている。
《今日の仕事は終わっただろうか?》
《終わりました! 買い物も終わって今いつものコンビニを通り過ぎるところです》
“いつものコンビニ”っていうのは、付き合う前――書道教室に一生徒として通っていたときから、帰りに送ってもらう際に使っていたコンビニ。
この角にあるコンビニを曲がれば直ぐに私の住むマンションだから、いつもここまで送ってもらっていた。
簡潔に来たメッセージに返信して、どうしたんだろうと考える。
声だけでも聞きたいし電話しようかな。
部屋に着いたら電話してもいいか聞いてみよう。会えないけどこれくらいなら許されるだろうと、文字を打っていたら視界の端のコンビニから見知った人が出てくる。
「……え? あれ!? えええええっ!?」
まっすぐ私に向かって小走……いや全力疾走で駆けてくる人に驚いて、思わずメッセージも中途半端に送信ボタンを押してしまった。
「今日は早く上がれそうだと言っていたから来てしまった!」
早まってしまったなんて照れているのか、頬をかいている眼の前に立った人物――杏寿郎さんに言葉が出ない。
「すまない! この後の予定も聞きもせずに!」
私が何も喋らないから照れた顔から打って変わって慌て始め、釣られるように私も慌てる。
「会いたいって私も思っていたので……びっくりして言葉が……」
会いたいとは思っていたけど、会えると思っていなかったから焦った。帰るだけだったから化粧直しもしていないし、髪も整えていない。
手で髪を撫でて少しでも見目を整えようとしていたら、杏寿郎さんが「良かった」ってほっとした顔をするから髪を撫でていた手が止まった。
こんな可愛く「良かった」なんて口にできる人がこの世にいるなんて、さすが瑠火さんの息子と言わざるを得ない普段とのギャップにやられる。
「……」
「どうしたんだ?」
「……い」
「ん?」
「ズルいです」
「んん?」
「杏寿郎さんが可愛くてズルいです」
「随分突然だな!」
本当に色々突然過ぎて脳直の言葉に、杏寿郎さんはぽかんとしたあと笑った。
「……とりあえず、家に来ますか?」
笑われて途端に恥ずかしくなった私は態とらしく咳払いをして家に誘うと、杏寿郎さんはまた嬉しそうに笑う。
うう、この笑顔は本当に何度見ても私の心の奥をドキドキさせる。
杏寿郎さんはさも当たり前のように私からエコバッグを攫うと、空いた手に自分の手を絡めてきた。
……本当にそういうところですよ。
「お邪魔します」
「どうぞー……って、ああっっっ!」
「!」
平日に杏寿郎さんが私の部屋に来るのが初めてだから浮かれて忘れていた。
私、先週部屋の掃除サボっている。
洗濯物はかろうじて今朝洗濯機へ投げ込んでいたからまだよかったけれど、栄養ドリンクとか雑誌が床に転がっていた。
「すみません、掃除をサボっていて部屋が汚いままあげてしまって……」
私の叫びに驚いた杏寿郎さんは、その理由を聞くと首を動かして部屋をぐるりと見渡す。
部屋が汚いって言っているのにそれを確認するの鬼じゃない? 幻滅される未来しかなくない?
「汚い部類には入らないぞ?」
「そうですか?」
「何も問題ない。俺も掃除は苦手だ」
「でも杏寿郎さんの部屋はいつも綺麗ですよね?」
「ナマエが来るから頑張っている! 俺の働いてる学校の資料室なんて見せられないな!」
「あ、ありがとうございます」
私の為とか、さらりと言われて嬉しくならない訳がない。照れながらお礼を言えば、杏寿郎さんは私の頭をポンポンと撫でてエコバッグに入った物を台所へ持っていくから後を追いかける。
「じゃあ今度、杏寿郎さんのいう資料室の写真見せてくださいね」
「断る!」
「えっ!?」
元気よく拒否する杏寿郎さんはエコバッグを持ったまま腕を組んだ。
「怒られるのが想像に容易いから無理だな! この話はこれでお終いだ」
堂々と宣言する杏寿郎さんは本当にそれ以上話をする気がないらしく、エコバッグの中身を取り出す。私はそのあまりの清々しさに思わず笑ってしまった。
杏寿郎さんを家に招いたのはいいものの、食べ物がスーパーで買った惣菜とつまみしかない。
ご飯を作るつもりのなかった私はどうしようと考えていると、ピザでも取ろうということになって、二人でチーズを伸ばしながら食べた。
二人横に並んでお酒を飲み、買ってきたつまみも食べ終わる頃には夜もだいぶ更けている。
「もうこんな時間か」
