#2

「煉獄先生さよーならー」
「ああ、さようなら! 気をつけて帰るんだぞ」
 放課後、すれ違う生徒に別れの挨拶をしつつ歴史資料室の扉を開く。
 日に灼けるのを避けるため年中薄いカーテンが掛かっている室内は、放課後ともなると暗さを増していた。
 カーテンの隙間から外を覗いてみれば数ヶ月前の日の強さは見る影もなく、地面に落ち始めた葉を用務員の鱗滝殿が忙しく掃いている。
 無機質な白い蛍光灯を点けて、俺は今日の授業で使用した資料を室内のテーブルに無造作に置いた。
「明日の授業で使う資料の準備もするか」
 明日の授業内容を頭の中で反芻して使う資料を棚から取り出す。細かい資料は明日でも大丈夫だろう。
 さて、今日はもう帰ろうと伸びをしながら室内をなんとなく見やる。
 今日使った資料を片付けることもせず、横に次の資料を置いている。それが常だから資料が横並びに山の稜線を描くようになっていた。
 ふむ……。この部屋の汚さというか、乱雑さはやはり彼女には見せられない。
 まあ、彼女に見せることはないから当分このままでもいいだろう。
 もうすぐ年末だし大掃除のときに片付ければいい。俺は資料の山に見ないふりをして資料室を後にした。

「れーんごーくせんせっ♡」
 職員室に戻り帰り支度をしていると、隣の席から高めの声で名を呼ばれる。
「宇髄か! どうしたその気色の悪い声は? 風邪なら早めの休息を勧める」
「ばっか、俺様が風邪なんて地味なもんに罹るわけねぇだろ。派手に健康だよ」
「そうか、それは良かった」
 いつもどおりの声音に戻った宇髄に安心して支度を再開すると、声音は戻ったが口調は軽いまま話しかけてきた。
「煉獄先生がぁ〜、この前ぇ〜、彼女とぉ、手を繋いで歩いているのを見ちゃいましたぁ〜♡」
「そうなのか? 声をかけてくれればいいのに」
「彼女とのラブラブタイムを邪魔するほど野暮じゃないですぅ〜」
「らぶらぶ……」
 彼女との逢瀬は他人から見たらそうなるのだろうが、改めて言われるとむず痒さを感じる。
「煉獄先生はぁ〜、彼女とデートしているときいつもあんな感じなんですかぁ〜?」
「あんな感じとは?」
「えぇぇ〜! 無自覚ぅっ!」
 両手で口を覆う仕草で、軽い口調のまま何を言いたいのか内容が全く見えてこなくて首を傾げるが、宇髄は一人納得したように顔をニヤつかせている。
「学校で見ないくらいニコニコしてましたよぉ♡」
「そうなのか? まあ、彼女と会う時間は楽しいからな」
「ナチュラルに惚気マウントかよぉ〜。ちなみにぃ、デート現場を生徒たちに見られたら煉獄センセーはどうするんですかぁ?」
「どうするも何も疚しいことは何一つしていないからな。普通に接するが?」
「あーそうだそうだ。お前はそんなやつだった」
 やっと口調が元に戻った宇髄は手を後ろに組みながらガム風船を膨らませた。
「何か問題があるのだろうか?」
 宇髄はパチン、と音を立て風船を割りその言葉だけ言うと手ぶらで立ち上がる。
「今まで女と長続きしないし、あんまり興味がなさそうだったお前が幸せそうで良かったってことだよ」
「う、む。ありがとう!」
 傍から見て幸せそうに見えているならいいことだ。
 彼女に今の話をしたらどんな反応をするだろうか?
 何気ないふりを装っても嬉しさを隠しきれずに、頬を赤に染めて口角を上げる彼女を想像したら無性に会いたくなってきた。
「恋愛初心者に近い煉獄センセーに俺様がいいアドバイスをしてやるよ」
「なんだろうか?」
 宇髄の表情に一抹の不安を感じるが、俺を思っての助言なら聞かないわけにはいかない。宇髄は俺に近付くと声を潜める。
「いつナニがあってもいいようにゴムは財布の中に入れておけよ?」
「なっ! 宇髄! ここは学校だぞ!」
「お先ー」
 動揺して思わず大きな声を出してしまい、周りの先生がこちらを向く中、宇髄は手を振りながら職員室を出ていった。