テレビの横にある時計を見ながら言う杏寿郎さんに倣って、私も時計を見れば終電の時間には早いけど確かにいい時間。
「え、泊まっていかないんですか?」
よいしょ、と腰を上げようとする杏寿郎さんに、お酒の入った私の口はするりと開いて、言った直後に顔が赤くなった。
何回かうちに泊まっているから、杏寿郎さんの寝間着とか着換え一日分くらいならクローゼットに入っている。
週末だし明日休みだし、そのまま朝まで一緒に居られると思っていたから、私だけその気になってて恥ずかしい。
「あの……、その」
言い訳するのも変だし、取り繕えなくてあわあわしていたら体を寄せられ、床に置いていた手に彼の手が重なった。するりと手の甲がなぞられて、顔を杏寿郎さんに向けようとしたら押さえるように耳元に口が寄せられる。
「泊まってもいいのだろうか?」
床を引っ掻くように小さく爪を立てて頷けば、指を傷つけるなとでもいうように手が攫われて握られた。
「本音を言えば帰りたくなかった。……ありがとう」
依然として耳元にある杏寿郎さんの口から吐息とともに甘い言葉が入ってくる。
熱く感じる手の温度は私なのか杏寿郎さんなのか分からないけど、多分どっちもだろう。
ようやく首を動かして杏寿郎さんの方に顔を向けると触れるだけのキスをされる。
お酒の匂いとつまみの味、微かだけどチーズの匂いもするキス。
何度か啄むように小さく音を立てておでこを合わせたあと、握った手の指がゆっくり絡んで私の指を撫でた。
「泊まるなら風呂に入ろうと思うんだが?」
「……お先にどうぞ。シャワーは一人で浴びてくださいね」
「なんでだっ!?」
甘くなりかけた雰囲気を壊すように杏寿郎さんがショックを受けた顔に変わる。
「いや、お風呂はこの前試して無理だってなりましたよね!?」
「むぅ……」
そう、この前一緒に入ろうと言われたけど狭いから無理だと押し問答した結果、服を着たまま二人で確認することになった。
狭いお風呂場で体格のいい杏寿郎さんとのお風呂は、備え付けの小さな浴槽にどちらかが入ってことを済ませるという、コントみたいなことをしないと無理だと分かってもらえたと思っていたのに。
なんでそんなに一緒に入りたがるのか分からないけれど、その時のことを思い出した杏寿郎さんは渋々といった様子で諦めてくれた。
二人とも風呂も終わって今、私は杏寿郎さんの足の間に座って背中を彼の大きな身体に預けている。
杏寿郎さんの逞しい腕は、私のお腹に回り込んでがっちり組まれていた。
風呂上がりにまったりお茶をしながら、テレビで週末のニュースを見ていたら今週の出来事として働き方改革がどうとか、新卒の求人倍率が上向いたとか流れてくる。
どうやら私は死んだ目をしてそれを見ていたらしく、おいでと言われるままに杏寿郎さんに近寄ったらこの体勢になった。
「どうしたんですか?」
「今週も仕事を頑張ったナマエへのご褒美だ」
「ご褒美……」
杏寿郎さんと付き合い始めて少しずつお互いのことを知ってきたけれど、杏寿郎さんはこうやって私を甘やかす。
外では紳士たる振る舞いで頼もしいのに、二人だけの空間になると途端に甘やかしてくるし甘えてくるから、心を許してくれているんだなっていうのが伝わってくる。
甘やかされるのはとても嬉しい。嬉しいけれども、杏寿郎さんの腕がお腹にあるから気が抜けないし、後頭部から耳裏、うなじにリップ音を立てながらキスされてソワソワしてきた。
「んっ、少し……恥ずかしいんですが」
「うん? でもナマエと俺の体温が融けて気持ちよくないか?」
確かに二人風呂上がりで高めの体温はじんわり混ざって気持ちがいい。気持ち良くて眠くなるほどだ。
お腹に回る逞しい腕が頼もしくて撫でれば、ぴくりと動いて面白い。
「確かに杏寿郎さんの体温、気持ち良いです。安心します」
「うむ、気が凪いだならいいことだ」
「ありがとうございます。温かくて……眠くなりますね」
ふわぁ、とあくびが出てこのまま寝てしまいたいなんて思っていたら、もぞりと動いた腕に目が覚めた。
「え? わ? ぅんっ!」
お腹に回っていた腕が私のスウェットの裾を捲って肌に直接触れる。指先で臍の周りをなぞられて肌が一気に粟立った。
「寝てしまうのか? 俺はナマエともっと融け合いたいのだが?」
「その発言……おじさんくさいですよ」
「よもやっ!」
本当にショックだったみたいで、乾きたてのふわふわした髪の毛の元気がなくなってしなしなしているように見える。