* * *

 土曜日恒例、書道教室の前に瑠火さんと夕食の支度をする。
 お吸い物の出汁の味見をしてむぅ、と声が出た。
 うーん、瑠火さんに教えて貰って作っているけどやっぱり味が違う。分量は目安だと言っていたからその微妙な調節加減なのかな。
「どうかしましたか?」
「なかなか瑠火さんの味に近付けないなと思いまして」
 私の声を拾った瑠火さんが話しかけてきてくれたので、思ったことをそのまま告げれば瑠火さんが味見をしてくれる。
「そうでしょうか? 同じに感じますが」
「説明が難しいんですが口の中で広がる風味が全然違うんですよね」
 初めて瑠火さんのお吸い物を口にしたのは、杏寿郎さんとも全然親しくなっていない時。書道教室の後、流れで夕食のご相伴に預かった際に優しく鼻を抜ける風味に感嘆の息が漏れた。それからこの味を私も作ってみたくて、書道教室の前に瑠火さんに料理を習い、書道教室のあとにご飯を一緒に食べる習慣も始まったんだ。
「全て私と同じにならなくとも良いのです。私は貴女の作る出汁の味は好きですよ」
 瑠火さんはいつも私を元気にしてくれる言葉をくれる。心からの言葉ですよ、と言われてそれ以上自分を卑下するのは逆に相手に失礼だと、私はお礼を言って夕食作りを再開した。

 土曜日で学校は休みだけれど、教師はなかなかにやることが多いらしい。
 杏寿郎さんは今日、学校で提出しなければいけない資料作成など細かい仕事があると言って、書道教室はもちろん夕食の場にもいなかった。
 夕食が終わる頃、私と瑠火さんに《これから帰ります》と杏寿郎さんから簡潔なメッセージが届く。
 今日はもう帰ろうと思っていたけど、杏寿郎さんが来るならもう少し居てもいいかな。
 居座って迷惑ではないだろうかとそわそわしていたら、槇寿郎さんが晩酌していきなさいと声を掛けてくれた。
 煉獄家の皆さんは空気を読むのと作る力が凄いと思う。
 私が遠慮することのないように、絶妙なタイミングで提案をしてくれるからお言葉に甘えてしまう。
 この空気の作り方や、相手に気遣わせない流れは仕事でも大事だから密かに勉強させてもらっていた。

「ただいま戻りました!」
 大人勢はお酒を飲み、千寿郎くんはお茶を片手に学校での出来事や今流行っていることを喋っていると、元気な声が玄関から聞こえて杏寿郎さんの帰宅を全員に伝える。
「出迎えをお願いしてもいいでしょうか?」
「はい!」
 瑠火さんのお願いに断る理由もない私は、元気よく立ち上がって玄関に向かった。
「杏寿郎さん、おかえりなさい!」
 靴を脱いでいる杏寿郎さんに駆け寄って声を掛けると、杏寿郎さんの動きが止まる。
 あれ? 私変なこと言った? 顔見えないけれど杏寿郎さんだよね?
「ただいま」
 ゆっくり顔を上げた杏寿郎さんはいつもの溌剌とした声ではなく、優しい声音で返してきた。
 あ、これは……一緒に住んでるみたいで嬉し恥ずかしい感情がヤバい。
「か、カバン預かります」
 テンパってる。
 ワタシ、イマ、モノスゴク、テンパッテル。
 嫁かよ!? ってセルフツッコミが凄い。どうする? 何をどうやってこの場を切り抜ければいいの?
「ありがとう。出汁のいい匂いがするな。今日の夕食はなんだろうか?」
「今日はさつまいもコロッケがメインで、他にも杏寿郎さんの好きなさつまいも中心のメニューなんですよ。お味噌汁はですね……っ!」
 そこでハッとする。ダメ押しに献立のやり取りとか、聞かれて嬉しかったとはいえ、私は更に墓穴を掘るように自分の話をしてしまった。
 穴があったらではなく、自分で入る穴を掘れって自分自身をひっぱたきたい。
 受け取ったカバンを抱えたまましゃがむ私に杏寿郎さんがどうした? って心配してくれるけど今は顔を見られたくない。
「ちょっと、今……自己嫌悪というか、猛省中です」
「何にだ? 何かあったのか?」
「人様の家で我が物顔で出しゃばり過ぎていました……」
「なんだ、そんなことか」
 私としては“そんなこと”で済まなくて、蹲ったままでいると背中に手を置かれてポンポンと叩かれる。
「ここが自分の家だと思って振る舞ってくれていたならこんなに喜ばしいことはないぞ?」
 優しい杏寿郎さんのフォローにそろりと顔を上げれば、嘘はついていない様子に一安心――したのも一瞬だった。
「母上もそう思いませんか?」
「え゛っ!?」
 ゆっくり首を回せば瑠火さんが凛と、見目麗しく立っている。
 “立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花”とか瑠火さんのためにある言葉だと思う。瑠火さんに似合う花は桔梗が一番なんだけれど。
 いや、それよりも聞かれていた。ここはあんたの家じゃないんだなんて瑠火さんは言わないだろうけど、それでも少しでも否定の言葉が出てきたら泣く。穴は墓に早変わりする。
「ええ、貴女がよければ娘に迎え入れたいくらいですよ」
 どんな言葉が来てもいいように構えていたら、瑠火さんはにこりと微笑むと私のテンションのあがる言葉をくれた。
 え? いいの? 前も真剣に考えたけど杏寿郎さんとのことは別として、養子縁組でいいなら瑠火さんの娘になりたい。
「……母上」
 私と反対に杏寿郎さんは声のトーンを落とす。え、なに? 杏寿郎さんの声が特段低いけど反抗期?
「ふふ、すみません。さあ、ご飯が冷めてしまいますから早く手を洗ってきなさい。今日のお味噌汁は彼女のお手製ですよ」
 瑠火さんはそんな杏寿郎さんを見て、一度驚いたような顔をするけど意に介さず居間に歩いていく。
「えっと、なにか怒ってます?」
「……いや、大丈夫だ」
 杏寿郎さんは私のおでこに軽くキスをすると、何事もなかったように洗面所へ歩いていった。

* * *

 杏寿郎さんは夕食を、それ以外の人たちは杏寿郎さんが帰ってくる前と同じようにお茶やお酒を飲んでいる。
「そういえば離れの改修が始まって結構経ちますね」
 離れは未だに保護シートのようなものが巻かれていて、工事が長引いている様子だ。
「間取りも少し変更して、電気ガス水道も整え直しているので来年の春くらいまでかかる予定ですね」
「へえ、結構大規模なんですね」
「……ん? 杏寿郎から聞いていないのか?」
 瑠火さんの言葉に反応したら、槇寿郎さんがお猪口を置いて不思議そうな顔で私を見てきた。
「なにをですか?」
「父上っ!」
 ご飯を「うまい! うまい!」って言いながら食べていた杏寿郎さんが突然槇寿郎さんを制するように呼ぶから、みんなが杏寿郎さんに注目する。
「な、なんだ?」
「っ、いえ、父上の周りに虫が飛んでいたので! もういないようです。失礼しました!」
 虫なんていなかったと思うんだけど……。
 杏寿郎さんはご飯を一気にかきこむと「ごちそうさま!」と言って手際よく後片付けを始めた。
「杏寿郎さん? どうしたんですか?」
「ん? 何がだ? 時間ももう遅いからな! 本日も美味しい夕食をごちそうさまでした。今日は帰ります」
 確かにこの時間ならそろそろおいとましなきゃいけない時間だけど、それにしても急過ぎる。
 呆気に取られていると杏寿郎さんはあっという間に帰り支度を完了させていたので、私も慌てて支度を整えた。