「杏寿郎さん、明日の予定は?」
「明日か? 明日は特に……、夕方からナマエと書道教室に行くくらいだが、どこか行きたい場所でもあるのか?」
「特にないですねー」
首を捻って杏寿郎さんを見上げれば要領を得ない顔をしている。さっきのしょぼしょぼはもうないらしい。
「明日は少し寝坊しませんか?」
「折角の休みだしな」
うん、週末で折角明日休みだしね。
「だから……あー……」
「ん?」
「夜ふかし、しましょうか?」
杏寿郎さんの口が弧を描いていくのがスローモーションで分かる。
「ナマエから夜ふかしの提案をされたら断る道理がないな」
嬉しそうに笑う杏寿郎さんは私の裾の中に入った腕に力を入れると、ギュッと抱き締めてきた。
「ゔっ、苦しっ……」
「すまんすまん」
全然悪気のなさそうな杏寿郎さんはパッと手を離すと、ゆっくり私を自分に向き直させる。
「秋の夜は長いからな。たくさん夜ふかししよう!」
またちょっとおじさんくさいことを言っているけど、今それを口にしたら拗ねて今日の夜が終わってしまう。
だから私は何も言わずに杏寿郎さんの首に腕を回すだけにする。
眠気なんて何処かに吹き飛んでしまった。
週末の金曜日、恋人たちの夜はこれからだ――。
朝起きて、隣に自分以外の温もりがあるのはとても幸せだと思う。
ほんのり口を開けて寝ている杏寿郎さんの顔を見ながらゆっくり、起こさないように手で触る。
目尻付近にある一際長いまつ毛を指の背で撫でれば、弾力が強くて指から離れると面白いくらいに揺れた。
あ、髭……。
いつも泊まるときは事前に言ってて髭剃りとか持参してるから、杏寿郎さんの髭を剃れるものはうちにはない。女性用剃刀でも剃れるかな?
撫でればざらりとする頬を顎にかけて手を動かしていたら、杏寿郎さんの目がぼんやりと開いた。
触っていた手を引っ込めようとすると、寝起きの温かい手が重なる。
「……おはよう」
「おはようございます。起こしちゃいました?」
「だいじょうぶだ……」
むにゃ、とした言い方で目を何度か瞬かせて言う杏寿郎さんが可愛い。
寝ぼけ眼も、無精髭も、下りた前髪も全部今は私だけのもの。
朝から幸せばかり感じて頬が緩む。
「ん? 何かいい夢でも見たのか?」
「寝起きの杏寿郎さんは可愛いと思ったんです」
言葉の意味を頭の中で考えたのか一瞬押し黙る杏寿郎さんは、意味を理解したあと布団に潜りながら私の胸に顔を埋めた。
「昨日から「可愛い」と何度か言われているが、ナマエの前では格好良くいたい」
だからその行動が可愛いっていうのを理解してほしい。
「私の前でだけ可愛い杏寿郎さん見せてください」
もぞりと布団から顔を覗かせる杏寿郎さんの髪をわしゃわしゃとさせれば、気持ち良さそうに目を細めるからどうしようもないほどの愛しさというか、母性みたいのが働いて頬の筋肉は活動を止めてしまった。
一人暮らしの小さなベッドの中、二人でふわふわした時間を暫く堪能する。
「ふぁ……起きようか」
「そうですね。あ、そうだ!」
起き上がって杏寿郎さんの後ろ髪の跳ねを見ていたらさっき思ったことを思い出した。
「どうした?」
「杏寿郎さんの髭。うち髭剃りないんですよね。女性用の剃刀でよければ新品卸しますけど」
髭。あっても全然構わないというか、いつもと違うワイルドな感じがして嫌いじゃないからそのままでもいいんだけど。
そんな私の煩悩と建前で葛藤をしているのを他所に、杏寿郎さんは自分のカバンの中からビニール袋を取り出した。
「大丈夫だ! 持ってきている!」
「……」
ババン、と効果音がつくように私に見せるそれは、杏寿郎さんの家の洗面所で見たことある電子髭剃り。
急遽コンビニで買ったわけでもなく、家からそれをわざわざ持ってきたって……。
「泊まる気満々だったんじゃないですか!」
「はっはっはっ! 備えあれば憂いなしだ!」
棒読みで笑う杏寿郎さんを睨んでも効果は全く無い。
私もベッドから足を下ろして立ち上がれば、すぐ目の前に影が落ちた。
「杏寿郎さん?」
「寝起きのナマエも十分可愛いぞ」
「なっ!?」
私の口元を親指で拭うと、また笑いながら洗面所に向かう杏寿郎さん。
私は立ち上がったばかりなのにベッドに腰を下ろす。
朝の寝起きで爆弾を落とさないでほしい、っていうか、今絶対に涎の跡を拭かれたっぽくて恥ずかしさで穴があったら入りたい。
洗面所から微かに聞こえてくる水の流れる音を聞きながら、私は顔の熱を冷ました。