* * *

「おじゃましました。また来週お願いします」
「はい、また来週」
「気を付けて帰ってくださいね」
「杏寿郎、道中気を付けるように」
「お任せください」
 玄関で杏寿郎さんと並んで挨拶すれば瑠火さん始め、槇寿郎さん、千寿郎くんがそれぞれ声をかけてくれる。
 見送りに手を振って杏寿郎さんと二人で門を潜り出ると、どちらからともなく身を寄せて指を絡めた。
 今日は杏寿郎さんが一人暮らしをしている中長期滞在型の、いわゆるマンスリーマンションにお泊まり。
 彼の住むマンションの狭い廊下は横に並ぶことが出来なくて、揺れるハーフアップを後ろから見ながら歩く。
 横でも前後でも繋がっている手が離れることはなくて、手が離れるのは彼が玄関の鍵を開けるときくらい。
 靴箱の上には夏祭りの射的で杏寿郎さんが取った向日葵のおもちゃが置かれていて、スイッチを切っているから動かないそれを横目にしながら靴を脱いでいく。

「おじゃましまーす……ん?」
 レディファーストのように先に入るよう促されて玄関に上がったのに、杏寿郎さんはまだ玄関の外の共同廊下に立っていた。
「どうしたんですか?」
「ん? ……」
「……ん?」
 反応はしたけど何も答えない杏寿郎さんにどうしたんだろうと首を傾げる。
 靴を突っかけるように履き直して、杏寿郎さんに寄ろうとしたらストップをかけられた。
「待った! そのままそこに居てくれ! 一度玄関を閉める!」
「ええ?」
 何これ一体どういうこと?
 家の中にポツンと残されて、状況を整理できずにいたら閉じたばかりの玄関の扉が開く。
「ただいまっ!」
「え? はい、おかえりなさ、い?」
 条件反射で「おかえり」って言ったら、杏寿郎さんは満足したのか満面の笑みで靴を脱ぎだした。
「実家でナマエが出迎えてくれたのが嬉しくてな!」
 その話を出されて煉獄家で自分の家のように振る舞ったことを思い出して、一気に羞恥心が私を襲う。
「どうした? また何か反省中か?」
 見上げれば杏寿郎さんは相変わらずニコニコしていて、さっきと同じように蹲る私に“また”と言っているあたり、意地が悪く見えるのは私だけだろうか?
 手を差し出され、素直にその手に掴まればぐいっと引き上げられてそのまま胸にダイブした。
「いつか毎日聞けるといいな」
「っ!」
 小さな声で早口で喋ったつもりだろうけど、私の耳にしっかり入ったその言葉は顔を更に赤くさせるには十分すぎるほどの破壊力。
 杏寿郎さんも自分で言ってて恥ずかしかったのか顔を赤くしているから、玄関で微妙な沈黙が流れる。
「……部屋に入ろう」
「そうですね」
 とりあえずこの話はこれでおしまい。

 いつか――、いつか杏寿郎さんの言うように彼と迎えるこんな毎日が来るといいな。

* * *

 一人暮らしの家の廊下なんて数歩で部屋に辿り着く。
 杏寿郎さんの後に付いて、部屋の扉を開けるのを待っていたら彼はドアノブに手をかけて止まった。
「先に洗面所で手洗いうがいをして、申し訳ないがそこで待っててくれないか!?」
「えええ? 今度は何ですか!?」
 いつもみたいに荷物を部屋に置いてから洗面所に行こうと思っていたのに、有無を言わさず私は荷物ごと洗面所へおいやられる。
 わけも分からずぽかんとしていたら扉の向こうで何やらガタガタと大きめな物音が聞こえてきた。
 今日はこんなのが多いな。
 とりあえず目的の手洗いうがいをして、手持ち無沙汰になったからスマホを取り出す。SNSチェックと嫌嫌仕事のメールチェック……良かった。明日の日曜日は平穏に過ごせそう。
 仕事の憂いがなくなった私は、ネットの世界から離脱して自分のスマホのローカルにある写真フォルダを開いた。
「えーと……」
 今日撮った写真を“煉獄家フォルダ”に仕分けしていく。
 これは私の楽しみ。
 瑠火さんや瑠火さんや瑠火さんと撮った写真が大半を占めるフォルダを眺める。
 はぁ、今日も瑠火さん美しかったな。
 料理のとき私の取った出汁が好きって言ってくれた!
 あのときの瑠火さんの笑顔が写真に残っていないのが心残りで、今度ウェブカメラでも買おうかと思ったくらいだ。あれは動画で残したかった。

 瑠火さんの写真の他にも、千寿郎くんや槇寿郎さんたちとも撮った写真を見て、マトリョーシカみたいだと口が綻ぶ。男性陣はパッと見の印象が槇寿郎さんそっくり。
 だけどよく見れば瑠火さんの面影もあるから、遺伝って不思議だなとつくづく思う。
 女の子が生まれていたら瑠火さんに似たのかな。もしそうだったら箱入りに育てられそう。
 杏寿郎さんは千寿郎くんのことをよく気にかけているから、槇寿郎さんだけじゃなくて杏寿郎さんも妹セコム強そうだな。
 槇寿郎さんや杏寿郎さんの溺愛ぶりを瑠火さんや千寿郎くんが窘めそうだと想像してまたにこにこしていたら、廊下から足音が聞こえて扉が開いた。
「すまないっ! 閉じ込めるようなことをしてしまって」
「いや、それは大丈夫なんですけど……それは?」
「これは……その……」
 杏寿郎さんの腕には溢れる程の服が抱えられている。
「洗濯物ですか?」
「……」
「杏寿郎さん?」
「今週は忙しくて片付けを……怠っていたので……部屋が汚くて」
 この前の私と同じことを言う杏寿郎さんに、ガタガタとした物音は片付けしてた音だったのかと理解した。
 怒られると思っているのか、呆れられると思っているのか杏寿郎さんは途切れがちに言葉を紡いでいる。
 私のときは気にせず部屋の中を見渡したんだから私だって見てもいいのでは?
「隠さなきゃいけないものとかは隠しました?」
「む? 隠さなければいけないものとは?」
 首を傾げる杏寿郎さんに、片付けの中にアダルト的なものも含まれると勝手に考えてしまってごめんなさいと心の中だけで謝って言葉を濁す。
「私もこの前掃除しないままだったし、気にしませんよ?」
「いや、ナマエの部屋とは比にならない!」
「でもここで待つの疲れました」
「うっ……」
 暗に早く部屋に通してくれと言えば、自分の部屋の汚さを晒すのと私のおもてなしを天秤にかけ、後者を取ってくれた。
 もう何度も訪れている部屋は前とそう変わらない。
 ゴミや洗濯物は片付けたと言っていたし、強いて言えばテーブルの上の資料やプリントが散乱しているくらい。
「全然じゃないですか?」
「テーブル周りが酷くてな。日頃の片付けもできず不甲斐ない」
「仕事忙しいとこんな風になりますよ。私の場合、家だけじゃなくて会社の机も酷いですし」
「俺も学校の資料室は酷い」
「あはは、前言ってましたもんね」
 気にすることないと笑い飛ばせばやっと調子を取り戻し始めた杏寿郎さんにほっとした。
「それにしてもペンがたくさん転がってるのが不思議なんですが」
「ああ、使おうとするペンが尽くインク切れを起こしていてな。避けておいたんだ」
 テーブルの上にはボールペンやら赤ペンやらが文具屋かなと思う程度に転がっている。
 杏寿郎さんは雑にそれらのペンを掴むとペンケースに押し込んでいた。
「ギュウギュウですね」
「取捨することをあまりしないからどんどん増えてしまう」
「杏寿郎さんってお気に入りの文具メーカーとかあるんですか?」
「然程こだわりはないな。ペンも書ければいい程度だ」
 ふむふむ、文具にこだわりはない、と。
 杏寿郎さんの嗜好を脳内にメモしていると、背中を押された。
「俺はもう少し片付けるから先に風呂に入ってきてくれ」
「先に杏寿郎さんが入ってくださいよ。片付けも手伝えるなら手伝いますよ?」
「む……いや、今日はナマエが先に入ってくれ。それに片付けは俺一人でやる!」
 今何を思い悩んだろうという間が気になるけど、杏寿郎さんの言葉に甘えて先にお風呂をいただくことにする。
 この資料はここ、とかルールがあるかもしれないし。
「じゃあ先にお風呂いただきます」
「うむ! ゆっくりしてくるといい!」
 いや、湯船にお湯張ってないしシャワーだけですけどね?
 やっぱり杏寿郎さんの挙動はちょっと変だった。

* * *

 彼女が風呂に入ったのを見届けてから寝室に向かう。
 ベッドを整えるのも大事だがそれより前にゴミ箱を綺麗にしたかった。
 彼女が先程言った“見られたらまずいものを片付けたか”という問いに真っ先に頭に浮かんだのがコレだった。
 仕事で疲れると生存本能が働くのか、身体が火照って自身を慰めた名残りがゴミ箱に入っている。
 片付けは後でやろうを繰り返して、すっかり失念していたゴミ箱の中身を大きいゴミ袋に一気に入れる。
「これで……大丈夫か?」
 床に落とし漏れがないか確認しながら寝室をあとにしてテーブルの前に座った。
 どうにかなったはずだが、何か片付け忘れがあるような気がしてならない。
 再度寝室を見に行こうと腰を上げかけてやめる。
 最低限は片付けたし、寝室だけやけに綺麗になっていて彼女に怪しまれないとも限らない。
 違うことを考えようと、俺はテーブルの上にまだ残っていた学校の資料に手を伸ばした。

* * *

 お風呂をいただいて歯も磨いて、部屋に戻ってくると杏寿郎さんはテーブルで作業をしている。
 邪魔しちゃ悪いと少し離れたところに座ってスマホの写真整理の続きをしていると、ノートを閉じる音が聞こえた。
 眉間に指を当ててほぐしていたので、そっと近付いて後ろから抱き着けばビクッと跳ねる体に思わず笑ってしまう。
「お仕事お疲れさまです」
 膝立ちで覆いかぶさるようにして、彼の長いもみあげを耳に掛けて唇を落とす。
 この前杏寿郎さんがそうやって私の疲れを癒やしてくれたのを真似して、次はうなじを顕にした。
 普段髪の毛で隠されていて、見ることが出来る人は限られているはず。だからそこを見るのを許してもらえているのだと思うと愛しさが増していく。
 うなじを撫でて食むようにしていれば擽ったいのか身を捩る杏寿郎さん。
「逃げないでください」
「む、しかし……」
「この前杏寿郎さんがやってくれたように、今は私が杏寿郎さんを癒やしているんですから」
「……」
 動かなくなった杏寿郎さんにこれ幸いと、また唇を落としてうなじを再度見る。
 ……普段隠れているならここにキスマーク付けたら怒るかな?
 いや、でもどんなタイミングで髪を上げるか分からないし止めておこう。
 好きなだけ杏寿郎さんの髪をわしゃわしゃして満足した私は、顔を首元に埋めながらまた抱き着いた。
 杏寿郎さんの鎖骨のあたりで自分の手を結べばそっと彼の手が重なる。
「お風呂上がりの私の体温気持ちいいですか?」
「……」
「?」
「うむ! 癒やされる! だがもっと癒やされたい!」
「わっ、」
 言うのと行動を起こすのと、どっちが先か分からない程の早さで杏寿郎さんは器用に体を反転させると、私の膝立ちを止めさせた。
「え、なん――!?」
 今日はそんな気分じゃないから身構えたのに、杏寿郎さんは寝そべると頭を私の太ももに乗せて見上げてくる。
「何をされると思ったのだろうか?」
 からかうように言われて「何も!」と返せば、杏寿郎さんは静かに笑いつつ、頭の収まりのいい場所を探して私に巻き付いた。
「頭……撫でてくれないか」
 小さな声でお願いする杏寿郎さんが可愛くてびっくりする。
 瑠火さん、どうやったら息子がこんな可愛いく育つんですか!?
 叫びたくなるのをなんとか心の中に押し留めて、さっきも好き勝手触っていた彼の髪に指を埋める。
 癖のある髪は硬そうなのに、見た目に反して柔らかく指を通すから気持ち良くて何度も繰り返した。
 彼も気持ちいいのか膝枕をされながら擦り寄る仕草は、獅子のような威風は鳴りを潜めてむしろ猫に近い。
「ナマエに甘やかされるのは気持ちいいし、凄く安心するんだ……」
「ふふ、大きな子どもが居ますね」
 あやすようにぽんぽんと撫でると杏寿郎さんは目を細めたあとゆっくり目を閉じた。
「母上みたいだな」
 ん? 瑠火さんみたい……?
 そこは喜んでいいの、か?
 瑠火さんみたいになりたいとは思うけど、杏寿郎さんのお母さんになりたいわけじゃない。
 どういうつもりで言ったんだろう?
 素直に喜べなくて、黙ったまま撫でていたら杏寿郎さんから小さく寝息が聞こえてきた。
 寝ちゃった。更にどうしよう。
 だいぶお疲れだったのかな。起こすのも悪いけど寝るならちゃんとベッドで寝てほしい。
 とりあえず10分くらい寝かせて、起きる気配がなければ眠りが深くなる前に起こそう。
 そう自分の中で時間制限を設けて、寝てしまった杏寿郎さんの顔を観察する。
 まつ毛長い。いつもはキリっと上がっている眉も眉尻が下がって幼く見える。触れる肌は自分と違って硬いって表現が正しいのかな? 余計な肉がついていないのが羨ましい。
 髪の毛先の赤は一体どういう原理で赤く変わるんだろう?
 染めていないって言ってて、自然と色が変わると言っていたけど……。

 杏寿郎さんを観察しているから当たり前なんだけど、彼のことばっかり考えて、ずぶずぶと沼にはまっていっているなと我ながら思ってしまう。
 初めて会ったとき私の態度は最悪だったのに、今こうして過ごしていることが不思議だ。
 どこで好かれたんだろうって聞いてみたいけど、杏寿郎さんのお母さん――瑠火さんに似ているからだって言われたらショックかも知れない。
 この雰囲気を今は壊したくないし、聞きたいけど聞くのがちょっと怖くなる。
「駄目だ。ネガティブやめよう」
 一人頭を振って、杏寿郎さんを起こさないように体を伸ばして自分のバッグを手元に引っ張った。
 バッグの中から化粧ポーチを出して、その中にある更に小さな巾着を取り出す。
 七宝焼で作られた桔梗のバッグチャームは杏寿郎さんからの初めての贈り物。
 付き合う前に瑠火さんの誕生日プレゼント選びのときにくれたこれは、瑠火さんとお揃い。瑠火さんは帯留めだけど私のはバッグチャームになっていた。
 仕事が辛いときとか、疲れたときとか、タイミングが合わなくて杏寿郎さんに会えないときに出して眺める。
 傾ければキラリと光る桔梗を眺めて、大丈夫だと自分に言い聞かせていたら持っていた手が大きな手に包まれた。
「いつも持っているのか?」
 いつの間に起きたんだろう。目をしっかりと開けて私の手の中にある桔梗のバッグチャームに移動して撫でる杏寿郎さん。
「バッグに付けていたら知らない間に結構傷ついていたから外したんです。でも、いつも持ち歩いていたくて」
 出したときと同じように巾着に仕舞って、化粧ポーチに仕舞って最後にバッグに仕舞う。
「間違って落として無くさないようにってしてたらこんな風にどんどん仕舞われていっちゃいました」
 仕舞う一連の流れを杏寿郎さんは見て笑った。
「過剰包装が過ぎるな! いざというときすぐ出せないんじゃないか?」
「いいんです。私の宝物なので人に見せるものでもないですし。それよりも無くす方が嫌です」
 そう胸を張って言ったら杏寿郎さんは呆れの笑いから嬉しそうな笑いに変わる。
「贈った者としては嬉しいな」
 腹筋だけで起き上がって私の頬を撫でると、触れるだけのキスをしてきた。
 うん、お母さんならこんなことしないよね。だいぶ引きずっているなあと思いつつ杏寿郎さんの胸に頭を預ける。
「……杏寿郎さんも早くお風呂入ってきてください」
「ナマエからもしてくれないのか?」
「ええっ!?」
 思わず顔を離して杏寿郎さんから逃げようとしたら、先回りされていて腰ががっちり掴まれていた。
 ここで押し問答して長引かせてハードルを上げるより、早く彼の要望を満たして終わらせたほうがいい。
 そう判断して杏寿郎さんの肩に手を置いた。
「目、瞑ってください」
「ん」
 キス待ちの杏寿郎さんの少し尖らせた唇が可愛いくて口角が上がる。
 触れるだけのキスをして離れて、私の唇はまた杏寿郎さんの唇に触れた。
 啄むように何度も小さくチュっと音を立てる。
「はい、終わりです」
 そう言って締めたら、目を開けた杏寿郎さんは自分で舌なめずりして見せると、舌を出したまま私の唇を舐めてきた。
「きょ、……っん」
 上唇を捲るようにベロリと舐めると同時に、首筋を無骨な指が撫で上げるから小さく息が漏れる。
「愛いな」
「もっ、今日は……ここまで」
 最後とばかりに唇を合わせるだけのキスは直ぐに離れなくて、息が持たずに肩を叩いたらやっと離れてくれた。
「よし、シャワーを浴びてくる!」
 どうやら満足したらしいけど、目も覚めたのかだいぶ口調がはっきりしている杏寿郎さん。
 寝れるのかな? なんて思っていたら手を引っ張られて立ち上がると「先に寝室に行っていてくれ」とだけ言って彼はお風呂へ行った。
 うん、寝れないかもしれない。

 寝室に行けばベッドの上が乱れていて、今週の杏寿郎さんの忙しさや疲れの度合いを感じる。
 私今日来ないほうが良かったんじゃないのか?
 明日休みならベッドで一人ゆっくり寝たほうがいいのかと思いながら布団を整えていると、烏の行水の速さで杏寿郎さんが戻ってきた。
「あっ!」
 開口一番の声の大きさに驚いて私の体が跳ねる。
「え? すみません、勝手にやっちゃ何かマズかったですか?」
「ベッドのことを忘れて……いや、なんでもない。整えてくれてありがとう」
「? どういたしまして」
 大きな声に驚いたけど、お礼を言われてほっとした。
 私に代わって杏寿郎さんが最後の仕上げに枕を整えて、二人ベッドに潜り込む。
「うーむ。明日買い物に行きたいんだがどうだろうか?」
「いいですよ。何買うんですか?」
「枕だ」
「枕?」
 枕って今まさに私たちが頭を乗せている寝具だよね? 今使っているの寝心地よくないのかな?
「俺のではないぞ」
「誰かへのプレゼントですか?」
 自分のではないっていうことは誰のだろう? 煉獄家の誰かが誕生日近いのかな?
「ナマエが俺の部屋に泊まるときに使う枕だ」
「私の?」
「今ナマエが使っているのは来客用のやつだからな。ナマエの頭に合わないんじゃないか?」
「うーん、別に枕にこだわりはないので気にしたことなかったですけど」
 私は別に枕が変わったら眠れないとかいう性格ではないから、言葉の通り気にしたことがない。
「折角ならナマエを安眠させたい」
 なんか永眠みたいな物騒な言葉に聞こえるの気の所為だろうか?
 流石に考えすぎだと考えを切り替える。
「そうしたら私も欲しいです」
「ん?」
「杏寿郎さんがうちに泊まるときに使う枕」
 来客用のありあわせのものじゃなくて、“杏寿郎さん用”の枕。
「じゃあ明日の買い物は決まりだな!」
「ですね!」
 ぎゅーっと抱き締められて私の枕はあっという間に杏寿郎さんの腕に変わった。
 この杏寿郎さんの硬いけど温かい腕枕が一番寝心地いいかも。
 私もしかして枕要らないんじゃないか?
 杏寿郎さんの温もりと匂いに包まれながら、私はあっという間に眠りに落ちた。